38:俺の獲物に手を出すな
ニハの指定した場所――伊波の滝に、二人はたどり着いてしまった。辺りを見渡してみても、イチの姿は見当たらない。隠しきれない落胆が、それぞれの肩にのしかかった。
『帰るわよ』
「この先に……いると思うか?」
『どうかしらね。……でも、この先にいたとしても、あたしたちにはどうすることもできないわよ』
それは暗に、自分の無力さを嘆いているようにも聞こえた。
ニハはきびすを返して坂道を降りる。
『それに案外、あたし達が知らないだけで、成仏しちゃってるのかもしれないし。それがあの子の本望なら、あたし達が何か言えた立場でもないでしょ』
「でも……お別れくらい、矢代が」
『もう死んじゃってるんだし。お別れも何もないわよ』
「…………」
あまりに達観した物言いに、修平は違和感を感じると共に、やるせない思いに捕らわれた。普段はあんなに人間味溢れているくせに、どうしてこういうときだけ幽霊だということを強調するのか。そうやって線引きされると、もう修平には返す言葉もなかった。
帰途は、行き以上に会話がなかった。行きに比べて、除霊すべき霊がいなかったにもかかわらず、である。おまけに、下り坂なのでそう時間がかかることもない。ただ、違和感に立ち止まったのは、ニハだった。麓まであと百メートルほどの場所で、彼女は急に足を止めたのだ。ニハのすぐ後ろを歩いていた修平も、自ずと立ち止まる。
「どうしたんだ?」
『……さんこが』
「矢代が?」
『さんこが、あっちにいる』
スッと彼女が指さしたのは、道を大きく外れた雑木林の中だ。修平は不審に眉を寄せた。
「何言ってるんだ? そんなところにいるわけが――」
『いるの。あたしには分かるの。さんこのことだもの』
修平の制止を待たずにニハはずんずん先へ行った。修平は思わず頭を抱える。
「おいっ! おま……そんな勝手な――」
だが、こんな山に幽霊一人置いていくわけにも行かない。修平は散々迷った挙げ句、木々を分け入って登るしかなかった。
「ちょ、待てよ! お前と違って俺は地面登るしかないんだから、ちょっとくらい待てって……!」
しかしニハは振り返りもしない。自分勝手な幽霊だと、修平は呆れかえりながら後を追った。
ニハが通る道は、もはや道と言えない急斜面だった。せめてもの救いは、木々が散在して生えているため、それを頼りに登ることができることくらいか。道からは大きく外れているため、一休みできる平坦な場所さえない。そんな斜面も、いつしかごつごつとした岩肌に変わっていった。一体どこへ向かってるんだと文句の一つも言いたくなったとき、遠くから微かに音が聞こえてことに気がついた。それは、先の伊波の滝でもよく聞いた音――。
「ここに通じていたのか……」
無言で登り続けること約五分、修平は、大きな岩の上に立っていた。眼前には、伊波の滝――正確には滝壺だが――が広がっていた。勢いよく大量の水が滝壺に流れ込んでおり、辺りには轟音が鳴り響いていた。
キョロキョロと見回すと、ニハは滝壺のすぐ近くにいた。いつの間にそこまでいったのか、と修平は疑問に思ったが、なんてことはない、そういえば彼女は幽霊だったとすぐに思い出した。
ここで彼女に向かって声を張り上げてもどうせ聞こえないので、修平は自らニハの元まで行くことにした。大小様々な岩が連なるそこは、歩きづらいことこの上なかった。何度も滑りそうになりながら、修平はようやくニハの元までたどり着いた。
「――で、矢代はいたのか?」
半ばからかい気味で修平はそう聞いた。いくら守護霊とはいえ、矢代がこんなところにいるわけがないと、修平はもう引き返す気でいた。が、ニハはそういかなかった。
『いた』
短く返事をする彼女に、どこにと修平が問う間もなく、ニハはスーッと滝の中に消えていった。
「はっ――え、おい!」
修平は思わず手を伸ばすが、彼女に届くわけもない。
霊体だから、そりゃ滝の裏側にもいけるだだろうが、人間の俺には無理に決まってるだろうが!
