01:巫女の雨


 雨は好きだ。
 雨は喉の渇きを癒してくれるし、田畑を肥やしてくれる。そして何より、母の目を盗んで散々雨を楽しんだ後、今日の洗濯は終わった、などとうそぶくこともできる。そうすると、決まって母は呆れたような顔をするが、最後には笑って許してくれるのだ。
 佐代には父と母がいた。しかし生活は芳しくなく、佐代も物心がつく頃になると、父と共に畑仕事に駆り出された。しかしそれを辛いと思うことは無く、むしろ、一生懸命働いた後は、母が用意してくれた温かい食事が、いつも以上に美味しく感じられた。おいしいおいしいと言いながらご飯を掻き込む佐代を、父と母は本当に嬉しそうに見ていたものだ。
 その一団が来たのは、とある晴れた日だった。
 連日晴れ続きで、なかなか雨が降らなかった。畑はカラカラに乾き、人々は水に飢えた。そんな時、彼らは突如山の村の入り口に現れたのであった。
 一行は、太陽など浴びたことがないかのように真っ白な顔をしており、地につきそうなほどの長衣を着ていた。佐代は、あんな恰好で暑くないのかだとか、すぐに汚れてしまいそうだとか、そんな見当違いなことばかり考えていた。
 彼らは迷いなく佐代の家に行くと、挨拶もそこそこに、佐代の両親の前に途方もないほどのお金を投げ渡した。『巫女』として、佐代を迎えたいのだと彼らは言った。
 佐代達家族も、その周りの人々も、もちろんその『巫女』とやらが何なのか、さっぱり分からなかった。しかし彼らはそれを説明することなく、ただ佐代を都に連れて行きたいのだと、そう繰り返した。
 連日の日照り続きで、佐代達の作物はほとんど駄目になってしまった。頼みの綱の内職は、最近母の具合が悪く、あまり進んでいない。今日の夕餉にも困る始末だった。頷くしかなかった。むしろ、諸手を上げて喜んでもいいくらいだ。それでも、両親は最後まで首を縦に振らなかった。まだ当てはある、村の者たちに助けてもらうと頑であった。それを押し切ったのは佐代本人だった。
 身を売られるわけではない。むしろその逆――何をやるのかは分からないが、この人たちは、私を大切にしてくれるらしい。
 そう両親を説得し、佐代は都へと旅立った。最後には両親も頷いてくれた。涙を堪え、無理に笑みを作って、抱き締めて送ってくれた。

 神殿での修行は厳しかった。佐代は文字を習い、祈祷の方法も教えられた。師となる神官たちは、入れ替わり立ち代わりで目まぐるしかった。その中には、甘い砂糖菓子をご褒美としてくれる者もいたし、佐代が間違いを犯すと、折檻を行う者もいた。
 修行と並行して、祈祷も行われた。禊を済まし、神殿の奥深くの祭壇の間にて、祭儀を行うのである。簡単に手順を習ったとはいえ、間違いも多い。佐代は後ろから神官たちの叱咤の声とともに、やがて完璧に祭儀を行えるようになった。が、それでもなかなか雨を降らすことはできなかった。
 『巫女』とは、祈祷によって雨を降らすことのできる力を持つ者のことらしい。佐代はそれだけを教わり、ただ雨を降らすことだけを考えろと言われた。
 いきなり巫女だともてはやされ、修行を強いられる毎日。村で暮らしていた頃よりは、生活に不安を持つことは少なかったが、それでも、村の頃とはまた違った不安が佐代を襲った。
 祈祷の時、何を思えばいいのだろう。本当にこの手順で合っているのだろうか。私のせいで、雨が降らないのか。私が駄目だから、民は困っているのか。
 雨が降らなければ、民は生活できない。
 それは佐代自身も重々承知している。
 が、巫女として、民のために祈れと言われても、とんと想像がつかなかった。つい先日まで、明日の暮らしさえ危うい毎日だったというのに、それがどうして、何百万といる民の身を心配することになろうか。
 膨大な数の民のことは、佐代もよく分からない。でも、家族のためを思うと頑張れた。自分の降らせる雨が、家族の喉を癒してくれる。畑を肥やしてくれる。手軽な湯浴みを与えてくれる。雨が降ってくれたなら、きっと二人は喜んでくれるだろう。佐代が雨を降らせたのだと。佐代は元気でいてくれると、手紙の代わりに私の消息を伝えてくれるのだろう。
 そんなことを考えていると、ポツリ、ポツリと次第に雨が降るようになっていった。最初の頃はただの通り雨だった。しかし、修行を重ねるうちに、小雨から、普通の雨、そして大降りの雨へと成長した。継続時間も、始めはほんの少しの間だったが、やがて一日中降らせることができるようになっていった。
 雨は、こんなに簡単に降るものだったのか。
 佐代は呆気にとられる思いだった。
 村にいた頃は、天気が全てを左右した。晴れの日は、父と一緒に畑仕事をした。雨の日は、畑仕事ができないので、掃除をしたり、内職をしたりした。嵐のときは、家の屋根の補強をしたり、それが過ぎ去った時には、改めて補修したりした。全ての生活には、天気が関わっていた。
 生活には雨が必要だった。雨が無ければ、作物も取れず、水も無くなり、果てには生きることすらできなくなってしまう。その雨が、ただの少女の祈り一つで、簡単に降り出した。
 ――天気を操ることができる。
 そんな大層な思いなどは持っていなかった。ただ……家族が、民が幸せに生きることに、支障が無くなればいい。そのためには。
 しばらくは、ずっと雨を降らせていてもいいのかもしれない。
 佐代はそんな風に思っていた。

