07:激流


 村がいつもより少し騒がしいことに、松樹まつきは気づいていた。しかし、誰に聞きに行くでもなく放っておいた。娯楽も何もないこの村では、少々のことで騒ぎ過ぎるきらいがある。誰かの家の子供が生まれたとか喧嘩しただとか、どこかの夫婦が離縁騒ぎを起こしているだとか何とか、どうせその辺りだろうと松樹は当たりを付け、気にも留めなかった。

 手早く一人分の昼餉をを作ると、昼にしては遅めの食事を勢いよく掻き込んだ。皿にも盛らずに、立ったままである。味なんてほとんど分からない。一人での食事ほど、作り甲斐も味気もないものはない。

 軽く着替えると、松樹は鍬を持って家を出た。家と言っても、その辺りの材木を組み合わせただけのただの掘立小屋だ。十日ほどで建てたにしてはなかなかの出来だが、しかし何より住み心地が最悪だった。隙間風は酷く、地面は固い。加えて夜になると羽虫が嫌というほどやってくる。

 もうしばらくしたらきちんとした家を建てるか、とボーっと松樹は考えるか、それ以上思考が働くことは無かった。何もかもに無気力で、本当のところ、住むところもどうでも良かった。

 しばらくの間、松樹は一心に畑を耕した。この時だけが、松樹にとって唯一心安らぐ時だった。何も考えることなく、機械的に、ただ地面を耕す。その動作の繰り返しだ。気づけばあっという間に日が暮れている、なんてこともざらにある。でもそれで良かった。気づかないうちに時間が経っているなどと、それほど嬉しいことがあるだろうか。

 松樹は額の汗を拭うと、ふっと空を見上げた。憎たらしいほどの晴天である。ここ数か月ほど、全く雨が降らない。こうも雨が降らなければ、またいつかのように、作物が枯れてしまうのも時間の問題かもしれない。

 松樹は、ほぼ農耕で生計を立てている。日照り続きだったり、大雨が止まなかったり。最近の異様な気象によって、松樹の稼ぎは無いに等しい。今は山の山菜と木の実、川でとれる魚で食事を済ませているが、畑がこの状態のままだと、冬は厳しいかもしれない。

 村人たちも、時々松樹が暮らしを立て直せるよう、家の建築を手伝ってもらったり、食糧を分けてもらったりとしているが、いつまでもそれに甘えている訳にはいかない。

 珍しく将来について考えると、松樹は首を振って畑仕事に区切りをつけた。
 どうにも今日は、畑仕事に身が入らない。
 一度こうなってしまうと、なかなか元に戻らないことはすでに立証済みだ。

 松樹は鍬を担いで、川へ向かった。それほど働いてはいないが、この晴天の下、汗は大量にかいた。それを洗い流すためだった。

 川には、人っ子一人いなかった。本来ならば、暑いとも言えるこの気象に、一人くらい水遊びをしている子供がいてもいいくらいだ。

 やはり、村で何かあったのだろうか。
 ぼんやりと考えながら、松樹は清流に足を浸した。ボーっとしながら、その穏やかな流れを眺める。

 近ごろ、この川は勢いを無くしている。もちろん、長い間雨が降らないせいだった。今はこの川のおかげで、畑の水やりにも食事にも事欠いていないが、それにもやがて、限界が来るだろう。

 その時が来たら、俺はどうすべきか。
 再び松樹の思考は暗い方向へ転移していったが、今度ばかりは彼自身もそれに気づかない。

 しかし、さすがの彼も異変には気付いた。いくら熟考していたとはいえ、目の前に奇妙な物ばかり流れていれば、気づかないわけがない。

 川の上流から、変なものが流れていた。一つだけではない。木の板だったり、妙に豪奢な布だったり。そうして最後には、人の形を成したものまで流れてきた。白っぽい装束を羽織った、小柄な人だ。

「おいっ!」
 ハッとすると、松樹は躊躇いもなくずぶずぶと川へ侵入し、その者の細い腕をとった。身体ごと持ち上げ、河原へ引き上げる。

 それは、白く細い少女だった。反応はないが、少々胸が上下しているような気もする。手首を確認すると、微かにだが脈はあった。

「おい、しっかりしろ!」
 軽く頬を叩くと、反応があった。微かに瞼を震わせた後、少女はゴホッと水を吐き出した。

「大丈夫か?」
 絶え間なく声をかけながら、松樹はその細い体を抱き上げ、家へと向かった。

*****

 最後に思ったのは、何だったのか。
 ただ、壁があると思っていた藤香が、力強く手を掴んでくれたこと。饅頭を目にして、思わず同時に笑みを浮かべたこと。それらが嬉しくて、もういいかもしれない、と思った。それが、最後だった。

 次に目覚めた時、佐代は微かに身震いした。寒い訳ではないが、生暖かい風が身体を撫で、思わずぞくっとした。意識がはっきりしないまま、しばらく天井を見つめる。見慣れない場所だった。

