02:祈祷


 日も差さない祭壇の間では、仄かに揺らめく数個の行灯しか辺りを照らすものが無い。その灯りは、祭壇の手前に坐している佐代の後ろ姿だけを照らしていた。彼女の額には玉のような汗が浮かび、その表情は険しい。何かを必死に祈るように、こめかみがぴくぴくと動いているが、その場に変化はない。先に根を上げたのは、祭壇よりも更に後ろの地に胡坐をかいている神官長――嘉六だった。苛立った様子ですぐ側の神官に声をかける。
「おい、どうなんだ。外の様子は」
「……未だ、雨の兆候は見られません」
「ちっ、何が巫女だ。雨を降らすこともできなければ、お前はただの役に立たぬ女に過ぎん」
 そう吐き捨てた後、嘉六は立ち上がった。側付きたちはそれに合わせ、慌ただしく祭壇へ向かう。苦しげな表情で未だ祈り続ける佐代を尻目に、嘉六は祭壇へ手を伸ばし、神酒を掴んだ。側仕えの一人が、持っている盃に神酒を注ごうとしたが、片手で嘉六はそれを制する。だらしなく頬を緩ませると、徳利に直接口を付け、ごくごくと上手そうに喉を鳴らしながら神酒を呑み干した。威厳も何もないが、側付きたちは羨ましそうにそれを眺めていた。
「っふうう、やはり美味だな、これは。一度味を占めると、何度でも味わいたくなる」
 徳利を掲げると、嘉六は酒臭いゲップを漏らした。側付きたちは嫌そうに顔を顰めたが、何も言うことは無かった。
「三日後、また祈祷を行う。それまでに更に修行を積むことだな」
「…………」
「おいっ! 聞いているのか!?」
 眉間に皺をよせ嘉六は佐代を見下ろす。が、彼女の後ろ姿からは何の反応もない。痺れを切らした嘉六は、持っていた徳利を投げつけた。徳利は地にぶつかって割れ、僅かに残っていた酒と共に佐代の袴に飛び散った。その音に驚き、佐代は慌てて顔を上げた。祈祷に夢中で、自身の周りをうろつく人の気配に無頓着だったのだ。嘉六の額に青筋が立っているのを見ると、すぐに佐代は地に両手をついた。
「……申し訳ありません」
「寄生虫めが……。本来ならばお前のような下賎の者は、この神聖な場に入ることすら許されぬというのに。何をまかり間違ってこのような者に神託がおりたのやら……」
 なおもぶつぶつ言う嘉六に、佐代は微動だにしなかった。そのことに嘉六は再び苛立たしげに眉根を寄せたが、それ以上何も言うことは無かった。
「せいぜい精進せよ」
「承知したしました」
 佐代は深々と見送った。
 何も、思うことは無い。
 ただ、今日も雨を降らすことができなかったと、そう思うだけだった。

