01:今日から楽しみね
幼い頃より、彼女の人生は三という数字に呪われていた。身長は前から数えて三番目だし、出席番号は後ろから三番目。かけっこをすれば必ず三位だったし、マラソンも後ろから数えて三番目。嬉しい三なんてこれっぽっちもなかった。そんな彼女の名前は矢代三子。三つの子供と書いてみつこだ。そしてあだ名はさんこ。それはそうだ。誰だって初見で彼女の名前を見ればさんこという呼び方をする。そしてそれは、いつの間にか三文字の排泄物のあだ名へと変化していった。小学生という身分は、いつの世もうんこが好きなものだ。たとえそれが、あだ名のあだ名という、もはや元の名前とはかけ離れたものであっても。
あだ名はうんこで、そして当人自身もどこかどんくさい。そんな彼女は、小学校時代、傍から見ればいじめともとれる扱いを受けることもあった。からかわれるのはもちろんのこと、ものを隠されたり、無視されたり、仲間はずれにされたり。
だが、そんな三子にも人生の転機が訪れた。ちょうど中学に上がると共に、すぐ隣の市へすることになったのだ。原因は、両親の離婚だった。矢代の家族中は、三子が物心つく頃からもう既に冷え切っていて、両親は別居していた。長い離婚調停手続きと親権争いにより、三子は母親に引き取られることになった。もともと三子は彼女の下で暮らしていたこと、父親とはもう六年近く会っていないことが決め手となった。
三子とその母理恵子に、祖母の智恵。三人での新しい生活が始まろうとしていた。
*****
三子と理恵子は、眼前にそびえる果てしなく長い階段の前で、途方に暮れて立ち尽くしていた。両者ともども両手に大荷物を抱えている。その状態で、優に百は越えていそうな急な勾配の階段は、なかなかにきつい運動だ。
三子は顔を引き締めると、笑顔で隣の母を見上げた。
「お母さん、疲れたでしょ? これは私が持って行くから」
そう言って、三子は理恵子が持っていたボストンバッグを受け取る。
「え、で、でも――」
「いいからいいから。お母さんはそこのベンチで少し休憩していきなよ。私、先にお婆ちゃんに挨拶しておくね」
理恵子は、娘である三子以上に体力がなかった。
それは、三子も承知の上である。だからこそ、三子は自分のキャリーバッグと母のボストンバッグを両手に持ったのだ。
目の前には、遥か先まで続く階段が鎮座している。三子は思わずごくりと喉を鳴らしたが、やがて決意すると、ずんずん上り始めた一段、一段と。
「あー……」
しかし、予想通り――いや、予想よりもずっと早く、三子は足を止めてしまった。日差しも強く、体力も尽きかけている。にもかかわらず、見上げる先はまだまだ遠い。途中休憩を挟みながらの行程となるが、もとより、かけっこでは三位、マラソンでは後ろから三番目の三子に、このような階段は無謀すぎた。
ようやく頂上に辿り着くと、三子は耐え切れずその場にへたり込んだ。キャリーバッグはその場に立たせ、ボストンバッグは地面に置き。
三子は絶え間なく漏れ出る息をそのままに、キョロキョロと辺りを見渡した。
階段を上った先――丁度三子の真上には、真っ赤な鳥居があった。所々剥げてはいるが、とても大きい。鳥居の向こう側には、これまた大きな神社があって、鳥居から真っ直ぐ石畳の道が続いていた。神社の周りには青々とした木々が茂っていて、時折爽やかな風に吹かれてなびいていた。
「三子さん」
「――っ」
突然の声とともに、視界に何者かの姿が映り、三子は大きく肩を揺らした。白髪をきっちり結い、和服を身に纏っている女性だ。一瞬戸惑ったものの、数年ぶりに会う祖母だと三子は気づいた。あまりに久しいので、三子はどう接したらよいか分からず、曖昧な笑みを浮かべた。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは。そんな所に座っていたら服が汚れますよ」
「あ、はい」
