02:触れることができない


 二人の幽霊が去ってしばらくしても、三子は腰を抜かしたままぼんやりとしていたままだった。が、唐突に飛び上がると、一目散に家へ向かった。靴を脱ぎ散らかしながら、廊下を駆け抜ける。

「おっ……お」

 息が切れてきたが、三子は構いやしない。それ以上に、目下解決しなければならない事態だった。

「おばあちゃーん!」

 ついに祖母の部屋を見つけると、どかどか騒がしく入って行った。

「なんか……なんか、変なのが見え……る」

 しかし、三子の言葉は尻すぼみに消えていった。布団に横たわる母と、その傍らで彼女の世話をする祖母が目に入ったからだ。

「騒々しいですね。一体どうしたんです?」
「あ……」

 三子が戸惑っているのを見ると、智恵は三子に向き直った。

「少し疲れがたまっていたようです。お茶を入れてくるので、理恵子を頼みますね」
「あっ、私が行くよ! お婆ちゃんはお母さんの所にいてあげて」
「……ではお願いします。台所に行けば急須と湯呑がありますから」
「うん」

 しっかり頷いて、三子はパタパタと廊下を駆けた。祖母の家は久しぶりだが、ここまでたどり着くまでにキッチンらしいところは見かけていた。
 和と洋が交じり合ったようなキッチンへ辿り着くと、三子は急須の蓋を開けた。大分残ってはいるようだが、湯気はあまりたっていない。祖母の好みはよく分からないが、母は猫舌なのでこれくらいで丁度いいだろうと、三子は二つの湯呑にお茶を注いでいく。その頃には、もうすっかり二人の幽霊のことは頭から吹っ飛んでいた。
 盆を両手で抱えたまま、三子はまた智恵の部屋の前に立った。この状態でどう襖を開けようかと三子が悩む間もなく、それを察した智恵がスッと開けてくれた。

「ありがとう。お婆ちゃんの湯呑って、これで良かったの?」
「ええ」」

 祖母の肩越しに、そっと母の様子を覗くと、彼女は未だ寝ているようだった。顔色が少し悪いような気がして、三子の眉間に皺が寄る。

「理恵子が落ち着いたようなので、三子さんの部屋を案内しましょうか」
「……お母さん、大丈夫なの?」
「疲れがたまっていただけですよ。しばらく寝ていれば大丈夫でしょう」

 母の寝顔をもう一度見ると、三子は祖母に従って廊下を歩いた。庭を囲うようにして敷かれている廊下は、境内とは区切られているようで、参拝客がやって来ても、家の中はゆっくりできそうだった。

「ここが三子さんの部屋です。もとは物置として使っていたので、まだ荷物が残っていますが。近日中に処理します」
「わ……大きい!」

 智恵に案内された部屋は、なんと三子一人だけの部屋だった。以前三子たちが住んでいたのは小さなアパートだったので、どちらが快適かは一目瞭然だった。むしろ、その広さに慣れるには時間がかかりそうだと思うくらいには。

「他にも部屋はいろいろありますから、好きなように使ってください」
「うん、ありがとう」

 三子は照れくささに、笑みを浮かべた。

「そういえば、もうすぐ夕ご飯だよね? 何か手伝おうか?」
「いえ、もうできてるので大丈夫です。理恵子が元気になったら食べましょう」
「うん、ありがとう。……お婆ちゃん」

 そそくさと踵を返そうとする智恵の袖を、三子はくいっと引っ張った。

「何ですか?」

 顔を俯けた三子に、智恵は少々戸惑っているようだが、三子は構わず続ける。

「わたし……ずっとお母さんと二人だけだったから、お婆ちゃんと一緒に暮らせて嬉しい、です。今日からよろしくお願いします」

 おずおずと三子は上目づかいに智恵を見た。彼女は目を丸くし、口をポカンと開けていたが、やがて小さく頷いた。

「……こちらこそ、よろしくお願いしますね」
「うん」

 三子がそっと手を離すと、智恵はよく見なければ分からないほどの笑みを浮かべると、静かに廊下を歩いて行った。ようやく面と向かって祖母と話せたような気がして、三子は少しだけ達成感を抱いていた。
 口元はゆるやかに弧を描き、足取りは軽く。
 三子はさっと部屋に足を踏み入れた。夕食の時間までに、荷物の整理でもしておきたい。そう思ってのことだった。しかしその瞬間。

『よっ』
『さんこー!』

 目の前に、半透明の幽体が二つ。

「でっ……」
『で?』
「出たあああ!」

 思わず三子はその場から逃げ出した。すっかり忘れていたが、そういえば先ほど自分は幽霊に出会ったばっかりだった!
 三子は顔色真っ青に、再び智恵の部屋へ駆けた。

「三子……?」
「出たって、いったい何が出たんです?」

 三子が勢いよく祖母たちのいる部屋の襖を開けると、不思議そうな顔をした二人に出迎えられた。あっ、あっと、声もなく彼女たちの顔を見つめるが、三子の口から言葉が出てくることはない。

「う……うん、ゴキブリが、ちょっと……」

 ようやく出てきたと思ったら、そんな見当違いなもので。

「ごめん、大声出して」

 母の、少しクマができている顔を見てしまうと、三子の恐怖も急速に萎んだ。いや、萎んだというよりは、どこかへ行ってしまった。決して無くなったわけではなく、ただ、隠れてしまったのだ。