 佐代がいるのは掘立小屋のような所で、急ごしらえの屋根から、所々空を見ることができる。生暖かい風の正体は隙間風で、今にも壊れそうな小屋を時々震わせていた。

「大丈夫か?」
 不意に、声がかかった。と同時に、横にドサッと何者かが座り込んだ。

「熱は……ないようだな。気分は?」
「大丈夫、です」
「腹は減ってないか?」

 あまり、と答えようとして、佐代は青年が手に持っている鍋に気付いた。ほかほかと湯気を立てている。わざわざ作ってくれたのだろうか。気づけば、佐代は小さく頷いていた。

「……少しだけ、空いています」
「そうか。ありあわせの物だが、食べてくれ」
「ありがとうございます」

 手早く茶碗に盛ると、青年は佐代に手渡した。
 山菜を用いた粥のようだ。身を起こし、それに口を付ける。心地よい熱さだった。夢中になって食べていると、青年が声を漏らした。

「……なぜ」
「え?」
「なぜ、川で溺れていた? 状況から察するに、上流の方から流れてきたように見えたが」
「…………」

 佐代の視線が泳ぐ。
 思考が飛ぶのは、つい先ほどのこと。
 村で、親の仇でも見るように睨まれ、恨みのこもった口調で詰られたこと。

 全ては、自分のせいだということは分かってょる。
 言い訳などできない。全ては、私が雨を降らせることができないからいけないのだ。

 そうは分かっていても、今の佐代は何の保護も持たないただの少女。再度あの冷たい視線に睨まれるのは耐え難かった。

 自分が、巫女であるということを知られてはいけない。言い訳を考えなければ。
 そう焦る佐代の瞳に、自分の様相が映った。男物の服だ。ぶかぶかで、でも温かい。――だが、これは先ほどまで自分が着ていた装束ではない。

「あの! 私……私の服は、どちらでしょうか!?」
「ああ……外で乾かしている」

 小さな窓から、丁度外の景色が見えた。河原に棒が立てられ、そこに佐代の装束が引っかけられているのが見えた。――巫女の羽織は無かった。

 佐代は思わず安堵する。巫女の羽織は、神殿を表す象徴の印が縫われていたから、一目で佐代が神殿の者であることが分かるだろう。巫女だけでなく、神殿に対しても人々が良い印象を持っていないことは、先ほどで証明済みだ。

 どうして巫女の羽織だけが無くなっているのかは分からないが、おそらく、ぶかぶかだったせいで、流速の速さに負け、脱げてしまったのかもしれない。残った装束は、象徴も記されていないので、神殿の物とは分からないだろう。上質な布と糸で織られたそれは、少々場違いなものを感じずにはいられないだろうが、巫女の羽織が無ければ、巫女だと勘繰られることもないはずだ。何気なく顔を触ってみると、面紗も外れているようだった。

 ……そう、今の自分は、本当にただの少女。
 巫女の羽織もなければ、面紗もない。従者がいなければ、側仕えの女官も牛車もない。ただの、少女。

 暗く、でもホッとしたような奇妙な表情を浮かべる少女。彼女が黙り込んだのを見て、何を勘違いしたのか、青年は僅かに慌てたようだった。

「安心しろ。その……村の方から女性を呼んで、着替えさせた。俺は見てはいない」
「あっ、いえ、そういう訳では……。あの、助けていただき、ありがとうございます」

 両手をつき、佐代は深く頭を下げた。そのことに嫌な顔をするのは青年の方だった。

「止めてくれ。そんなに簡単に手をつくものじゃない」
「はい……?」
「もう詮索はしない。大方、探られたくない事情もあるんだろう。お互いに詮索はなしだ」
「は、はい……」

 青年から拒絶のような気配を感じ、佐代は戸惑った。詮索しないでもらえるのは有り難かったが、奇妙な心地だった。

「あの……それで、ここは一体どちらでしょうか?」
「ここか? ここは千世村だ」
千世ちせ、村……」

 聞いたことがない名だった。それもそのはず、佐代はこれから向かう街、村の名含む、そこがどういう場所で、どういうものが名産なのか、調べようともしなかった。

 こんな旅を神託が望むものか、と佐代は呆れ気味だったが、行動を起こそうともしなかった佐代自身も、所詮は同じようなものだったのかもしれない。
 考えているようで、実は何も考えていない。流されるようにして生きていたことが、佐代には今更ながら罪深いことのように思えた。

「帰る場所はどこだ? 君にも、帰る場所はあるんだろう?」
「は……い」

 曖昧に佐代は頷いた。帰る場所など、あるのだろうか。
 佐代はしばし考え込む。

 あの時。崖からゆっくりと落ちて行った時。
 自由になれると思っていた。でもなれなかった。現に今、自分はここに居る。

 ならば、自分が帰る場所は、やはり神殿だろう。あの時は何も考えていなかったが、巫女が命を落としたとして、従者たちや藤香にも迷惑がかかるかもしれない。ならば、一刻も早く神殿へ帰ることが先決ではないのか。もう、そこにしか私の居場所はないのだから。

「しん……都へ、帰りたいです。そこに、私の家があって」
「都か……。都への馬車はひと月後にこの村を尋ねる。行商人だから、その人たちに頼んで連れて行ってもらうといい」
「は……はい、そうします。何から何まで、本当にありがとうございます」

 つい佐代は再び両手をつこうとした。その腕を、力強く松樹に掴まれる。

「止めてくれと言ってるんだ。気分が悪い」
「す……すみません」

 低い声に佐代は怯え、慌てて手を引っ込めた。それにため息をつくと、青年は鍋と茶碗を手に、外へ出て行った。

 ――怖い人だ。
 彼がなぜ怒っているのかもわからない佐代は、そんな印象を抱いた。