04:新しい世界――街


『世界を見せろ』
 その言葉に、今度はどのような意味が含まれているのだろうか。
 嘉六含む神官たちは、その意のまま、佐代に旅をさせ、その目にこの国を焼き付けさせようとしている。彼らのその選択が間違っているのかそうでないのかは分からない。佐代はただ、彼らの決定に従うだけだった。

 出立当日の朝、佐代は簡単な旅装に着替えた。といっても、佐代は街から街への移動の間、ずっと牛車の中で座っているだけの予定だった。ここでの生活同様、動き回ることなどほとんどないだろうが、恰好だけでも整えようということだろうか。

 その上、佐代は白く長い面紗まで被らされた。旅の間中、これを被っていろとのお達しだ。何かの拍子で民と交流を持つことがあっても、佐代は腐っても巫女。神に仕える身分の女性が、まかり間違っても下賎な者の前で素顔を晒してはならぬと嘉六は顔を顰めながらくどくどと話した。佐代は大人しくそれに従っていた。

 しかし、春や冬ならまだしも、今は太陽がまぶしく照り付ける夏だ。そのため、この面紗は、なかなかに面倒なものだった。常に口元が覆われているので、己の吐息が籠って暑くて堪らないし、風が吹くたび、何か話すたびに面紗が揺れるため、口元がこそばゆかった。

 支度が終わると、祝福の盃だとして、度数の高いお酒を神官たちと共に交わした。小さい盃一杯だとはいえ、あまりお酒に耐性のない佐代としては、酷く辛いものだった。

 嘉六が神官を代表し、見送りの言葉をつらつらと並べ立てたが、佐代はその半分も聞いていなかった。青い顔で、ただ彼の話が早く終わることだけを願っていた。

「では、ご武運をお祈り申し上げます」
「言ってまいります」

 普段ならば到底見れないような丁重さで、佐代は見送られた。十人余りの従者を引き連れ、牛車に揺られながら。その旅の行く末を、太陽だけはギラギラと照らしていた。

*****

 牛車での旅路は、想定していたよりも辛いものだった。太陽が容赦なく照り付ける外を、牛車と同じ速度で歩いている外の従者の方が、よっぽど大変だということは理解できる。が、牛車での移動は、佐代にひどい酔いをもたらした。今までこのような乗り物に乗ることがなかった佐代は知らなかったことだが、揺れる乗り物に乗ると、耐性のない者は気分が悪くなってしまうという。

 牛車は、緩慢とした動作の牛が引いているため、あまり揺れるわけではない。が、出立の時に煽った酒と、閉鎖した空間、舗装されていない道などが相まって、佐代はひどく気持ちが悪かった。牛車には小さな小窓が誂えてあるが、佐代がそれを開けようとすると、巫女がみだらに顔を出すなと、従者に窘められる始末。ならば外を歩きたいと言い出せば、巫女に歩かせるわけにはいかないと慌てられる始末。佐代にはもう打つ手が無かった。

「佐代様、冷たいお水をお持ちしました」
「ありがとう……ございます。助かります」

 藤香から手渡された水を、佐代は勢いよく飲み干した。
 この旅において、唯一の救いだったのは、藤香が共に来てくれたことだろう。以前のような関係には未だ戻れていないが、初めて会ったばかりの人と長い間旅をすると言うのは、大変な気苦労を要する。たった一人でも、顔見知りがいたことに、佐代はひどく安堵した。

「もうすぐ隣町へ到着します。それまでご辛抱くださいませ」
「あ……はい」

 言葉が見つからず、佐代は黙って顔を引っ込めた。
 今までどんな風に自分が話していたのか、佐代は思い出すことができなかった。家族とどんな話をしたのか、村人にどう挨拶をしていたのか、藤香とどんな風に接していたのか――。

 都のすぐ近くの街には、その日の暮れにはたどり着くことができた。都程には及ばずとも、なかなかに大きい街で、牛車はそのまま街の中に入ることができた。大人の背丈の二倍はあるだろう牛車と、物々しい従者の集団に、人々は好奇心を抱いたのか、すぐに一行は囲まれた。が、近寄っては危険だという本能でも働いているのか、一行の行く先を阻まれることは無かった。牛車はどこにも目をくれることなく、真っ直ぐに宿を目指し、到着したら到着したで、佐代はすぐに中に通された。その際にも人々の視線が痛いほど突き刺さったが、佐代は彼らの視線から隠されるよう、従者たちに付き従われながら宿の中へと入って行った。

