32:佐代の意思


 次の日の早朝、嘉六に小言を言われぬよう、佐代は早々に祭壇の間へ到着していた。その途中、侵入者やらなんやで、少し騒がしかったが、佐代は誰にも遭遇することなくここへ辿り着いた。外には幾人かの神官が見張っており、逃げることも誰かが入ってくることも不可能だろう。
 佐代は心を落ち着け、目の前の祭壇を見つめる。佐代はもともと聖職者ではないので、神は信じていない。そんなことを公言すれば、神官たちにくどくど説教されそうなものだが、佐代のような農民は、神よりも自分の明日の生活の方が大切であるので、それも当然のことだ。神が、明日の、今日の食べ物を用意してくれるのなら話は別だろうが。
 しかし――となると、自分のこの不思議な力はどう説明がつくのだろうか。天に祈ることで、雨を降らせることのできるこの能力は。
 そこまで考えた時、佐代は僅かに嘆息して、思考を停止した。考えても無駄なことだった。そんなことを考えても、答えは見つからないだろうし、キリがない。それに、億劫でもあった。
 佐代は再び祭壇を見つめる。
 この神殿は、佐代にとって嫌な思い出ばかり残る場所だった。もちろん、蓮介や藤香と出会えた場所でもあるが、同時に両親を失った場所でもある。
 喜びと悲しみ。
 二つの思いが拮抗するこの場所は、結局佐代にとって辛い場所だと言う思いしか残らなかった。
 だが、千世村は違う。
 別れこそ佐代が想定していた以上の辛さだったが、あそこでは驚きの連続だった。助けてくれた松樹は不愛想ですぐに怒るし、久しぶりに持った鍬は思いのほか重く、次の日には筋肉痛になった。始めは難しいと思っていた料理も、志紀さんに教えてもらって、次第に食べられる味にはなった。山菜取りの帰りに見た星空は、今までで一番綺麗に見えたし、皆で食べるお弁当はすごく美味しく感じられた。
 いろいろな思いが膨れ上がった千世村。両親と別れて、初めて人間らしい生活のできた場所だった。
 懐かしい。あの頃が、まだ三日と経っていないのに、もう懐かしさに焦がれている。
「佐代」
 彼の、幻聴が聞こえるほどに。村にいた頃はあまり名前を呼んでくれなかったくせに、今頃そんな声が聞こえる。
「おい」
 ぶっきらぼうなその声までそっくりだ。祭壇の間という神聖な場所では、どうやら不思議な現象が起こるらしい。松樹さんの声が聞こえるなんて。
「聞いているのか?」
「――はい?」
 神官長の声ではない。反射的に佐代が振り返ると、そこにはあの頃と違わない仏頂面が。
「大丈夫か? やつれているようだが」
「あ……はい、大丈夫です」
 自分の声が遠い。理解するよりも早くそんな言葉が飛び出していた。
「蓮介はまだ来ていないのか。寄るところがあるらしいが」
「……蓮介?」
「ああ、ここまで連れて来てくれた。その後は藤香さんという人にも」
「藤香さん!?」
 ようやく佐代は正気に戻った。なぜか目の前にいる松樹よりも、藤香の名の方に反応した。
「あの……元気、そうでしたか?」
「ああ。お前によろしくと伝えてくれと言われた」
「そう、ですか……」
 顔は、見れないのだろうか。長い間消息を絶って、心配していたかもしれないのに。
 あの時……崖から落ちそうになっていた時、わざと手を離したこと、怒っているだろうか。 
 そこまで考えが至った時、彼女の思考はすぐに村の人々のことにまで及んだ。
「村の方たち、あの、怒って……ましたか?」
 聞きたくないのに、聞かずにはいられなかった。一種の防衛反応なのかもしれない。彼らにどう思われていようともう彼女には関係ないことなのだが、それでも気になる。
「どう、言えばいいんだろうな」
 松樹は視線を迷わせる。
「怒っている……というよりは、混乱している様に見えた。いきなり巫女だなんていわれて、驚いていたな」
