09:不器用な二人
昨日と同じ様な時間に、松樹がごそごそと身支度する音が聞こえてきた。起きなければ、と佐代は思う。起きて、支度をしなければ。一緒に、畑仕事をしなければ。
そう思うのに、体が動かない。否、動かしたくない。少しでも動くと、体中に痛みが走った。
「起きたのか?」
急に松樹が振り返った。曖昧に返事をしながら、佐代はゆっくり起き上った。慎重に、慎重に。唸り声一つあげてはいけない。このまま、平静を装って身支度をしなければ。
顔を上げた佐代の視線が、松樹のそれと交わる。彼は意地悪くニヤリと笑った。
「身体、痛いんだろう」
瞬間、佐代の顔が真っ赤になった。気づかれている。佐代の身体が、今まさに筋肉痛を起こしていることに。
「これは……! 少し、気が緩んでしまっただけで……!」
「気が緩むも何も、急に激しく身体を動かすからだ」
「きゅ、急……ですけど、でも前まではこんなことなかったのに」
「畑仕事は身体全体を使うんだよ。一年も休んでたら誰だってそうなる。今日はせいぜい寝床でゆっくりしていることだな。深窓のお嬢様に、畑仕事は無理だったってことだ」
「――っ、私はお嬢様じゃないです……!」
鋭く佐代が否定の声を上げる。松樹の方は見ないが、地面を睨み付ける。その言葉だけは、聞き捨てならなかった。
雨も降らせることができず、畑仕事もできない。普通の娘のように、炊事も洗濯も掃除もできない。だったら、自分には何が残る。自分は何者だ。
松樹から見れば、肌も白く、炊事洗濯ができない佐代は、まるでお嬢様の様に見えるのだろう。何もかも周りにやってもらっていた少女。
確かに、佐代は今は巫女である。実際、お嬢様のような暮らしもしていた。が、それ以前に佐代は農民の娘でもある。そのことまで否定するかのような松樹の言葉に、佐代は反論せざるを得なかった。
「……大人しく寝ていろ」
呆れたのか、面倒になったのか、松樹はそれだけ言うと、さっさと家を出て行った。佐代もその後は追わない。今の自分では、役立たずなことは重々承知している。
雨も降らせることができず、畑仕事もできない。普通の娘のように、炊事も洗濯も掃除もできない。
巫女でもなく、農民の娘でもなく、普通の娘でもない。松樹の言葉は事実であった。それを否定することができない自分が嫌いだった。中途半端な自分が大嫌いだった。
*****
いつの間にか、日が高く上っている。丁度、昼頃だろうか。
眩しく空を見上げたのち、松樹は畑をキョロキョロと見やった。
昨日よりも捗っていなかった。人数の問題ではない。単純に、松樹自身の問題だ。畑仕事に、身が入らなかった。
何となく、集中できない。
理由は分かっている。気づけば、つい先ほどの光景を思い出してしまうのだから。
絞り出すような声だった。固く拳を握っていた。地を睨み付ける視線は鋭かった。
それほど怒りを抱えるほど、自分はきつい言い方だっただろうか。
そう思いつめると、松樹は肩を落とす。
どうせひと月の付き合いだ。
そうは思うものの、何だか釈然としない。気づけば、嫌味の様に聞こえたかもしれない、と答えの見つからない後悔が胸中を渦巻く。面倒だった。早く畑を再興しなければならないのに、肝心の身が入らないとは。
一旦家に帰って昼餉にするか、と松樹は鍬を地面に置いた。大した仕事はしていなくても腹は減る。何とも理不尽な世の中だと思った。
自身の家へと向かう松樹の足取りは重たい。家には筋肉痛にうんうん唸っている佐代がいることだろう。気まずい。その一言に尽きた。
そうして地面に落としかけた視線の端に、何かが映った。ひょこひょこ動く何かだ。奇妙なそれに、松樹は思わず目を細くして食い入るように見る。
「……何してるんだ、あいつ」