*****

 連日続いた大雨が止んでから、数か月が経った。洪水も収まり、土砂災害も一旦は収束を迎えた。田畑も徐々に回復の色を見せ、各村は再構築を始めた。
 しかし、今度は雨が降らなくなった。
 最初の数か月はまだ良かった。
 それまでの大雨により、雨水だけは大量に溜まっていたので、飲み水にも畑の水やりにも困ることは無かった。が、いつかはそれにも限界が訪れる。やがて、再びこの国――天楼国、は雨を所望するようになっていった。
 天楼国と違って他国には、四季がはっきりしており、雨が適度に降るところもある。しかし天楼国は、乾燥地帯とまではいかないが、一年を通して雨が降る日は極端に少なく、降ったとしても、雨量はそれほど多くはない。それを補うために生み出されたのが、巫女による祈祷だった。
 巫女には、古来より雨を降らすことのできる力が備わっているらしい。男である神官にはない、巫女だけの特別な力が。巫女は血筋で選出されるものではなく、その時その時で、誰がその力を持っているのか、判別することはできない。対して神官は、神との接触を許されているので、神による神託――お告げによって、巫女を選出していた。佐代は、第八代目の巫女だった。
 巫女は、必ず見つかる訳ではない。何十年も見つからない時もあれば、同年代に二人見つかった例もある。では、巫女がいない時の雨はどうしていたのか。
 いくら天楼国は雨が降りにくいと言っても、全く降らない訳ではない。巫女の力が無くとも、雨は必ず降る。巫女の力が絶対的に必要なわけではないのである。過去には、何十年と巫女が現れなかったこともあったが、他国との協力を得て、何とかやり過ごした。が、それでも飲み水に事欠いてはいけないので、巫女の力を頼る。それは、ごく自然なことだった。
 そして、その巫女が役立たずであると、天楼国全域にわたって迷惑をかけるということも。いや、迷惑なんて可愛いものではない。巫女の力は、民一人一人の命を左右するものだ。いつまでも役立たずでいるなどと、あってはいけないことだ。
「お怪我はありませんか?」
 不意に、上から声が降ってきた。ハッとして顔を上げると、女官の藤香が、心配そうに佐代を見下ろしていた。彼女はすぐに跪くと、佐代の周りに散らばった徳利の欠片を集め始めた。
「大丈夫です」
 言葉短く頷くと、佐代もすぐに欠片に手を伸ばす。が、それに到達する前に、白い手にそっと押しやられた。
「お怪我をされると、いけないですから。私にお任せください」
「……はい」
 佐代はすぐに手を引っ込めた。ここで駄々を捏ねて、彼女を困らせる訳にはいかない。
 いつからだろうか。藤香との間に、壁を感じるようになったのは。
「佐代様、お召し替えを」
「――はい」
 藤香は、佐代よりも一回りほど年上の女性だ。商人の家の出らしいが、家業を継ぐのが嫌で、ここへ行儀見習いのためにやって来たとか。故郷に同じくらいの妹がいると、佐代は良く可愛がってもらっていた。始めのころは、よく夕餉の後に甘味が出たので、こっそり藤香と共に食していた。あの頃が、懐かしい。
「佐代様、失礼いたします」
 藤香に手伝ってもらいながら、ぶかぶかの装束を脱いで行く。始めは人の前で裸になるなんて、と渋ったものだが、今はもうそんなこともない。羞恥心がなくなったとか、そういうわけではなく、ただただ、そのことに言及するのが面倒になっただけだった。
「湯殿の準備が整いましてございます」
「はい」
 小さく頷くと、佐代はほかほかと湯気の立つ湯殿に足を踏み入れた。藤香は顔を俯けながら、その後に続く。
『巫女に渇きをもたらせ』
 その神託が降りてから徐々に、藤香は他人行儀になっていき、そして口数が少なくなっていった。神官からのお達しがあったのだろう。佐代とは口を利くな、と。
 佐代自身に渇きがもたらされたのかは分からないが、とにかく、雨は止んだ。目的は達成されたのである。その後、すぐにまた、人々が訪れるようになっていった。雨が止んだ当初の神官たちは、媚の愛想笑いを顔に張り付けていた。それまでの軋轢などなかったかのように、全て忘れ去ったかのように。だが、藤香との関係は、元に戻ることは無かった。藤香とこそ、何もかも忘れたかのように、今まで通り付き合っていきたかったのだが、それはやはり無理なようだ。彼女の顔に、かつてのような柔らかい笑みはない。
 きっと彼女も、私の両親が殺されたことを知っているのかもしれない。だから、私と仲良くすることに怯え、必要以上の接触を絶とうとしている――。
「お湯加減はいかがでしょうか」
「はい、大丈夫です」
 なんて、自分よがりな考えだろう。
 佐代は自分で自分の思考に嫌気がさし、そのまま湯に顔を埋めた。
 自分には、人の思いを決めつける権利なんてない。ましてや、それがずるいとか、仕方がないとか、そう思うことすら傲慢だ。
 責めるべきは、一番悪いのは、誰でもないこの私なのに。
 そんな自己嫌悪が、佐代の胸にも滞っていた。だからこそ、佐代の方からも藤香に歩み寄ることができず、その間の壁を埋めることができずにいる。
「痛みはありませんか?」
「大丈夫です」
 佐代の身体を優しく洗ってくれる藤香の手は、所々あかぎれしている。佐代はそっと己の手を盗み見た。一年以上外にも出ず、畑仕事もしないその手は、白く、柔肌へと戻りかけていた。
 佐代は静かに思う。
 いったい、この国にこれほど綺麗な手の女性はどれだけいるのだろうか。
 いったい、この国に冬でも暖かい真水の湯を使うことができる人はどれだけいるのだろうか。
 役立たずの巫女が、何を呑気に湯を使っているのか。
 佐代には自重気な笑みしか浮かんでこなかった。