03:新たなる神託
その日、佐代は珍しく部屋でボーっとしていた。いつもならば祈祷の修練をしたり、力を蓄えるためのよく意味の分からない神のお言葉を聞かされたりするのだが、今日は何やら、師である神官たちが来ない。ずいぶん待たされた後、今日は彼らに用事があるため、今日の修練は休みだと言われた。
突然舞い込んだ休息に、佐代は特に喜びも落胆もしなかった。ただ、やることがなくなったなと、そう思うだけだ。
佐代の部屋は、小さな窓が一つあるだけで、後は大きな出入り口一つだけだ。一人部屋の割には大きく、湯殿も備わっている。歴代の巫女たちが大切に使っていたらしい調度品の数々も、どことなく品があり、綺麗だ。
ここへ来てから、佐代にとって、初めて見るものばかりだった。豪奢な飾り棚に細かい細工が施された水差し、綺麗な簪、柔らかで着心地の良い装束。
始めは、確かに心躍った。綺麗な簪を挿しているだけで年頃の娘のような気分を味わうことができたし、柔らかな寝台は、深く質の良い睡眠をもたらしてくれた。非常に居心地の良い場だった、ここは。
それがいつからだろう、それらを無感情に見下ろすだけになったのは。綺麗に己を飾りたてても、それを見る者はいない。水差しから甘露水を飲もうにも、それを共に飲んでくれる者はいない。
何もやることがないからこそ、佐代は一層寂しさを感じていた。物がたくさん溢れているからこそ、際立って寂しさが込み上げてくるのだ。
父と母は、もうこの世にはいない。
その大きな部屋に一人でいると、佐代はやり場のない胸の痛みに苦しめられた。
始めは神官たちを恨んだ。神官長を恨んだ。が、巡り巡って、結局は自分に返ってくるのだ。一番悪いのは、紛れもなく雨を止めることができなかった自分自身だ、と。
民のために雨は必要だった。その雨を降らせることができるのは、佐代しかいなかった。佐代が雨を降らせることは義務だったし、また、それを止めることも義務だった。それを、未熟ゆえに成し遂げることができなかったのは事実だった。他の誰を責める権利もない。
底なし海に落ちていくような感覚だった。そこには誰もいない。自分一人だけが、誰に助けを求めることもできず、ただ暗い水底へ落ちていく――。
「よお」
佐代のほの暗い思考を割くように、小窓から少年が顔を出した。いつもと変わらない彼――蓮介の仕草に、佐代は少しだけ息を漏らした。
「また来たの?」
「ああ。こっそり抜け出してるから誰にも気づかれてない」
蓮介の悪戯っぽい笑みは、少しだけ佐代の胸を軽くしてくれた。
「待って、ちょっと開けるから」
それだけ言うと、彼女はすぐに部屋の扉を開けた。扉を開けるくらいは難なくこなせる。が、佐代の言う『開ける』は、それだけではない。
「――すみません。蓮介を入れてもいいですか?」
「……分かりました。少しの間だけですよ」
ほんの少し困ったような笑みを浮かべながら、藤香は頷いた。佐代は胸を撫で下ろした。いくら人の良い藤香だからと言って、いつか断られてしまうのではないかと、佐代はいつも不安だった。
巫女である佐代の部屋の前には、いつも誰かが控えている。侵入者を阻止するためか、逃亡を阻止するためか、それは定かではないが、佐代はいつも見張られているという、嫌な視線を感じずにはいられなかった。
「すみません、すぐに出て行くので」
蓮介も気まずいのだろう、ちょこんと頭を下げながら部屋に入って来た。藤香からは、優しく首を振る気配が感じられた。以前とは違い、佐代との間には隔たりがあると言っても、こういう時は普段と変わらず、優しいのだ。気弱、と揶揄する者もいるが、それでも佐代は彼女のその人柄が好きだった。
「今日はすぐ帰る。俺も忙しいからな」
そうは言いながらも、蓮介は迷わず佐代の寝台に腰を掛けた。この部屋は、訪問者を予想している造りにはなっていないので、椅子はない。だからといって、部屋の主に断りもなく寝台に座るのはどうか、と佐代は思ったが、口に出すことは無かった。彼のこの行動は、いつものことだった。
「――で、何? 何かあるの?」
「いや。……大丈夫か?」
「別に。いつも通りだけど」
「……そっか」
蓮介は最近、会話の始めにこんなやり取りをするようになった。きっかけは言わずもがな、佐代の両親が死んだ、あの日からだ。あの日から、蓮介はやけに佐代の機嫌を窺うような気配が多くなった。過度に機嫌を窺うような、腫物に触るような、そんな彼の行動が、佐代は時々煩わしかった。なぜかは分からない。でも、普通に接してほしいと、佐代は訳も分からずそう思っていた。
「あの……な」
いつも以上に、蓮介は歯切れが悪いようだ。その顔には、相変わらず佐代の様子を窺うような、そんな色が容易に見て取れた。佐代は自身を落ち着かせるために、浅い呼吸を繰り返す。
ここで我を失ってしまったらいけないこと、それは分かっていた。そんな浅はかな行動は、ただの八つ当たりでしかないことは佐代もよく承知していた。根気よく蓮介の言葉を待つ。
「あの……これは、あんまり出回ってない噂なんだけど」
「…………」
「新しい神託が下されたらしいんだ」
蓮介の言葉に、佐代は表情を変えなかった。
また、神託とやらに翻弄されるのか。そう思っただけである。
「――で、今度はなんて?」
渇きの次は潤い? 私に潤いをもたらせと?