筋肉痛が痛いのか、ひょこっ、ひょこっと奇妙に歩く姿は、紛れもなく佐代だった。あんな状態で、いったい何しに来たんだと、松樹は呆れる思いだった。
佐代はゆっくり松樹の目の前までやって来る。その視線は鋭い。まるで親の仇でも見るような目つきだ。松樹は気まずくなって顔を逸らした。
「…………」
が、逃すものかと言わんばかりに、松樹の目の前に何かが突きだされる。
「何だ、これは」
思わず問う。
「お弁当、です」
言われて、改めてまじまじとそれを見る。弁当には、到底見えなかった。
「弁当に粥……しかも鍋ごと持ってくる奴があるか」
「これしか作れなかったんです」
むくれた様に佐代は言いながら、なおもぐいっと鍋を突きだす。ほかほかと湯気が立っている。粥に罪はないかと、松樹はしぶしぶ受け取った。
連れだって木陰へ移動すると、揃って腰を下ろす。準備がいいのか悪いのか、竹筒に水を用意していた、一杯だけ。
これだけか、と問うのも面倒だった。おそらく、持ってきたのはこれだけなのだろう。せめて鍋でもいいから、飲み水を大量に持って来てほしかったものだが、そこまで言うと、傲慢というものだろう。黙って松樹は鍋の粥を掻き込んだ。もぐもぐと咀嚼し、目を白黒させながら飲み込む。
「これしか作れない割には……その」
「これしか作れないから不味いんです」
「なるほど」
よく分からない良い訳だったが、松樹は適当に頷いておいた。腹は減っているので、鍋の中の粥はどんどん姿を消していく。
「……ぬか臭いな。米はちゃんと研いだのか?」
「……一応」
「粘り気がすごい。かきまぜ過ぎだ。あと、味が濃い」
「一生懸命作っていたらいつの間にかそんな感じになっていたんです。野良仕事は汗をかくでしょう? その分塩分を摂った方がいいと思ったんです」
「言い訳だけは達者だな」
むっと唇を尖らせる佐代に、松樹は黙って空の鍋を差し出した。ほんの少しだけ、佐代の頬が色づく。
「意外と……美味しかったとか?」
「腹が減ってるだけだ」
素っ気なく松樹は言う。
「でも……悪くは、ない」
佐代が驚くよりも早く、松樹は付け加えた。
「美味しくもないがな」
「一言多いです」
不機嫌な顔をしながらも、佐代は顔が緩むのを抑えることができなかった。
「お弁当……明日から、作ってきます」
「いいのか?」
「それしか……私ができること、ありませんから」
佐代はそっと顔を俯かせる。
佐代の時間は、神殿に連れてこられた時から、止まっていたのかもしれない。
本来、女性は農耕に従事するものではない。ただ、佐代の家において、男性が腰の悪い父しかいなかったため、佐代も働き手を補うように手伝っていただけだ。彼女も年頃になれば、やがて農耕からは外され、母の下で花嫁修業をすることとなっていただろう。それが普通の娘の歩む道だ。いつまでも、農耕に拘っていてはいけない。
「それは……助かるな。俺も、いちいち家に戻るのは面倒だったから」
「本当ですか?」
「ただ、もう少し料理の種類が増えてくれると有り難いが。まさか、本当にこれしか作れない訳ないんだろう? 毎日粥だけじゃ、嫌気がさしそうだ」
「……頑張ります」
思い切り嫌味を言いたいところだか、佐代はそれを押し殺して従順に頷いた。全くもって彼の言う通りなので、言い訳も何も言うことができなかった。
「じゃあ、帰ります。頑張ってください」
「……ああ」
言葉少なに、二人は立ち上がる。佐代は手早く後片付けをする。といっても、両手に鍋と空の竹筒を持つだけだ。
「……ありがとう」
躊躇ったような沈黙の後、松樹はそれだけ言うと、さっさと背を向け、畑に向かった。
「――いえ」
佐代の方も、やっとそれだけ言うと、少し頭を下げ、家へと駆けて行った。