*****

 雨は、長い間振り続けていた。一日、一週間、一か月。
 雨は――水は、国中に溢れかえっていた。ただの雨は、やがて川の氾濫を招き、洪水をもたらした。山沿いでは地盤が崩れ、土砂災害が起こった。
『早く雨を止めろ!』
 神官たちは口々にそう叫んだ。もちろん佐代もそれに尽力した。が、上手くいかない。止められない。しばらくの間に、佐代の祈祷の力は、自分で制御することができないほどに膨れ上がっていた。
 もういい、もういらない、もう止んで。
 闇雲にそう祈るが、元より祈りにコツなんてものは無い。雨を降らせたこと自体、奇跡に等しかったにもかかわらず、それを止める方法など、佐代には分かるわけもない。
 焦りが焦りを生み、食物も喉を通らなくなった。それに呼応するように、民からの悲鳴もまた、酷くなる。
 そんな時、ある噂が立った。
『巫女に渇きをもたらせ』
 そう、神託が下されたらしい。
 女官たちが話をしているのを小耳にはさんだ。佐代はある意味ホッと胸を撫で下ろした。どういう意味かはよく分からなかったが、とにかく、神託の通りにしていれば、雨は止んでくれる。そう思うと、肩の荷が下りた気分だったのだ。

『渇き』
 人によって、様々な解釈があるだろう。
 始め、人は佐代に水を与えなくなった。湯浴みのための湯はもちろんのこと、飲み水でさえも。それでも、死んでしまっては困るのか、必要最低限の量の水は与えられた。佐代は貪るようにそれを口にした。季節は春だった。日も差さない神殿は涼しく、喉がひどく乾くようなことは無かったが、それでも一日に水差し一杯というのは、佐代の身体には堪えた。
 だが、それでも雨は止まない。
 次に、人は佐代に食べ物を与えなくなった。飲み水と同様、必要最低限の量の食べ物は与えられたが、さしたる重労働はしないとはいえ、一日に握り飯一つというのは佐代の身体には堪えた。
 しかしそれでも雨は止まない。
 次に、人は佐代との交流を絶つようになった。それまで佐代の部屋には、次世代の神殿を担っていくであろう彼女との接点を持とうと、ひっきりなしに人が訪れていたのだが、それが全て止んだ。それだけではない。知り合いの訪問も止み、佐代と懇意にしていた女官との会話も止み、故郷の家族との手紙もぱったり止んだ。止めさせられた。
 それでも雨は止まなかった。

*****

 ある時、訪問者があるとの言葉をかけられた。久しぶりの人の声だった。その声に頷くと、佐代は着替えをさせられた。祈祷の時の様に禊を行い、体を清めた。
 人と会うだけなのに、わざわざこんな恰好をするのか。
 佐代はそう思ったが、もう随分長い間水も食物も満足に食べることができていない体では、思考もうまく働かなかった。
 祭儀を行う時のように、祭殿にはいくつかの行灯が灯されていた。まるで送り火のようだと、そう佐代は思った。いつも祈祷を行う時は同じような景色のはずだが、今回だけは、そんなことをボーッと考えていた。
 祭殿へ供物と神酒を捧げた。訪問者のことはすっかり忘れ、久しぶりに祈祷を始める。同じ手順、同じ動作で、一寸の狂いもなく行い、雨が止むことを、ひたすらに祈った。
「……佐代?」
 声がした。懐かしい声だった。
「お、父さん?」
「佐代……良かった、まさか本当に会えるなんて」
「大きく……なったのね」
 懐かしい、父と母だった。振り返った佐代の瞳には、二人の元気な姿があった。
「お父さん、お母さん……!」
 思わず佐代は二人に駆け寄る。祈祷の最中だということはすっかり頭から離れていた。ただ……今はただ、両親のもとに。
「佐代!」
 外は相変わらず大雨だったのだろうか、彼らの肩は随分と濡れていた。寒そうにも見えた。
 佐代は両手を大きく広げる。二人ともを、その手に抱きかかえるためだった。本当に懐かしい。神殿へと送り届けられるときも、こうして二人に抱き締められた――。
 しかし、佐代の身体は温かい温もりに抱き締められることはなかった。彼女の目の前で、赤い水がほとばしり、二人が崩れ落ちた。
 静寂が訪れた。いつの間にか、神殿へと叩きつけるように降り続いていた雨も、止んだようだった。
「雨が……雨が止んだぞ!」
 しかし佐代の耳には、何も届いていなかった。身を隠していた神官たちが、わらわらと出て騒ぎ始めても、拍手喝采が起こっても。
「太陽だ! ようやく太陽が現れたぞ!」
 一歩、佐代は両親に近づく。彼らは、ピクリとも動かなかった。
『渇き』
 結局それが何を表したものなのか、佐代には分からない。
 でも佐代は悟った。己の心は、今確かに渇ききった、と。
 地に滴り落ちるように、赤い雨はぴちょんぴちょんと落ちていた。地を潤わすように、赤い雨は佐代の足元まで流れてきた。
 雨は、嫌いだ。