31:侵入


 神殿についた後、休む間もなく佐代は湯殿に放り込まれた。禊の前に、ここひと月でこびり付いたであろう垢を落とすためらしい。わらわらと現れる女官たちにされるがままになりながら、しかし彼女の目はくまなく何かを探すように動いていた。
「あの……藤香さんは?」
 彼女の姿が見えないので、佐代は躊躇いがちに聞いた。彼女のすぐ側で、衣を手に持っていた女官が答える。
「彼女は巫女様の側仕えを下ろされました。今は祭儀の準備を行っているはずです」
「そう……ですか」
 淡々とした声に、佐代は落胆を覚えずにはいられなかった。せめて無事な姿だけでも見たかったのだが、許されることは無さそうだ。
 神殿側の主張として、この一か月の佐代の行方不明事件は、佐代自身の放蕩のせいだということになっていた。崖から落ちたのは事実だが、神殿への連絡を怠り、監視の目から逃れようとしていたということらしい。
 確かに、神殿に帰ろうと思えば、何らかの方法はあったはずだ。馬車を待たずとも、街道を歩いたり、馬を借りたり。それを思うと、佐代自身も弁明するのが悪いことのように思えて、何もいうことができなかった。きっと馬車のことを言ったとしても、神殿側は聞く耳を持たなかったはずだ。
「神官長様が祭壇にてお待ちでございます」
 禊も終えると、佐代は祈祷用の装束に着替え、地下へ向かった。日も差さない、まるで牢獄のような祭壇。そこで、天に雨を乞う祈祷が行われる。
 暗い祭殿の中を、一人佐代は進んでいった。いつかのように、祭殿の前に座り込み、心を落ち着ける。?燭だけが唯一の光だった。
「遅かったな」
 祭殿の奥から神官長が現れる。咄嗟に佐代は両手をついた。彼の声に、苛立たしげなものが交じっていることに気付いたからだ。その時になって初めて、松樹の言っていることが分かったような気がした。
「――申し訳ありません」
 謝るな。
 佐代のこれは、謝罪ではなく、相手の地位を明らかにするためのものだった。ひれ伏せばひれ伏すほど、佐代自身が脆くなっていく。
「お前にはいろいろと聞きたいことが山ほどあるが、今はとりあえずおいておこう。早急に知らなくてはならないことがある」
 一つ、神官長は息を吸った。佐代は緊張して身体を強張らせる。
「調査により、ここ数日の頻繁な雨はお前の力によるものだということが明らかになった。あの村から円状に雨が広がっていたからな。自覚はあるか?」
「……はい」
「あれらは自分の意志で降らせたのか?」
「はい」
 先を促すような沈黙が漂った。顔を俯かせたまま、口を開く。
「練習を、しておりました。先日……雨を降らせることができたので、今度こそきちんと制御できるように、と」
「ふん、その心意気に免じて、連絡なしに放蕩していたことには目を瞑ろう。して、どこまで上達した」
 どこまで、と言われても、この神官長が何を望んでいるのか分からない。
 しばらく佐代は考え込んでいたが、やがて全てそのままに伝えることにした。
「雨量と……見える範囲での雨の位置指定、そして降らせる時間です」
「……そうか」
 不満げに神官長は言い捨てたものの、内心では驚いていた。過去の神殿の記録によれば、雨は綿密な調整をすることができると記されていた例はなかった。そもそも、雨の位置指定をできることすら分かっていなかった。
 巫女は神殿の祭壇に籠り、祈祷を行う。供物や神酒を捧げてようやく雨がしとしとと降り始める、と。それが、歴代の巫女による雨の降らせ方だった。
 始め、佐代の制御すらできない雨の惨状を思えば、歴代でも落ちこぼれだと思ったが、この成長具合を思えば、屈指の巫女と言っても過言ではないかもしれない。
 これは使えそうだ、と神官長はほくそ笑んだ。
 何しろ、ただで雨を降らせる能力というのは、国を豊かにするだけでなく、外交や金儲けにも使えるからだ。
「――分かった。しかしこれからは私達に従ってもらおう。勝手に雨を降らせようなどと思わぬことだ。秩序が乱れるからな」
 自分がこれからその秩序を大いに乱そうとするのだが、そんなことは棚に上げて彼は言い捨てる。
「今日の祈祷は中止して、明日の午前、祈祷を行う。場所はこれまで通りここだ。いいな」
「はい」
「これから雨を降らせるのは、週に一度だ。その時の雨量はその都度指定する。これから調査も兼ねて研究していくことだろう」
 神官長の目はぎらついていた。
 佐代は、そんな彼を哀れに思った。
 雨は……自然は美しい。だが、それは人間の手に負えないからだ。決して手に入らないものだからこそ、だ。
 あの時――山奥で松樹と共に見た星空が、いつでも見られるようになってしまったら、きっとそこにかつての美しさは存在しないのだろう。
 巫女によって制御される雨と、これからも神殿に捕らわれていくだろう自分。
 支配する側と支配される側なのに、似ていると思うのは気のせいだろうか。