自分勝手な彼女はもう見切りをつけて、自分だけでも帰った方が良いだろうかと修平は逡巡した。こんなところにイチがいるわけもないし、ならば、家に帰ってまた他の場所を探した方がいいのではと思ってのことだ。
だが、もし万が一、ニハの言うとおり、矢代がこの先にいるのならば。
人間である彼女が行けたのだから、自分にだって行けるはずだ。
「…………」
結局、修平はこのままむざむざ引き返す気にもならず、滝に近づいた。
滝の近くに小道があるとか、もしくは、滝壺を泳いだ先に何かがあるとか?
泳ぐのがあまり得意ではない修平は、自らの考えに眉を顰めたが、しかし、近づくにつれ、その皺もほぐれた。滝の裏に、近づかなければ分からないほどの細い小道が続いていたのだ。ずぶ濡れになること必至だし、足を滑らせたらひとたまりもない。だが、一種の貫目いたものが頭をよぎり、修平は顔を引き締めてその小道へ進んだ。きっと、この先には矢代がいる、と。
細い小道は、だんだん太く長く延びていき、それはいつしか洞窟へと変わっていた。同時に滝からは離れ、足を滑らせる危険も少なくなり、修平はホッと息をついた。とはいえ、洞窟の中は思った以上に暗かったため、また新たな危険も浮上したが。
「……おい、ニハ。いるんだろ? ちょっと道案内を頼む。暗くてよく分からないんだ」
修平は一旦立ち止まると、暗闇にそう声をかけた。絶対に認めたくはないが、修平は暗闇が苦手だった。せめて、明暗は関係ないニハが側にいればと思ってのことだった。だが、彼はすっかり失念していたが、ニハは、イチほどではないものの、時折無神経で気の利かないところがある。突然声もなく暗闇からにゅっと顔を出したニハに、修平は腰を抜かした。
「――っ! 急に出てくるな!」
『なによー。呼んだのはそっちでしょ?』
「だからって……っ、もういい。とにかく道案内を頼む。俺の側から離れるなよ」
『離れるなって……そっちが離れて欲しくないだけじゃないの?』
「うるさいっ!」
思った以上に洞窟内に声が響き、修平は口をつぐんだ。ニハが先導する形で、二人は洞窟を進んだ。
『ここ……あたし、来たことある気がする』
「そうなのか?」
前を向いたままそう呟くニハに、修平は意外そうに言った。
「しかし……伊礼山は基本的に立ち入り禁止だが」
『ううん、そうじゃなくて。あたし、向こう側からなら登ったことがあるのよ。でも、こっちは来たことがないのに』
「へえ……」
詳しく聞きたい気もしたが、修平はそれ以上深入りしようとはしなかった。そんな場合ではないし、何より今は、三子とイチの安否が気になったのだ。
*****
一体どれくらい歩いただろうか。
暗い洞窟内のことなので、時間の感覚は全く分からなかった。だが、時折天井に開いた隙間から差し込む日の光が、暖かみを帯びていることから、日が沈みかけているのだと悟った。
「おい、まだ先なのか?」
『たぶん……もうすぐよ。この先』
彼女の言葉を裏付けるかのように、暗い洞窟内は、徐々に明るくなっていった。天井に一際大きい隙間でも開いているのか、夕闇の色が漏れ出ていた。
どこか、神秘的にも思えた。暗くて湿った場所であるはずなのに、まるで後光のように天井から光が溢れる様は、神々しくも思える。
「――今日は思った以上の豊作だな』
突然響き渡った声に、ニハと修平は同時に顔を上げた。光が集まる中心に、奥から進み出てくる者がいた。
「馬場!?」
『あんた……』
絶句する二人に、健介は高らかに笑って見せた。