三子は慌てて立ち上がってお尻を叩いた。
「理恵子はどこでしょう」
「下にいます。疲れたらしくて」
「そうですか。では迎えに行ってきます」
「あっ、それなら私が……。階段多いし」
三子は慌てて首を振った。荷物を持ったまま階段をもう一度上り下りするのはきついので、家の中に入れられないかと目線をあちらこちらへ向けるが、考えが定まる前に智恵の制止が入った。
「今まで何度も上り下りしてきたんです。このくらいお手の物ですよ。三子さんは先に中で休んでおいでなさい」
「……はい」
きっぱりと押しとどめられ、三子はようやく頷いた。三子自身、体力はないのは百も承知なので、ここはむしろ彼女に任せた方が間違いないと判断したのだ。
「……お婆ちゃん」
「何でしょう」
「荷物置いたら、少し境内を散歩してもいいかな? 久しぶりだから、物珍しくて」
「それは構いませんが……。あまり奥へは行かないように」
智恵は少し目線を揺らしたが、やがて小さく頷いた。三子は笑みを浮かべると、神社の横にある平屋へ向かった。緊張しながら引き戸に手をかけると、カラカラと乾いた音を立てて戸が開いた。
平屋の中は、特に変わったところのない、和風の玄関だった。平屋自体もこぢんまりしたものだったが、玄関も小さかった。
玄関に荷物を置くと、三子はすぐに外へ出た。
何となく、胸が締め付けられる思いだった。あの玄関を見ていると、自分がここへ来る前住んでいたアパートを思い出してしまうのだ。暗い玄関に、自分のものと母のものしかない靴、静かな部屋――。
沈み込む意識をしっかり浮上させ、三子がまず向かったのは、神社本体よりもその周りの散歩道だった。神社から丁度数メートル離れた場所に木々が茂っており、風情ある木陰を作り出していた。しかしその分、もう日は随分落ちていたために、背の高い木に囲まれたその場所だと、辺りはより一層暗くなった。
神社の奥へ進むと、丁度裏手に、何かの石が二つ、ポツンと建っていた。周囲の景色には溶け込んでおらず、そこだけ異質な空気を感じたので、後から建てられたもののように見えた。
二つの石は、横に並べて建てられていた。小綺麗にされており、蔦や苔は見られない。丁度三子の腿ほどの高さがあり、中央には何かが彫られていた。日本語のようだが、所々欠けていて何と書いてあるかまでは読めなかった。
「何だろう……一体」
三子は思わず石に触れた。日陰にあったそれは、もちろん冷たく固いのだろう。しかしその石に触れた瞬間、三子は火傷したような熱さを感じ、思わず手を引っ込めた。
「な、なに……?」
三子が混乱する間にも、石は独りでに発光し始めた。まばゆいばかりの光に、三子は思わずギュッと目を瞑り、後ずさりをする。が、すぐ後ろにあった小石に躓き、三子は尻餅をついた。
「う……」
眩しい。
瞼の裏まで光が届くような気がして、三子はお尻の痛みに構わず、両手で眼を覆った。
どれくらい経ったのだろう。三子が恐る恐る両手を外すと、もう石の発光は止んでいた。むしろ、そんな様子を微塵も見せずに、ただの石として目の前にあった。不気味なほどにシンとしていた周囲も、いつの間にか音を取り戻している。三子は思わず目をパチクリさせた。目がまだチカチカして、何度も瞬きを繰り返す。
『びっくりしたなー』
『ようやく終わった? 何よ、さっきの光は』
「――っ!?」
すぐ側で、声がした。三子はビクリと肩を揺らし、恐る恐るそちらを見る。すぐ隣に、少年と少女が立っていた。
『心臓止まるかと思ったわ。一体何なのよ』
『いや、俺らはもう心臓止まってんだけどな』
『つまらないこと言わないの』
『んな冷たいこと言うなよ……』
『あーあ、しっかし本当にこの子はどんくさいわねえ。未だ腰抜かしたまんまじゃない。ほら、お顔も間抜け面』
少女の方は、意地悪な顔をしながら三子に指を突きつけた。三子の方はというと、それを唖然とした表情で見つめることしかできない。
