31:二人を、楽に
どれくらい時間が経ったのだろう。
三子とイチは、それぞれ部屋の中に立ち尽くしたままだった。互いが互いにかける言葉が見つからず、それぞれがそれぞれ物思いに沈んでいた。日が随分高く上っていることにも気づかない。今いる部屋に、何者かが近づいてくることにも気づかない。
「これは……どういうことだ? 矢代」
ハッとして三子は顔を上げた。わなわなと震えている修平が目に入る。三子は首を傾げ――すぐに固まった。
修平の部屋は、酷い有様だった。いつの間に落ちたのかは分からないが、イチが得意げに宙に浮かせていた物たちは、全て畳の上に散らばっていた。
「あ、の……これは、その……」
血の気が引いて行くのを感じる。
「ちっ、違うの! これは全部イチのせいで……」
とりあえず三子はイチのせいにしてみる。いや、実際これは全てイチの責任だ。
そう思って三子が振り返ってみれば、そこには彼の姿はなかった。先ほどまで沈痛な表情を浮かべていたくせに、とんだ身の変わりようである。
「イチ! どこにいるの! 自分で説明してよ!」
『わりーな、後は頼んだー』
間延びした口調が遠くから聞こえてきた。三子は更に髪を逆立てる。
「イチー!」
三子は甲高く叫んだが、忍び笑いが帰ってくるだけで、イチが姿を現すことはなかった。
「ああっ……もう! ごめん! ちゃんと片付けます、本当にごめんなさい!」
やけになって謝ると、三子は膝をついて後片付けを始めた。漫画本を元のように綺麗に積み上げ、机の上の物は整理整頓し。
いつの間にか、修平も同じようにして三子を手伝っていてくれた。申し訳ない思いが三子を襲う。というより、こんな状況になっているというのも、全てイチのせいなのだが。
「何か探してた……というよりは、イチが霊力を使ったという感じだな」
「……うん、その通り」
やはり、祓い屋として何か感じるものがあるのか、修平の答えはドンピシャだった。
「あいつ……やっぱりか」
修平は呆れたようにため息をついた。
「知らないだろうけどな、幽霊が霊力を使うと――」
「聞いた。イチ本人から」
彼が言わんとしていることは、一足先に、イチ本人から聞いたところだった。誰かに聞いてほしいと思っていたところだったので、三子は躊躇いながらも言葉を紡ぐ。
「イチね、成仏したいんだって」
「あいつが?」
さも意外そうに修平は聞き返した。三子は笑おうとしたが、上手く笑うことができなかった。
「私も……驚いた。イチは、喜んでここに留まっているのかと思ってたから。まさか、私と一緒にいることで苦しんでるなんて思わなかった……」
「苦しんでるって……」
何かを言おうとしていたようだが、そのまま彼の言葉は途切れた。
もしかしたら、彼も思い至ったのかもしれない。いつも楽しそうにしている彼らが、どんな思いで自分たちの傍にいるのか。
「ねえ、私がしてあげられることってないのかな。どうしたら……二人を、楽に――」
自分で自分の言葉に驚き、三子は口をつぐんだ。
楽に。
その言葉が示すのは、おそらく死。
人間の言う死と、幽霊の死は、厳密には違うのかもしれない。だが、現在、普通に存在を認識することも話すこともできるニハやイチたちが消えてしまうことは、自分にとって死と同義なのではないか。
イチは、成仏したいと言った。
しかしそれは、イチにはもう二度と会えないということで、つまり死ぬってことで。
三子は何が何だか分からなくなって、そのまま黙り込んだ。
*****
居間で昼ご飯を食べた後、修平たちはまたしても熱心に修行に取り組んだ。三子とイチの方は、相変わらず暇なので、修平の部屋に戻って、今度こそ大人しく漫画を読んでいた。
三子としては、イチに聞きたいことは山ほどあった。しかし、それをどうやって口にすべきか、言葉にすべきかよく分からなくて、結局諦めた。このままがいいと、そんな甘ったれな思い故だった。
日が傾き始めるにつれ、三子は次第に舟をこぎ始めた。現在読んでいる漫画は、そもそも三子の趣味ではなかった。これが読みたいとイチに言われ、無理矢理ページを捲らされているだけだった。そんな彼女の、ページを捲る手が次第に遅くなってきたのだから、イチは耳元で小言ばかりを言う。
「おーい、居眠りするなよ。早く次」
「……うん」
「全然聞いてないだろ。ったく……」
三子はついに返事を返すことなく眠りについた。柔らかい夕日が和室に差し込み、心地よい気候だった。しかしそんな穏やかな空気もすぐに何者かによって破られた。スパンと襖を開けられると、一つの影が三子の顔に落された。
「……何だ、寝てたのか」
呆れた様な修平の口調に、三子は気だるげに頭を振った。
「……寝てない」
『どの口が言うか……』
『さんこは子供ねえ。この時間になるといつも昼寝するんだから』
「一体いつの話をしてるの!」
散々な物言いに、三子はすっかり目が覚めてしまった。漫画もを元の位置に戻すと、眼を擦りながら立ち上がる。
「それで、修行はどうだったの? 今日はもう終わり?」
「ああ、そのことだが」
何だかやけに修平は嬉しそうだ。親指を外に向かって指す。
「修行の成果を見せてやるよ」
それだけ言うと、修平は口笛でも吹きそうな機嫌で歩いて行った。三子は呆気にとられ、ポカンと口を開けたままニハを仰ぎ見た。
「どうしかしたの? 随分機嫌がいいみたいだけど」
