19:現実を見られるように


 賑やかな話し声に三子が目を覚ました時、テント内の女子生徒たちは、ほとんどもう身支度を終えていた。ハッとして三子が飛び起きた時には、一瞬遅れて呆れたような視線が彼女に向けられた。

「やっと起きたのー? さっきから何度も起こしてるのに、一度も起きなかったね」
「あ……え」
「おはよう。みんな準備終わってるよ」
「――っ」
「もうすぐ朝ご飯の準備も始めるから。早く行っておいでー」
「っはい!」

 からかうような由香里の口調に、三子はテントを飛び出した。一人だけ未だ寝癖をつけたままなのが恥ずかしかった。外ももうすでにすっかり日は登っており、ちらほらと朝食の準備を始めている姿が見られる。一人、顔を俯けながら手洗い場へ向かった。

『あーあ、やっと起きたのね、さんこ』
「う、うん……。昨日遅くまで起きてたから、そのせいかな」
『人のせいにするんじゃありません』

 ぴしゃりと言われ、三子は項垂れる。事実ではあるのだが、それを口実にすることは許してくれないらしい。
 手洗い場へつくと、見慣れた後ろ姿が目に入った。といっても、皆同じジャージ姿なのだが、相変わらず顔を洗うその時までもリュックを背負うという徹底ぶりに、一人しか思い浮かばなかった。

「仁科君も寝坊?」

 三子は修平の隣に陣取り、ちょろちょろと水を出した。顔を洗いたいのはやまやまだが、まだ早朝の時分ゆえ、水は驚くほど冷たかった。

「……仕方ないだろ」

 何だか機嫌が悪そうなので、三子は黙り込んだ。と、そんな時、また一人寝坊したらしい生徒がやってきた。

「……馬場、君も?」

 思わぬ偶然――というより必然か――に三子が笑うと、健介もこれまた不機嫌そうだった。

「何か文句でもあるのか」
「んー、別にないけど」

 世間話もしてくれないらしい。
 三子は潔く諦めると、思い切って冷たい水の皿に顔を押し付けた。


****


 簡単に朝食を食べたのち、一行はすぐに下山を始めた。本来の行程ならば、もう少しゆっくりする時間もあったのだが、雲行きも怪しくなってきたため、早めに帰途へつくこととなったのである。
 お腹もいっぱいになって、後は山を下りるだけの林間学校に、生徒だけではなく、先生も心なしか楽しそうに会話をしている。そんな中で、一年生二班の空気は重い。行きとは違って、健介が班を先導し、修平が最後尾を、三子たち女子三人は、彼らに挟まれるように下山を強いられていた。不機嫌な少年たちの間を歩くことは、いくらこちらの方が多勢だとはいえ、気まずい。
 そしていつしか、三子たちの心境を表すかのように、ついにポツリポツリと雨が降り始めてしまった。

「うわー、嫌んなっちゃうね」
「傘持って来てないしなー」
「下につくまでもってくれても良かったのに」

 口々に不平不満を唱える中、異変に気付いたのは修平だった。

「おい、馬場は?」
「え?」

 すぐ前を歩いていたはずだ。
 そう思って三子たちが顔を前に戻すと、先ほどまで黙々と歩いていた健介の姿は忽然と消えてしまっていた。

「はあっ? あいつどこへ行ったの!」
「え……え、さっきまでそこ歩いてたよね?」
「まさか……幽霊に?」

 思わずそう口走った三子だが、一番説得力のある解答だった。一瞬の沈黙の後、誰からともなくため息が漏れる。

「幽霊ホイホイの本領発揮ですか……?」
「先生呼んで来ようか」
「いや、こっちで探した方が早い」

 修平の言う通り、健介はすぐ見つかった。雨で土がぬかるんでいるおかげで、靴跡が分かりやすかったせいもある。

「健介、あんたどこ行こうとしてんのよ」

 美樹がいち早く駆けつけると、ボーとしている様子の美樹の腕を強く掴んだ。彼の瞳は虚ろだった。

「健介!」

 苛立たしげに美樹が彼の名を呼ぶと、次第に彼の瞳に光が戻ってきた。ハッとしたように幾度か瞬きをする。

「……は? 何だよ」
「何だって……急に道から外れないでって言ってんの!」

 美樹の厳しい叱責が飛ぶ。二班の全員が急に道から外れたため、その後続の班も、何事かと足を止めていた。

「は? いや、別に俺は……は? 何でこんなとこ……」

 健介自身も自分が通常のルートから外れたところにいると自覚したようだ。目を瞬かせながら狼狽えている。

「仁科君、これって……」

 幽霊に取り憑かれているようには見えなかった。今の彼は正気だ。では、先ほどの光景は。
 三子は不思議に思って修平に問いかけた。全部を聞かずに、彼は三子の言わんとすることを理解したようだった。

「意識下で呼ばれていたのかもしれないな。あいつは人一倍抵抗力もないから」

 幽霊ホイホイなうえに、抵抗力もないと……。
 三子は憐れんだ視線を健介に向けた。美樹も、どことなく呆れを含んだ視線になる。

「健介、いい加減にしなよ。あんまり舐めてるようだと、そのうち命とられるかもって、仁科にも仁科のお爺さんにも言われてるんでしょ? いい加減現実を見なって――」
「お前らの方こそいい加減にしろよ!」