『そういうこと言うなって。ほら……よくよく見ればなんか……愛嬌がある気もしなくはない、だろ?』
『あんたが一番酷いっての。……っていうか、さっきからこの子どこ見てんのよ。あたしの後ろには何もないわよ?』
『お前の後ろを見てるっつーか、お前を見てるっつーか』
『――は、え?』
三子は、未だ間抜け面をしながら彼らを見ていた。背中まである長い髪に、簡素なワンピースを着ている少女と、短髪で運動しやすそうな服の少年。どう見ても日本人だ。だが、どう見ても半透明だった。
「あ……」
『あんた、もしかしてあたしたちが見えるの?』
少女の声に、何か言わなければと三子は口を開く。だが、そこから漏れるのは意味をなさない声だけ。
「あっ、あ……」
『何か返事しなさいよ』
「はっ、はいいい! 見えます!」
『…………』
少女は目を見開いたまま後ろに下がった。その瞳には、微かに哀愁が漂っているようにも見える。
『すっげえじゃん! おい、俺も見えんのか!?』
三子が何か言う前に、少年が目の前に飛んできた、宙を漂いながら。
「あ……はい。見えます、たぶん」
『すっげえ、すっげえ! でも今まで全然見えなかったのに、どうして急に見えたんだ? なあ?』
少年は後ろの少女を振り返った。
『おい、ニハ。どうしたんだ?』
少年に肩を叩かれ、少女はハッとしたように瞬きした。
『――っ、何でもない』
少女は強く首を振った後、曖昧に笑みを浮かべた。しかしそれも一瞬のことで、今度はキッと三子に視線を向けた。
『さんこ……』
彼女の目は鋭い。三子は知らず知らずのうちに姿勢を正した。
「あの……ど、どうして私の名前を知って……?」
というより、あだ名を。
『だってあたしたち、今までずっとあんたの傍にいたんだもの。名前くらい知ってて当然でしょう?』
名前というより、あだ名だが。
『さんこ、どうしてあんたがあたしたちのこと見えるようになったのかは分からない。でもこれだけは言っておく』
ビシッと指を突きつけられる。
『あんた、これから覚悟することね』
「へ……?」
三子はきょとんとした。しかしそんな三子を差し置いて、少女は捲し立てるようにして続ける。
『あたしたち、結構イライラしてたのよね。あんたがずっと名前のことでいじめられてんの。でもあんたはそれに言い返しもせず、うじうじ一人で悩んでばかり。あたし、そういうの我慢できないのよ』
深く息を吸いこむと、再び少女は三子を見据えた。
『あたしたちのことが見えるようになったからには、ビシバシ行くからね!』
「はっ……はいいい!」
三子には、そんな情けない悲鳴を上げることしかできなかった。
傍にいた少年は、そんな三子に憐れみの視線を向けた後、再び少女の方を見た。
『何をやるって言うんだよ、具体的に』
『そんなの決まってるじゃない。この子のうじうじした暗い性格を直すのよ』
「く、暗い……」
他人からそう直接的に言われると、さすがの三子もショックだった。自然、顔も下を向く。
『ほら! 背中丸めるな! しゃんとする!』
「はいいい!」
『返事は伸ばすな! 短く元気に!』
「はっ、はい!」
なるようになれ! と三子が力一杯返事をすると、少女はようやく納得したような顔になった。うんうんと頷きながら、くるっと三子に背を向ける。
『今日から楽しみね、さんこ!』
あははは! と甲高い笑い声を残して、少女は家の中へ入って行った。もちろん、玄関の扉は閉まっていたが、幽体なのでそのまま通り抜ける。
『変なことになっちまったけど……あいつに目を付けられたら終わりってことだけは分かるよ。ドンマイな、さんこ!』
ポンと三子肩を叩いたのち、少年も家の中へ入って行った。辺りには、夕闇に包まれたままの三子だけが残される。
「いや……私の名前、三子なんですけど……」
ようやく発せられた三子の声は、誰の耳に入るでもなく、宙に消えていった。