37:人間味溢れた幽霊
放課後、三子は部活を休んで修平の家に来ていた。もちろん、ニハも一緒だ。
あれから、三子はなんとかしてニハから情報を得ようと試みたものの、彼女はそれをよしとせず、止まない追及の手に、ついには途中で姿を消してしまった。三子が修平の家に着く頃には、彼女もまた到着しており、なんとなく気まずい様子で二人は顔を合わせた。
「準備はできた。行くか」
制服を着替え、修平はまた和服に着替えていた。いつもの袴姿に加え、同色の羽織を着込んでいる。背中には似合わないリュックを背負っていた。これから山登りなのに、自分だけ制服姿でいいものだろうか、と三子はうっすら考えたが、今更家に帰って着替えている時間などない。三子はきっぱりと諦めることにした。
しめ縄が張られた小道に向かって、修平は歩き出した。当然、三子もその後に続こうとしたが、スッと彼女の前にニハが立ちはだかった。
『さんこはここに残って』
「えっ……ど、どうして」
『危険だから』
ニハの表情は暗い。三子は唇を噛みしめる。彼女が自分の身を案じてくれていることは分かっていたが、しかし三子は引き下がれなかった。
「嫌だよ。私も行く」
『危険なの。それに、あんたがきたら足手まといになるのは決まってる。あんたを守るために、あたし達まで危険にさらされることになるのよ』
「――っ」
ずるい言い方だ。しかし、事実でもある。
「だって……ここまで来て留守番だなんて酷いよ。私だってイチのことが心配なのに」
『仁科の家は安全だから。それに、あたし達ともできるだけ近い方がいいし。……今回は諦めて』
修平が振り返って、何事かと三子達の方を見ていた。ニハは、そのまま彼の方へ向かっていった。
「――イチ、連れて帰ってきてね」
『……ええ』
この距離では聞こえないかと思ったが、ニハは、静かにそう返事をした。三子は、そのことを頼りに、二人を信じるほかないのだ。
三子は、ニハと修平の二人がいなくなった後、家にも入らずに、その場を歩き回ってばかりいた。三人のことが心配で、じっとしていることができないのだ。時折伊礼山の方を見上げるも、傍目には異変など見当たらない。……いや、霊感がないのだから仕方がないのだろう。
時折参拝客が訪れるくらいで、基本的に神社は人の気配は少なかった。だからこそ、余計に三子の不安も募るというもの。誰か話し相手でもいてくれたら何かが違ったのだろうが。
三子が気をもんでいると、また新たに参拝客が現れた。今度は誰だろうと、チラッとそちらに視線を向けたとき、三子は固まった。
「……馬場君?」
制服姿のままで、健介はてくてくと境内まで歩いてきた。正直なところ、三子は意外に思った。もしかして修平に会いに来たのだろうかと、三子は彼に近づいた。
「馬場く――」
「…………」
だが、彼の名を呼ぼうとして、三子は思わす顔を引きつらせた。無表情のまま健介がぐりんと首を回し、じいっと自分を見つめてきたからだ。
「あ……あの、どうしたの?」
「…………」
どこか、様子がおかしい。三子はそう思うものの、一歩一歩近づいてくる健介に、後ずさりすることしかできなかった。
「ば、馬場君?」
「……器」
ポツリと彼が呟いたのは、三子には理解しようのないことだった。なにそれ、と聞き返そうとしたのもつかの間、彼は一気に距離を詰めると、三子のみぞおちに拳を入れた。
「――っ!?」
三子が唖然とするのも一瞬だけで、すぐに呼吸ができない苦しさにもだえた。反射的に何度もえずくが、そのための空気すら身体の中からは出てこない。やがて三子は目の前が真っ白になって、気を失ってしまった。そんな彼女を黙って見下ろすのは、瞳に何の光も点さない健介だ。いつもなら信じられないほどの力で三子を抱え上げると、健介はそのまま黙ってロープの先の、伊礼山へと歩いて行った。
*****
急な坂道の途中で、ニハと修平は黙したまま立ち止まっていた。珍しい組み合わせだが、仲が悪いわけではない。単に、それぞれ霊を追い払うのに忙しいだけだった。
「そっちは?」
『終わりー』
短いかけ声と共に、二人はそのまま歩き出す。さすがは伊礼山といったところか、霊の数は、今までとは比べものにならないほど多かった。いちいち除霊していたらきりがないので、追い払うだけに留めておき、先に進むことを第一にしていた。