もはや、佐代には乾いた笑いしか浮かんでこなかった。どんな神託だろうと、自分がそれに抗えないことは重々承知している。むしろ、佐代の耳に直接入るだけマシだ。前回の件は、盗み聞きの様にしてその情報を得たのだから。自分のことに関する神託なのに、どうしてこそこそとしなければならないのだろう。
「……巫女に、世界を見せろと」
蓮介は、至極ゆっくりと言葉を紡いだ。途方もないその言葉に、佐代は一瞬固まった。
「……また随分突拍子もない神託だね。世界?」
「ああ」
「世界、ねえ……」
少しだけ、馬鹿にしたような響きがあったことは否めない。が、そう呟く佐代の瞳には、ほんの少しだけ期待が煌めいていたこともまた、事実である。
外に、出られるのだろうか。
ほんの少しだけ、佐代の胸は高鳴った。
もう随分長い間、地上に出ていない。巫女である自分にとっては当然のことだが、それでもやはり地上が恋しいと言う感情を忘れたわけではない。
珍しく、佐代は更に詳しく蓮介に聞こうとした。神託は、本当にそれだけだったのか。神官たちは、それにどういう反応を示したのか。躊躇うような素振りはなかったのか。
「入るぞ」
しかしそれを尋ねる前に、唐突に部屋の扉が開いた。ノックも何もない。そこから現れたのは、神官長嘉六だった。彼の後ろで、藤香が申し訳なさそうな表情をしている。嘉六の強引な言動に、抑えることができなかったのだろう。しかしそれも仕方がないと言うもの。元より神殿に身を捧げている佐代にとって、神の使者である神官には逆らうことなどできない。
蓮介もそれは同様だろう。詳しく聞いたことは無いが、彼の様相は神官見習いのそれだ。ただでさえ性格に難がありそうな嘉六に、蓮介といえども、目を付けられたくはないはずだ。
さて、どうすれば穏便に蓮介を部屋から出すことができるか。
佐代はそんなことを考えていたが、すぐにその思考は止まった。嘉六の一挙一動に目をやっていたら、彼が、蓮介を見て、ほんのわずかに眉を顰めたのが視界に入ったからだ。当然、巫女の部屋に出入りしている蓮介を、嘉六が見逃すはずがない。ただでさえ、彼は佐代が周囲に接点を持つことを厭っているようだから。が、嘉六のその不快そうな様子とは裏腹に、彼は蓮介について言及することはついぞ無かった。
すっと視線を佐代にやると、嘉六は頭を垂れた。佐代はいよいよ目を丸くする。
「――先ほど、神託が下されました」
いつもと違って、口調が丁寧だ。佐代は呆気にとられながらも頷いた。
「――はい」
一介の巫女に、あまり多くの口数は求められていない。理解していてもそうでなくても、ただ頷くことを求められる。
「巫女に、世界を見せろとの、そのようなお達しでした」
「はい」
佐代にさしたる動揺がないことを不審に思ってか、嘉六は僅かに顔を上げた。その視線は、佐代ではなく、その後ろ――蓮介へ向けられた後、再び彼は頭を下げた。
「我々も悩みました。今回も……その、理解に苦しむ神託であらせられると。協議を重ねた結果、巫女殿に、ご自身の足で国を巡っていただきたいと、そう決断がなされました」
「せ、かい……」
「左様にございます。世界と言っても、天楼国だけですが。国を隅々まで回るのは難しいでしょうが、可能な限り、国中を見て回っていただきたいと思っております」
「…………」
「出立は一週間後になります。御心の準備をよろしくお願いいたします」
地に足がつかないような、そんな心地だった。実感が湧かない。
「すみません」
気づくと、佐代は声をかけていた。普段ならば、あり得ないことだ。佐代はただ、一方的に話を聞く側であるのに。
「……何でしょう」
心なしか、嘉六も嫌そうな顔だ。早く終わらせようと、佐代も自然、早口になる。
「その……旅は、どのくらいの期間のものなんでしょうか。私一人で旅を?」
「ご安心ください。巫女殿お一人で放り出すようなことはなさいません。牛車にて、伴の者も十数人付けて旅をしてもらうことになります。期間としては、約ひと月ほどを計画しておりますので」
「そう……ですか」
安堵と共に、少々の落胆も含んだ声色だった。
確かに、一介の村娘一人が、一か月余り旅をするなどというのは、些か無謀というものだろう。佐代の方も、一人きりでの旅となると、少々不安が残る。だがそれでも、多くの護衛がつくとなると、話は別だ。おそらく、今よりも監視の目は厳しくなるだろう。監視の目をかいくぐり、何をしたいという訳ではない。が、ほんの少しだけ、その目を逃れて、一人で落ちつきたい、一人で物思いに沈みたいと、そう思うのも無理はないだろう。
「では失礼いたします」
「――はい、ありがとうございました」
嘉六はそそくさと部屋を出て行った。帰り際に、再びチラッと蓮介に視線を向けたが、彼がそれに応えることは無かった。完全に嘉六の気配が無くなってからようやく、蓮介は長い息を吐き出した。
「多分俺は見送りにはいけないだろうけど、幸運を祈ってる。無事に帰って来いよ」
「……うん」
無事。
それがどういうものなのか、よく分からない。
でもこれは――この旅は、きっと雨を降らせるための足掛かりとなってくれるのだろう。
ならば、行くしかあるまい。
先行きの分からない鬱々とした心中を抱え、佐代は静かに決心を固めた。