『簡単な浄霊はできるようになったのよ。それで浮かれてるんじゃない?』
『見かけによらず単純なやつだなー』
『まあまあ、取りあえず行ってあげなさいよ。あいつの腕はあたしが保証するからさ』
ヒラヒラと手を振るさまからは、立派に師匠風が吹いていた。
率先して前を行くニハの後を追って、三子たちは外に出た。外はすっかり夕闇に染まっていて、そろそろ三子も家へ帰る時間だ。しかしご機嫌な修平たちに水を差すこともできず、しぶしぶ彼に追いついた。
「よし」
「ここでするの?」
三子は不満げに口を曲げた。修平が立ち止まった神社の裏手は、時間のせいもあるが、場所が場所なので、随分と薄暗かった。自分に霊感が無くて、ホッとしたほどだ。
「成仏しきれない動物霊がいるんだ。前から気になっててな。いつも一匹でここにいるから」
修平は大木の前にしゃがむと、何もない空間に手を差し出した。
「おいで」
その声は優しい。三子は目を丸くし、小声でニハに尋ねた。
「何の動物霊? 犬?」
『狸よ』
「狸……」
山に近いので、そこから降りてきたのかもしれない。それとも、この神社によく遊びに来ていたのだろうか。
『随分懐いてるみたいだな』
「まあ……。こいつの存在を知ったのは、幽霊になった後だが」
『可愛いわねえ。男の子かしら』
思えば、ニハやイチまで、修平の隣にしゃがみこみ、何かを熱心に見つめている。三子はすっかり仲間外れの気分だった。
「良い子だ」
修平は宙を撫でまわすと、次第にその手のひらから灯りが漏れ始めた。ニハの時とは少し違う、力強い光だった。
「逝きなさい……もう大丈夫」
彼らはゆっくりと視線を上にあげていく。三子も釣られて上を見上げたが、何も見えない。
修平はしばらくそのまま宙を見上げたままだったが、やがて振替に、にっと笑った。
「どうだ!」
「――え? う、うん」
「俺にもできたぞ」
「よ……良かったね」
そうとしか見えない。そもそも、そこに狸の霊がいたことすら分からなかったのだから。
「うまくいったの?」
「いったさ。この俺がやったんだからな」
『よく言うわよ。調子に乗り過ぎ』
やれやれとニハが首を振った。
『でも一日でここまで成長するなんて、仁科、あんた結構見込みあるかもね』
「ありがとうございます、師匠!」
曇りのない笑みで笑う修平。今の彼からは、いつも怒ったような顔をしている面影は見られない。
『な……なんか、ヤバくねえか?』
「……イチもそう思った?」
三子は苦笑いで
『あいつ……オネエっぼくなってんじゃん』
「お姉……そうだね。ニハに影響されたみたい」
彼の浄霊が、女性っぽく感じられたのは、三子だけではなかったようだ。
霊が見えない三子だからこそ、彼の言動が浮き彫りになってしまったのか……。修平の手つきや目つき、言い方でさえも、まるでニハの浄霊を見ているようだった。
『修平の奴、ああ見えて結構純粋なんだな。いや、ニハの影響力が甚大と言うべきか――』
「どっちもだと思う」
『だな』
妙なところで三子とイチが意気投合していると、ニハがパッと立ち上がった。
『とりあえず、今日の修業はこれでお終いね』
「明日もやるの?」
『ああ、丁度いいな。明日もやろうぜ』
なぜかイチの方がやる気満々だった。皆の視線が彼を向く。どこか照れたようにイチは胸を張った。
『修平の漫画、まだ全部読み終わってないんだ。だから明日も』
「そんな理由かよ……」
三子とニハは何となく予想はついていたので、苦笑を浮かべていた。修平は呆れかえっていた。
『あとさー、お前、漫画の趣味が偏りすぎるだろ』
「どういう意味だよ」
『何で全部冒険漫画ばっかりなんだってことだよ!』
「いっ、いいだろ、別に!」
修平の頬が赤くなった。
『よくねえよ! 俺はもっとギャグ漫画とかスポーツ漫画とか読みたくて……』
「お前のために漫画買ってるんじゃない! 人の趣味にケチ付けんなよ!」
『おもてなしの心がなってないんだよ!』
傍目から見れば何とも下らないないようなのだが、当人たちは必死になって言い合いをしている。ニハはため息をついた。
『くっだらないわねえ。読めるものならなんでもいいじゃない』
「……それ、ニハにも言えることだよ」
『そうだったかしら?』
三子はしたり顔で頷いた。
ニハだって、この少女漫画は趣味じゃないとか、あの新刊買って来てとか、なかなかにうるさい。
『そろそろ帰りましょう。暗くなってきたし。お母さんも心配するわ』
分が悪いと悟ったためか、本当にそう思っているのか、ニハは急に話を変えた。彼女の声に、三子も深く追求するようなことはせず、軽く頷いた。
きびすを返し、荷物を取りに再び家の中へ入っていく。もう辺りはすっかり夕闇に紛れ始め、丁度夕日が差し込む高さの高台から望む景色は、非常に眩しく、そして綺麗だった。
「おまたせ」
『さー、帰ろ帰ろ』
「また明日もお願いします」
『はいはーい』
深く頭を下げる修平に、適当に後ろ手に手を振るニハ。
「仁科君、すっかり手懐けられちゃったみたい。……イチ?」
こっそりイチにだけ囁いたつもりが、肝心の彼の返事がない。不振に思って振り返ってみれば、振り向きざま、ボーッと神社を眺めているイチが目に入った。
「イチ? どうしたの?」
側に行ってみても、彼は生返事を返すばかりで、三子の方を見ることはなかった。
「イチ……」
彼の元気がないことだけが、三子は気がかりだった。