 佐代は黙りこくって下を向く。松樹の様子から、自分に対する配慮がうかがえる。村の人たちからの反発はもちろんあっただろう。それを、ただ佐代に伝えないだけで、ないわけがない。
 そんな彼女を見て、松樹はポツリと言葉を落とす。
「雄造さんが、また会いに来いって」
「雄造さんが?」
 思わず佐代はどもる。
「ど……どうしてですか?」
 直接、言いいたい文句があるのだろうか。
 彼がそんな人ではないことは、短い間だったが、分かっているつもりだ。でもどこかそんな怯えが佐代にはあった。
「そんなに身構えるなよ。変な意味じゃない。きっと、いろいろ話したいことがあるんだろ。お前を怒るとか、そんなつもりはないと思う」
「そう……でしょうか」
 神殿から迎えが来た時、佐代は大した説明もなしに、黙って村を出てきてしまった。
 まるで……逃げるかのように。いや、事実そうだった。真実を知った彼らが、佐代のことを憎悪の対象として見るようになる姿を、見ていたくなかった。本当なら、きちんと話し合わなくてはならなかったのに。
「何者だ!」
 その時、部屋中に大きな声が響いた。嘉六だった。二人はびくりと肩を揺らす。
「その者から離れろ!」
「え……え」
 慌てふためく佐代をよそに、嘉六が入って来た扉から、守衛がぞろぞろと入って来た。
「おい、守衛! 何をしている、あいつを捕らえよ!」
「はっ」
「まずいな……」
 血相を変えて松樹は身を翻した。扉とは逆の方向だ。そもそも、松樹が祭壇に入って来られたことすら不思議だった。扉の前には常に守衛が二人はいるというのに。――ならば、祭壇の間に、隠し通路でもあるのかもしれない。
 佐代は何もできないまま、ただ目の前で捕り物が行われるのを見ていることしかできなかった。が、何とか捕まらずに祭壇の間からは逃げおおせたようで、松樹と守衛たちの声は次第に遠くなっていった。
 佐代がホッとするのもつかの間に、今度は嘉六の鋭い目が彼女に向けられる。
「あいつは知り合いか?」
「え……あ」
 どう返事をしたものか、佐代はしばし逡巡する。しかしその間を肯定と受け取ったらしく、嘉六は唇を歪めた。
「……なるほどな。ひと月も何をしていたのかと思えば、男の元に転がり込んでおったのか」
「あ……」
 何も言い返すことができず、佐代は黙り込んだ。事実、他人から見ればそうだろう。たとえ、二人の間にどんな複雑な事情があろうとも。
「まあいい。話を変えるぞ」
「……っ」
「まず、雨を降らせるのは週に一度だ。国全体に偏りが出ぬようにするのだぞ。それに二週間後には遠征を行う。ブルメール領に赴き、全域に雨を降らせるのだ。三日三晩な。後は……まだ正式には決まっていないが、とある屋敷に出向き、そこで見世物として雨を降らせてもらう」
「み、せもの……?」
 聞き慣れない言葉に、一瞬佐代の思考が停止する。嘉六は更に笑みを深くした。
「お前にとっても良い話だろう? いくらかの報奨金が出る。ただ雨を降らせるだけで金が入ってくるんだ、これほどの話はそうはない!」
「あの……神官長」
 佐代は躊躇いがちに口を開いた。
「私……外に、出たいです」
「……何だと?」
「外で……生きていきたいとは言いません。でも、せめてたまに神殿の外に出るくらい――」
「神殿の外にならこれからいくらでも行けようぞ! この国だけではない、海を越えて他国にまで遠征させてもいい! もちろんそこでも雨を降らせてもらうがな!」
 嘉六は、思わず漏らしていた。頭の中は金のことで一杯だった。
 天楼国同様、近隣諸国でも日照りに苦しんでいる国は多い。そんな国に佐代を貸し出せば、かなりの儲けが懐に入ってくることは想像にたやすい。
 金持ちだ! 大金持ちだ――!