 健介が腕を振り払った。彼の怒声に、美樹は息を呑んだ。

「幽霊だ浄霊だ何だのって、もううんざりなんだよ! 幽霊が何だってんだ……やれるもんならやってみろよ!」
「健介――」
「もう二度と俺に話しかけてくるな!」

 雨に打たれながら、健介は鼻息も荒々しく駆けて行った。茫然と三子たちが立ち尽くす中、黒井がやってきた。

「おい、こんな所で何かあったのか?」

 その声は思いのほか優しい。三子たちは戸惑ったように視線を交わし合ったが、やがて修平が首を振った。

「何でもありません」
「……そうか。じゃ、また下山を開始するぞ。道がぬかるんでるから、こけないようにな」

 言葉少なに、三子たちは正規のルートへ戻った。そこに健介の姿はなく、他の生徒の姿もまばらだった。黒井だけが、二班の後ろを黙して歩いていた。

「……ねえ」

 三子は声を潜め、前を歩く修平に話しかけた。

「私……お婆ちゃんからお守りを貰ってから、幽霊が寄って来なくなったんだけど……。なら、馬場君にもこっそりお守りを渡したらいいんじゃないかな? あ、もちろん幽霊のことは内緒にして。馬場君、嫌がるかもしれないから」

 そうすれば、修平が除霊に苦労することもないし、一番幽霊を嫌悪している健介に霊の話題を出すこともない。
 我ながら良い考えだと三子は思ったのだが、美樹が躊躇いがちに振り返った。小声で話しているつもりだったのだが、すぐ前を歩く彼女には聞こえていたようだった。

「……それ、ね。あいつには、ちょっと難しいかも」
「どうして?」
「以前、作ってもらったことがあるのよ。で、あいつに渡そうとしたけど、受け取ってもらえなかった」
「もともと霊を嫌悪してるあいつに、素直に霊除けの守りだって言って渡したのも、悪かったんだけどな」

 修平も補足した。三子は難しい顔で唸った。もう挑戦済みだったのか……。

「馬場君、どうしてあんなに幽霊が嫌いなんだろうね……」

 ついには由香里も会話に参加した。この様子では、すぐ後ろを歩く黒井にも聞こえているのかもしれない。

「確かに、霊が見えない、聞こえない、感じないことを思えば、その存在を信じないってのなら納得もいくけど、でも馬場君の場合、信じてないって言うよりも、心底嫌いだって印象を受けるから」

 由香里の言葉に、三子は少し納得した。三子自身、少し違和感を感じていたのは確かだった。始めは修平のことが嫌いなのだと思った。そしてその次は、自分だけ状況が分からないことに対する疎外感を感じているのだと。しかしそのどれも違っていたのだとしたら。由香里の言う通り、幽霊が心底嫌いなのだとしたら……。

「あたし、幼馴染だから、健介の家庭事情ちょっと知ってるんだ」

 由香里の言葉を受けて、美樹が話し出した。

「霊感が全くない健介に反して、両親は人並みの感性、妹に関しては、結構霊感があるらしくてね。健介は、周知のとおり、幽霊ホイホイだから、やたらめったら幽霊を引き付けるでしょ? そのせいで、健介と三人の間に亀裂が生じちゃったんだって。その影響で、多分健介も余計頑なになっちゃったんじゃないかな」

 美樹がふっと息をつく。

「健介が、現実を見られるようになればいいんだけどね……」

 三子たちは返す言葉もなく、黙って聞き入っていた。
 亀裂、その一言で言い表わされた健介の家庭事情だが、その言葉に、どれだけ深い思いがあるのだろうか。きっと、当事者ではない三子たちには想像もつかない。
 その後、三子たちはもくもくと歩き続け、ようやく最後尾の班に追いついたと思ったら、もう山の麓は目前だった。麓に到着し、皆がそれとなく辺りを見渡すと、仏頂面をした健介もちゃんといた。誰からともなく、疲れたようなため息が漏れる。

「ま、結局、俺が影であいつの除霊をし続けないといけないってことになるんだよなー」
「そういうことだね」

 三子はふっと笑って頷いた。

「他人事だと思いやがって……」
「雨……上がったね」

 由香里が晴れやかな笑みを浮かべた。つられて、三子たちも空を見上げる。

「タイミング悪いなー。こんなに晴れあがるくらいなら、もともと降らなければよかったのに」
「まあまあ、いいじゃん、昨日お風呂に入れなかったから、その分水浴びできたと思えば!」

 その日は、行きと同様、山の麓で解散した。三子たちは互いに別れを告げながら、散り散りに自分の家へと向かう。

『長い二日間だったわねー』
『もうクタクタだ』
『あたしたちは別に何もしてないけどねー』

 のろのろと三子の後ろを漂う幽霊二人の会話を聞きながら、三子も帰途についた。
 こうして、なかなかに波乱だった三子の林間学校は終わりを告げたのである。