「そうか、馬場というのか、こいつの名は。我々にやけに好かれる体質のようだな、こいつは』
「憑かれてる……のか?」
思わず頭を抱える修平。だが、いつも以上に、ことは深刻のように思えた。なぜなら、彼に憑いている霊が、今までの比にならないくらい上級霊だからだ。それは、今こうして意志疎通ができることからも容易に分かる。
『さんこ!』
突然修平の隣からニハが飛び出し、暗闇の方へ飛んでいこうとした。だが、『健介』はさっと右手を出し、霊力でニハを吹き飛ばした。
「おや、知り合いか。……まあそれもそうか。こんな所までやってくるのは、霊能者ぐらいだからな』
光のステージから降り立ち、『健介』は暗闇へ移動した。だんだん目が慣れてきた修平にも、ようやく彼の後ろに誰かが倒れていることに気がついた。服装から見て、矢代だろうと当たりをつける。
「大丈夫か?」
『……ええ。油断した』
『健介』から目を離さず、修平はニハに近寄った。ニハは悔しそうに顔をしかめた。
幽体であるニハに、痛覚はない。だが、霊力をぶつけられれば、それだけ体力を消耗するのだ。
『さんこは無事なの!? 怪我でもしてたら承知しないから!』
「随分と活きの良い幽霊だな。でも安心しろ。危害は加えていない。大事な器だからな』
『器……?』
ギリッと歯ぎしりをするニハに、修平は顔を寄せた。
「イチ……イチはどこだ? 分からないのか?」
『分からないわよ! さんこは分かるけど、イチの気配は……』
悔しそうにニハは頭をかき回した。そんな彼女を見て、『健介』はまた一歩近づく。
「そういえば、昨日お前みたいな一匹の幽霊が迷い込んできたよ』
『何ですって!?』
「なんて言ってたかなあ……。確か、『俺の獲物に手を出すな』とか、『頼むからあいつは止めてくれ』、とか言ってたかなあ』
楽しそうに笑う『健介』に、修平は怪訝な顔になる。
「獲物……?」
『イチよ、間違いないわ』
確信を持って言い切るニハに、修平は疑り深い目を向けた。
「おい、獲物ってなんだよ。矢代のこと、そんな風に思って――」
『うるさいわねっ! 愛情表現よ!』
「歪んだ愛情だな……」
思わず遠い目になる修平だが、すぐに我に返ると、今度は『健介』に向かって声を張り上げた。
「その幽霊はどこにいるんだ!?」
「――ははっ、知りたいか?』
口角を上げ、『健介』が指さしたのは、右手の壁だった。ようやく暗闇に目が慣れた修平が目をこらしても、そこには黒い洞窟の壁があるだけで、イチの姿など欠片も見当たらない。
「よく見てみろ』
言われるがまま、修平は目を細める。そして愕然とした。黒い壁があるだけだと思っていたそこには、すっかり壁と同化している何かがあった。どす黒い何かに覆われた、人一人分ほどの大きさの塊。
「ほ、本当にあれがイチなのか……?」
『健介』に憑依した霊の言うことが信じられなくて、修平は思わず隣を見た。だが、ニハも唖然と目を見開くばかりで、話にならない。ニハは微かにうなり声を上げながら、一歩一歩黒い塊に近づいた。三子の場合とは裏腹に、今度は『健介』は行く手を阻もうとはしなかった。
『……イチ』
塊にニハが手を触れる。触れた指先は、悲しくなるほど、なんの抵抗もなく塊を通り抜けた。
「イチ、なのか?」
恐る恐る修平は尋ねた。もう、返ってくる答えは分かっているような気がした。
『……あたしだって、信じたくないけどね』
ニハの背中が震える。
『もう、手遅れだった』
口から出た途端、洞窟の奥に響いて消えたニハの声は、今まで聞いたどんな声よりも、小さく、儚かった。