「神官長、その一言は聞き逃せぬな」
「……誰だ」
 唐突な声に、佐代と嘉六、二人して後ろを向く。守衛もおらず、大きく開かれた扉から、真っ白く艶やかな光沢を放つ長衣を羽織った老人と、その隣には蓮介がいた。佐代は目を丸くするが、嘉六はそれ以上に震撼したらしい。
「だ……大神官様……!」
 彼の声は震えていた。大神官は、長衣と同じように白い口髭を撫でつける。
「巫女を他国に遠征させるだと? それも、遊学などではなく、巫女として行かせると」
「い、いえ……それはただの言葉の綾でございまして、私としてもそのようなつもりは……」
「私にはそのように聞こえたがな? ブルメール領にも雨を降らせる、と言っていたな? 特定の地域のみに雨を降らせることは禁止しているのだが」
「そっ、それは……」
 あわあわと嘉六は視線を下に向けると、黙り込んでしまった。返す言葉が見つからないのか、彼は悔しそうに口をひん曲げる。
「……佐代」
「蓮介!」
 そろりと蓮介が寄って来たので、佐代も小声で反応する。
「こ……これは……?」
「最近神官長の動向があまりにも目に余るので、ちょっと大神官に出向いていただいた」
「大神官……様、というのは?」
「神殿を治める最高位のお人だよ。普段は滅多に顔を出さないんだけど、このままだと国中の問題になりそうだからね」
「巫女殿」
 唐突に矛先が佐代に向く。佐代はビクッと肩を揺らした。
「はっ、はい……!」
「そなた、祈祷無くして雨を降らせることができるらしいな?」
「は、はい……。できます」
 言いながらも、佐代は小さく縮こまる。千世村では難なくできるようになったが、ここでも同じようにできる自信はない。目の前の大神官の迫力に圧倒され、もしできなかったら自分はどうなるのだろうと冷や汗ばかりかいていた。
「よろしい。では、三か月猶予を与えよう。その間に私の目の前で雨を降らせることができたのなら、巫女殿は晴れて自由の身。どこへでも行くがよい」
「え……」
 躊躇いがちに視線を上に向ける。
「ど……どこへでも……?」
「左様。ただ、それでも他国に行くことはできないが。定期的に神殿と情報交換をし、私達の意向通りに雨を降らせることも条件だ」
「…………」
「それでよろしいか?」
「はっ、はい!」
 ぶんぶんと佐代は首を振った。それを見届けると、大神官は大仰に頷き、そのまま去って行った。佐代は唖然とそれを見送った。
「こ……これで、良かったの……?」
 あまりに物事が素早く動いて行ったので、佐代はいまいちよく分からない。小さな声で蓮介に訪ねてみれば、彼は安心させる様に大きく頷いた。
「ま、いいんじゃない。佐代も本望でしょう? もう自由なんだから」
「自由……」
 思わずぽつりと呟く。それに反応したのは嘉六だった。
「本当に……それでいいのか?」
 くっと嘉六は口元を歪めた。
「ここで暮らした方が幸せなこともある。外には知らなくても良かったこともあっただろう。あの村でひと月暮らしたお前なら分かるはずだ」
 何を急に、と蓮介は呆れて一歩前に出たが、佐代はそれを手で制した。
「それでも……いいんです。私を恨む人はたくさんいるでしょう。でも……それ以上に私のことが憎いのは私自身なんです」
 この気持ちはきっと一生消えることは無い。一生償い続けなければならない、佐代の罪。
「これからは……これからは、本当に必要な時だけ雨を降らせたいんです。自然の調和の中に、私の居場所はないと思うから」
 佐代の顔は晴れ晴れとしている。
「行こう」
「うん」
 蓮介の声に、佐代は力強く頷いた。