伊礼山は、標高二千メートル以上もあり、おまけに登山道も整備されていないため、歩くだけでも精一杯だ。ニハは幽霊だからまだしも、修平は息も絶え絶えだった。三子ではないが、彼もあまり運動が得意ではないのだ。せめてもの体力作りとして、毎朝辺りを走ってみてはいるものの、効果が出ているかは神のみぞ知るというところだろうか。
『今更だけどね』
少しでも修平の負担を軽くするため、ニハは霊を追い払うことに集中しつつも、口火を切った。
『あんたがついて来てくれるなんて、ちょっと意外だった。今まで隙あらば除霊しようとしてきたくせに』
「隙あらばって……そんなことはないだろう」
確かに初めて会ったときはそうだったかもしれないが、と修平はもごもごと口の中で言い返した。
『それに、イチは一介の幽霊じゃない。ただの顔見知り程度のイチに、そこまで力を尽くしてくれるなんて、正直……』
声が次第に小さくなり、ニハの語尾は聞き取れなかったが、彼女が言わんとすることは分かった。
素直に口にするのは恥ずかしいが、今なら言える気がする。
修平はニハの方を見ないようにしてそっぼを向いた。
「……まあ、考えが変わったというのは確かかもな。矢代じゃないが、幽霊にも良い幽霊と悪い幽霊がいるんじゃないかって思って」
『良い幽霊?』
「良いというか、害がないというか……。まあ、そんなところだ」
『人のことまるで害虫みたいに言うのね』
ニハは思いっきり口をひん曲げて言った。だが、事実修平は彼らのことを似たようなものだと思っていたので、否定はしなかった。さすがに虫までとはいかないが、いつも矢代の後ろをうろちょろして、騒いだりはしゃいだりするうるさい奴ら、くらいの認識ではあった。
「顔見知り程度の幽霊でも、あんなに――まるで、生きてるみたいに笑ったり悲しんだりされたら、そりゃ思うところもあるよ。知らないところで意にそぐわない形で成仏したりしてたら、後味悪いっていうか」
長い坂道を登り終え、修平は一旦立ち止まった。まだまだ先は長い。イチのことを考えているのか、どこか遠い目をしているニハに視線を向ける。
「お前らほど人間味溢れた幽霊なんて見たことないからな」
『…………』
褒め言葉でも、貶したつもりでもない。ただの見たままの感想だ。
しかし、彼女は褒め言葉として受け取ったようだ。緩慢な動作で修平に視線を向けると、小さく呟いた。
『……ありがと』
一瞬、修平は聞き間違いかと思った。すぐに我に返ったが、そのときにはもうニハは修平に背を向けていて、表情から感情を読み取ることはできない。困惑している間に、ニハは次の話題に移った。
『仁科、伊礼山に登ったことはあるの?』
「……爺ちゃんとなら何度か」
修平は息を切らしながら応えた。
幼い頃は、除霊修行のため、よく山の麓で修行をさせられていた。頂上まで登ったことはないが、中腹までなら何度かあった。ここすんねんほどは、霊が活発化しており危険があるというだけでなく、祖父が多忙だということもあって、登るどころか、近づいたことすらなかった。自分がいないときは、伊礼山に近づくなと口を酸っぱく言われていたことを、修平は今更ながらに思い出した。しかしここまで来てしまったものは仕方がない。なるようになるだろうと、修平はわりと楽観視していた。
『もうちょっと先にある滝は分かる? 中腹よりは手前に位置してるんだけど』
そんな彼を見透かしたように、ニハは固い声で道の先を指さした。
「ああ、そういえばあったな。それがどうした?」
『その滝までにイチがいなかったら引き返すわよ』
「……なぜ?」
眉を顰めて修平は聞き返した。ニハにどういう意図があるのか、さっぱり分からなかった。
『分かるでしょ。危険だからよ』
「でも――」
『滝まで。そこは譲れない』
きっぱりと言い切るニハに、修平は困惑を隠しきれなかった。
「イチを連れ戻すって矢代と約束したんだろ? そんなに簡単に諦めていいのか?」
『幽霊より、あんたの命の方が大切でしょ』
……確かに、それはそうだが。
修平は、どこか釈然としない思いだった。
理屈では確かにそうだが、でも。
うまく言葉にできないもどかしさを抱え、修平はニハの後ろ姿を追うしかなかった。