 神殿から連絡がいっていたのか、佐代はすぐに部屋に通された。おそらく、この街で一番良い宿の、最も良い部屋なのだろう。部屋も広く、調度品にも豪華なものが多かった。

「すぐに夕餉をお持ちいたします。ごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「はい」

 小さく返事を返すと、佐代は面紗を外し、息を漏らした。
 これが、世界を見せる、ということなのだろうか。

 ふと視線を外すと、小さな窓が目に入った。窓掛けを少しだけ開け、覗き込んで見る。下には、未だ多くの人がいたが、やがて、興味を無くしたように一人一人と散らばっていく。物々しい集団が、自分達には興味も何もないことに気付いたのだろう。

 これが、世界を見せる、ということなのだろうか。
 佐代はもう一度自身に問いかけた。

 移動は全て牛車。周りを従者に固められ、窓を開け、外を見ることもできない。これのどこが世界を見ているというのか。
 神託の真意なぞ、一介の村娘である佐代には全く分からない。だが、この旅が何か意味のあるものになるとは、到底思えなかった。

「失礼いたします」
「はい」

 顔を俯けながら、藤香が入って来た。その後ろから、宿の給仕たちも次々と入ってくる。彼女たちの手には、数え切れないほどの料理がある。佐代は静かに心の中で嘆息した。

「こちら、今朝海でとれた海産物の生け作りにございます。山菜の天ぷら、七草粥に、豆ごはん。そしてこちらが、この街の特産物の味噌饅頭でございます。食後にお召し上がりください」
「おいしそうですね」
「ありがとうございます」

 佐代が微笑むと、店の主人はより一層笑みを深くした。その顔を見てしまえば、もう後戻りはできない。
 給仕たちが部屋を出て行った後、佐代は一人残された広い部屋の中で、難しい顔をしながら、大量に並べられた料理と睨めっこをした。

 自分一人で食べきれるかどうか。
 ただでさえ、佐代はもともと食が細い。それに加え、慣れない旅のせいで、少々気分も悪い。佐代は暗い面持ちで、箸をそっと持ち上げた。

「佐代様?」
 しかしそんな時、部屋の外から声がかかった。

「藤香でございます。入ってもよろしいでしょうか?」
「――どっ、どうぞ……」

 慌てて佐代は箸を机に置いた。何事だろうか。藤香が用事もなく佐代の部屋を訪れるのは最近では全くと言っていいほどなかった。
 藤香は入ってすぐ、まだ手を付けられていない料理に目を止めると、顔を俯かせながら口を開いた。

「今日のお食事は、この宿の者が張り切って作ってしまい、少々量が多くなってしまったようです。どうぞお気になさらず、食べきれなくなったらお残しくださいましね」
「あ、はい……」
「では、これで失礼いたします。明日も長旅が予想されます。今宵はどうかお早目にお体を休まれますよう――」
「あの、一緒に食べませんか……?」

 つい、佐代はそう口にしていた。その後、少しもごもごして藤香も、と付け加えた。藤香は少し驚いたようで、目を丸くして佐代を見つめていた。しかしやがて、深く頭を下げた。

「……申し訳ありません。まだ、私には仕事が残っておりますので……」
「このお饅頭……」

 今回ばかりは、佐代は諦めが悪かった。二つある饅頭を指さすと、おずおずと藤香を見た。

「じゃあ明日。……このお饅頭、一緒に食べませんか……?」
 藤香が何かと忙しいことは佐代も分かっている。今日も、明日の行程の確認や、護衛について、食事の後片付けや、寝ずの番について従者たちと話し合いがあるのだろう。でも、明日ならば。

 期待を込めた目で藤香を見ると、やがて、彼女は観念したように頷いた。その声には、決して忠義だけではない色もあったと、佐代はそう見て取った。

「分かりました。明日……一緒に食べましょう」
「はい」

 ぎこちなく藤香は微笑むと、そのまま礼をして部屋を出て行った。きっと、自分も今彼女と同じような顔をしているのだろう。
 が、ようやく一歩を踏み出せたことに、佐代は不思議な心地だった。