08:農耕


 佐代は、ごそごそと身支度をするような音に、目が覚めた。もともと眠りが浅いたちなので、さしたる葛藤もなく起き上がる。驚いたような松樹と目が合った。

「すまない、起こしてしまったか」
「あ、いえ、大丈夫です。松樹さん、どちらへ行かれるんですか?」
「……畑だ。耕しに行く」

 昨日、松樹に助けられてから半日が経ったが、佐代はあまり彼と打ち解けることは無かった。そもそも、松樹があまりにぶっきらぼう過ぎた。名前一つ聞くにしても嫌な顔をしたのである。と言っても、無理に佐代が自己紹介をすると、嫌々ながらも、己の名だけは口にしていたが。

「私も行きます。手伝わせてください」
 半日ほど眠ると、佐代の体力は回復していた。いつまでも温かい寝床を無償で借りるわけにもいかない。せめて昨日助けられた恩義だけでも返さなければ。少しでも彼の厚意に報いたかった。

「足手まといだ。そんな手足で畑を耕せるものか。大人しくここで寝ていてくれ」
「こっ……これは」

 そう言われてしまえば、佐代も口ごもるしかない。
 ここ一年ほど、神殿で修行と祈祷しかしていない佐代の手足は、白く、棒切れの様だった。手のひらには豆もなく、かつて、毎日のように父と共に畑を耕していた面影は影も形もない。

「私……訳あってしばらく畑仕事とは無縁でしたが、でも昔は父と一緒に働いていました!」
 なぜか頭に血が上って、佐代は叫ぶように松樹に宣言した。松樹は耳が痛いとでも言いたげに顔を顰めていたが、やがて諦めた様に背を向けた。

「……無理はするなよ」
「はい!」

 思わず元気よく返事をした。これで名誉挽回ができると佐代は息巻いていた。

 松樹の畑は、一人で管理するには随分大きな場所だった。川の近くにあるため、水やりには困らないだろうが。一人で耕すとなると大変だろう。

 始め、松樹が大きな鍬で耕した。鍬は一つしかないので交代で耕すらしい。佐代は彼の姿をジーッと見ながら、交代の声がかかるのを待った。

 松樹は、始めの印象とさほど変わらず、ぶっきらぼうな人だった。佐代が世間話を始めても、それに多く応えることは無く、だいたいが二言三言で終わった。それに加え、彼の様相も少々変わっていた。瞼はいつもかったるそうに半分閉じられているし、髪も髭も全く整えられていないので、浮浪人のようにも見える。声を聞く限りでは、二十代前半だと予想はつくが、彼のそのような恰好では、年相応には全くもって見えなかった。

「松樹さん、そろそろ交代しましょう」
 なかなか彼の方から交代の申し出が無かったので、やがて先に焦れた佐代の方が声をかけた。

「本当にやるのか?」
「やります。やれます」
「…………」

 黙ったまま、松樹は鍬を佐代の手に持たせた。想像よりも重いそれに、佐代は思わずよろめく。松樹の目は冷たい。

「…………」
「…………」

 沈黙の中、佐代は思い切りよく鍬を地面に突き立てた。あまりの重さに、途中進路がずれ、危うく佐代の足に刺さりそうだったが、表面上は平静を装う。次こそは、と腕に力を入れるが、なかなか鍬が地面から離れない。随分と深く地面に刺さっているようだった。

「地面、固いですね」
「だから耕しているんだろう」
「そういえばそうですね」

 佐代はなおも平静を装う。その間に、ふんっと力を入れてみるが、なかなか鍬を持ち上げることができない。

「どうした。持ち上がらないのか?」
「……いえ、そういう訳では。ただ変なところに刺さったみたいで。運が悪いですね」
「……貸してみろ」

 渋々松樹に場所を代わってみれば、彼はいとも簡単に鍬を持ち上げることができた。冷たい視線が佐代を襲う。先に口を開いたのは松樹だった。

「腰が入っていない、手足も小鹿の様にプルプルしている。それでよくもまあ畑仕事を手伝いたいなどと言い出すことができたな。足手まといだ」
 背を向け、松樹は再び作業を続けた。諦めきれないのは佐代の方だ。彼女は料理の自信も掃除の自信もない。村にいた頃は、炊事洗濯掃除は全て母の仕事だったのだ。自分ができる仕事と言えば、恩返しできることと言えば、農耕しかない。

「これ……これ、大人用の鍬です! 子供用の物はないんですか? それなら私、できます!」
「言い訳だけは達者だな……」

 呆れたように言う松樹に、佐代は項垂れる。困らせてしまっただろうか、と急速に彼女の頭は冷えていく。恩を返すことが目的なのであって、決して仕事を邪魔し、困らせることが目的ではない。

「だが、鍬なら一つあったな。子供用の」
「本当ですか?」

 佐代がおずおずと覗き込む。松樹は視線を合わせずに、頷いた。

「掘立……家のすぐ側に小さな物置があっただろう。そこにある
はずだ。まだやる気があるなら持って来てくれ」
「はい!」

 元気よく頷き、佐代は走り出した。不思議な気持ちだった。なぜ、自分はこんなにもやる気に満ち溢れているんだろう。畑を耕すことが、懐かしいのだろうか。あの頃――父と共に、耕したことを思い出して。

 物置は、急ごしらえらしい掘立小屋よりも遥かに小さかった。とりあえず、物を出すことよりも放り込むことだけを念頭に置いて作られたようで、入り口は佐代が屈んでようやく入れるくらい小さかった。

 灯りもないので、暗くてよく見えない。何やら農機具がたくさんあるらしいが、その中から小さめの鍬を見つけると、嬉々として掴み、引っ張り上げた。大人用とは違い、軽く、柄も細いので佐代の手によく馴染んだ。入り口に引っかからないよう細心の注意を払いながら、佐代は再び陽光の元へ顔を出した。

 暗くてよく分からなかったが、子供用のこの鍬は、随分使い古されたようだった。にもかかわらず、小屋の奥深くに隠されるようにして置いてあった。

 誰の……ものだろうか。
 ふと佐代は疑問に思う。
 見る限り、松樹は一人暮らしのようだ。ならば、これは誰の物か。

 そもそも、松樹は不思議に満ちていた。住んでいる所は掘立小屋だし、近くに村があるらしいのに、川の近くに一人で住んでいる。様相はまさしく浮浪人のそれで、性格もぶっきらぼう。

 ここまで考えると、佐代は強く首を振った。
 これ以上の詮索……憶測は駄目だ。私だって、自分のことは決して知られたくない。お互い様だ。私はただ、ひと月の間の宿の恩返しをしたいだけ。

 改めて決心すると、佐代は松樹の元へ駆けて行った。畑仕事の方は随分順調なようで、彼女は自分の出る幕が無いかもしれないと少々焦った。

「――持ってきたのか。遅かったな」
 こちらを振り向きもせず、素っ気なく言う松樹に、佐代は少々ムッとした。

「子供用の鍬があるなら、最初から渡してくれれば良かったんです」
 思わずそんな声が漏れていた。ギロッと睨まれる。

「何か言ったか?」
「いいえ、何も」

 素知らぬ顔で言うと、佐代は松樹の横に立ち、黙って畑を耕し始めた。相変わらず地面は固いが、思いのほか鍬が手に馴染んでくれるので、随分慣れたものだった。松樹もしばらく佐代の様子を見ていたが、やがて納得したのか、再び作業に没頭し始めた。

 互いに、口は開かない。いつの間にか、日が暮れていたことに気が付かないほど、彼らは農耕に熱中していた。