06:激流


 昨日より一段と、一行の口数は少なかった。
 いつもならば小さく鼻歌を歌っている御者も、よく難しい顔で今後の行程について話している従者たちも、誰も口を開かない。

 深く考えれば、想定できたことだった。故意ではないとはいえ、巫女によってもたらされた大雨により、甚大な被害を受けた村。都から遠く離れたあの村では、巫女がどういう立ち位置で、さらに言えば巫女の力が、第八代目巫女――佐代にとっては容易に操ることができないことなど、それら複雑な事情を理解できるわけがない。共に旅をしている従者の大半も、おそらく佐代が気まぐれに雨を降らせたり、降らせなかったりしていると思っているのだろう。

 神殿にて祈祷を行う巫女。
 人ならざる力を持ち、突然もてはやされた村娘。

 普通の人の感覚は、このようなものだろう。その内実を深く考えることなく、ただ彼女の身に起きた出来事を、時に羨むように、時に恨むように考えている。彼女の心情など、考えもせずに。

 だが、と藤香は強く唇を噛む。
 やはりあの村を訪れたのは早計だった。自身の責だと強く己を責めたてる。

 あの村が甚大な被害を受けたことから、神殿含む、巫女に対して強く恨みを抱いているかもしれないことは容易に想定できたのに。

 藤香は気遣わしげに牛車の方へ視線を向けた。
 未だ、巫女がいらっしゃるであろうそこからは、何の気配もなかった。何の物音もしなかった。寝てしまったのか、と思い、躊躇いがちに声をかけてみれば、ぎこちなく身じろぎする音が聞こえる。彼女は、間違いなくそこにいた。

 藤香は、自分が不甲斐なくてしようが無かった。
 佐代に対して、何の言葉もかけることができない。いや、どんな言葉をかければいいというのだ。

 不意に、牛車ががくんと揺れた。そして動きが止まる。異変に気付いた従者が、すぐに御者に声をかけた。

「おい、どうした」
「いや……俺もよく分からんが……。大方、車輪が引っかかったんじゃないか。このでこぼこ道だ。仕方なかろう」
「おい、誰か車輪を見てくれ」

 がやがやと何人かが牛車の下を覗き込む。藤香は不安げにその様を眺めていた。

 この調子で、日が暮れる前に次の街までいけるだろうか。
 そもそも、もう昼も過ぎたこの時間に、山越えなどという計画は無謀すぎた。
 村を追い出された時点で、念のため街まで引き返した方が良かったのではないか。

 藤香はそんな不安を抱えていたが、もう後の祭りだ。とにかく今は、この切り立った崖という不安定な場所での立ち往生――これをさしあたり早く解決しなければならない。
 藤香は首を振って目の前に集中した。――と、屋形の小さな窓が開き、佐代が顔を覗かせた。

「どう……したんですか?」
「あ、いえ、大したことはありません。車輪が地面に引っかかってしまったみたいで」

 安心させるため、藤香は笑みを浮かべた。しかし依然として佐代の表情は晴れない。

「私、外に出ましょうか」
「いえ! 佐代様のお手を煩わせるわけには参りません。すぐに動き出すと思いますので、どうかご辛抱くださいませ」

 そんなやりとりの後ろでは、男たちがてきぱきと指示を出し合っていた。

「この石が引っかかっているようだな。どうやって退かすか」
「ようし、力のある奴、集まるんだ。車輪を持ち上げるぞ」
「全員でやった方が早い。一斉にやるぞ」

 号令係りが声を張り上げる。それに合わせ、皆が力こぶを盛り上げ、牛車を持ち上げた。佐代のいる屋形部分が大きく傾き、ぎしぎしと音が鳴り響く。藤香は一層不安げに牛車を見つめた。今になって、急に足場が不安になって来たのだ。今牛車が立ち往生しているのは、切り立った崖の上。そんな所で、地面に引っかかるなど、運が悪すぎる。ぐらぐらと屋形が揺れているのも気になった。石はまだ取り出せないのか。早くしないと――。

「危ないっ!」
 誰かが叫んだ。その声を理解するよりも早く、藤香の目は、牛車がゆっくりと傾いていく様を捉えていた。不安定な地面が崩れたのだ。連日の雨続きや日照りで、地面が脆くなっていたのかもしれない。本当にゆっくり、牛車はずるずると平衡感覚を失っていく。悲鳴よりも早く、藤香は動いた。

「佐代様っ!」
 傾いて高くなっている牛車に飛び乗り、必死の形相で扉を開けた。彼女の目に、懸命に床にしがみついている佐代が目に入った。安堵する間もなく、藤香は手を伸ばし、佐代の手を掴む。そのまま力いっぱい叫んだ。

「――誰か、誰か手を貸してください! 佐代……巫女様を!」
 佐代と藤香の視線が、しばし交じり合った。こうしている間にも、牛車は傾き続け、反対側の車輪はついに宙に投げ出される。

 ガラガラと地面が崩れる音が鳴り響いた。その最中、ころころとその場に似つかわしくない音が鳴った。二人同時にそちらへ目をやる。佐代の懐から飛び出し、懐紙からも飛び出した、二つの味噌饅頭だった。再び目が合う。この場にそぐわない、奇妙な笑みがどちらの顔にも浮かぶ。泣いているような、笑っているような、そんな不思議な微笑みだった。

「あっ……!」
 唐突に、藤香は浮遊感を実感した。ついに牛車全体が地面から離れたためだ。先ほどまで斜めだった屋形は、もう直角に等しくなっている。

 このままじゃ落ちる――。
 そう思った時、藤香の手を力強い腕が掴んだ。始めは一本だったが、やがて二本三本と増えていく。従者たちの逞しい腕だった。藤香の顔は歓喜で満ち溢れる。

 助かる、これで。
 藤香の意識は、完全に自分を掴んでいる男たちの腕へいっていた。再び佐代へと顔を向けた時、彼女は仄かに微笑んでいた。悲しそうな、でも嬉しそうな笑みだった。

「――っ」
 しっかり掴んでいたはずの藤香の手は、佐代の手によって外された。微かに意思を感じさせる力だった。

 牛車と共に、佐代が落ちていく。
 やがてその二つは、遥か下の激流にぶつかり、沈み、流されていった。