「この家は古いので、昔からネズミや虫がたくさん出るんです。ですから我慢してもらうしか……。どうしてもというなら、私が退治しましょうか?」
「う、うん、大丈夫。私も頑張って退治する……」

 何となく気落ちした様子で三子は部屋を出た。背中にはなおも母達の心配そうな声がかかるが、三子がそれに応えることは無かった。

「…………」
『何よ、そんな顔して』
『せっかく話し相手になってやろうとしたのになー』

 三子の部屋には、未だ二人の幽霊がいた。少女と少年の霊だ。年はそう変わらない気がする。
 三子は口をひん曲げると、やっぱり踵を返した。今度はそろりそろりと廊下を歩く。母達がいる部屋の前を通る時は、特に注意を払った。

『あれ、どこに行くの?』
『外に出るのか? もう暗くなるけど』

 ふよふよと三子の周りをうろつく幽体二つ。しかし三子は話しかけられても決して返事をせず、また反応すらも返しはしなかった。
 家を出てようやく三子はホッと息をつく。が、未だ少年少女は三子の周りにいたので、顔を顰めながら更に階段を下りていく。

『ねえ、どこに行くの?』
「……そっちこそ、どこまでついてくるの」

 彼らのことが見えるようになったのは、神社の裏手の石を触ってからだった。もしかしたら、神社が見えなくなる所まで移動したら、きっとどこかへ行ってくれると思ったのだが。

『どこまでって……さっきも言ったと思うけど、あたしたちはずっとあんたの傍にいたのよ?』
『お前が俺たちのこと見えなかった間もずっとな』

 二人の真剣な表情に、三子は言葉を無くした。

「そっ、そんなの信じられない。幽霊……幽霊が、この世にいるなんて」

 本当は、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。二人の姿は薄らと透けているし、両足は地についていない。時折すれ違う人々は、三子のみに挨拶をするだけで、彼女の隣に漂っている幽体には全く目もくれなかった。

「ゆう、れい……」

 三子は頼りない声で呟いてみる。
 自分の目が、おかしくなってしまったんだろうか。
 三子は不安で堪らなかった。今まで見えなかったものが、急に見えるようになってしまったなんて。
 誰かに相談したいのに、誰に相談すればいい?
 三子は自分の不安の赴くままに歩き続けた。目的地などない。

『ねえさんこ。そんなに闇雲に歩いていたら道に迷っちゃうわよ?』
『後で迷子になったーって泣きつかれても、俺たちにはどうすることもできないんだからな』
『それにしても……本当にここは田舎ねえ。同じ県なのに、西尾市とは大違いよ』
『でもここの方がなんか楽だなあ、飛ぶのも。ほら、東京だと変な幽霊が多くて、俺たち大変だったじゃん?』
『あー確かに。何か見るからに鬱々とした雰囲気を出す幽霊ばかりだから、あたし、すっごく居心地悪かったもの』
「…………」
『おいさんこ。それにしても一体どこまで行く気なんだよ』
『ねえさんこ――』
「もうっ、静かにして!」

 三子は眉を吊り上げて叫んだ。周囲の人が訝しげに見ながらすれ違っていくが、三子はもう目の前の幽霊二人しか目に入っていなかった。
 いい加減三子は爆発しそうだった。自分にしか見えないものが、ひっきりなしに話しかけてくる、そんな状況。

「どこかに行ってよ……。私、あなたたちにしてあげられること何もないから。静かに暮らしたいだけだから」

 怒りに任せて歩く三子。頭に血が上った状態では、自分の足が歩道をはみ出していることにも気づいていなかった。

『さんこっ!』

 三子は、何が何だか分からなかった。ただ一つ分かるのは、突然ニハとイチが、自分を覆うように被さってきたことだった。

「なっ、なに――」

 クラクションを鳴らしながら、三子のすぐ隣をトラックが横切る。と同時に、彼女も今更ながら状況に気が付いた。三子はその時歩道から二歩ほど離れた位置におり、もしトラックの運転手がすんでで三子に気が付き、かつ咄嗟に避けなければ、ひかれていただろう。

『なにやってんのよ!』
『とりあえず歩道に戻れ!』

 ニハとイチ、二人の怒った声に、三子は慌てて歩道へ戻った。

『もう少しで引かれるところだったんだぞ!?』
『あたしたちは、あんたに触れることができない――あんたを助けることもできないの! 自分で自分の身を守れるようになりなさい!』

 わなわなと震える唇を見、三子はぼんやりと先ほどの状況を思い出す。ニハとイチが、三子を助けようと覆いかぶさってくれたこと。彼らの身体は三子をすり抜けてしまったこと。
 ……どうして、助けようとしてくれたんだろう。
 幽霊なのに、何の関係もないのに、どうして私を。
 その疑問はもちろんある。しかしそれ以前に、三子は先ほどの光景がどうしても切なく感じられた。
 触れられない。こんなにちゃんと話せているのに、こんなにしっかり見えているのに、この二人は幽霊だ。

「……ごめん」

 三子はすっかり項垂れた。

「気を……つけます、これからは」

 反応はない。三子が窺うように顔を上げると、誰かが息を吐き出すような音がした。

『……帰るぞ』

 イチの声だ。
 三子はただ黙って頷いた。
 ここへ来るときは、あんなにも騒がしかったのに、帰り路は、驚くほど静かだった。