*****

 まだ日も昇らぬ早朝、松樹と蓮介は行動を開始した。昨日のうちに調達していた裾の長い服を着込むと、早速神殿へと出向く。
「神殿は部外者をひどく嫌います。俺一人ならまだしも、松樹さんが正面から行って入れる確率は低いでしょうね」
 道中、計画を蓮介がぺらぺらと話した。軽い口調だが、しっかりと何か考えてはいるらしい。松樹は寡黙に頷く。
「取りあえず裏から入ります。俺の部屋まで行き付くことができればこっちのものです。問題はその道中ですね。一応俺は神官見習いですし、顔も多少利きますが、何しろ見慣れない人がいるとなると――」
 チラッと気遣わしげな視線を松樹に向け、溜息をつく。
 浅黒い肌に、大柄な体格、がっしりとした体つき。
 ……とりあえず長衣を羽織らせてみたけど、隠しきれてないよなあ……。
 問題は、松樹がとにかく神官らしく見えないことだった。神官たちは基本上流の家の出で、幼い頃から自宅や神殿にて教養を付けてきた。そんな彼らが、まかり間違っても日焼けなどしている訳がない。
「……まあなんとかなるでしょう。運を天に任せるしかありませんね」
「そうだな」
 そんな蓮介の葛藤など露知らず、松樹はやけにあっさりと同意した。
 松樹と蓮介は、まず神殿の裏側へ回った。が、神殿をぐるりと囲っている塀は背が高く、簡単に侵入できそうにない。
 しかし丁度神殿の入り口の真後ろの所に、一つの扉があった。そこから入るのか、と思っていた松樹をよそに、蓮介は唐突に塀の前にしゃがみこんだ。ガコッと石の一つを外すと、躊躇いもなく腕を突っ込む。
「確か……ここにあるはず」
 ぶつぶつ言いながら彼が取り出したのは、古びた鍵だった。
「どうしてそんなものを?」
「知り合いの女官に聞いたんです」
「はあ……」
 軽い調子で言いながら、蓮介は鍵で扉を開けた。それらの行程を、松樹は呆気にとられる思いで見つめていた。畑仕事をしていた時の、いつもへっぴり腰で、しかし口だけは一丁前の蓮介と同じには見えなかった。
 扉をくぐった先は小さな庭だった。背の高い木が生い茂り、身を隠すには十分だか、さてこれからどうするんだ、と蓮介を見やれば、またもや彼は躊躇いなく一方向へ突き進んだ。ある大木の前に立ち止まると、その根元の土を掘り返す。やわらかい土なのか、すぐにその下から取っ手のついた木製の板が現れる。
「ここは隠し通路です。いざという時の脱出経路ですね。ここの存在を知っている人の方が少ないでしょうから、まず見つかる心配はないかと」
 その板から下へは地下へ繋がっているらしく、所々に上がり降りするための足掛かりがついていた。暗く狭いそこを、注意しながら二人は降りる。
「……どうしてこんな所を知っているんだ」
「父に聞きました」
「…………」
 もう、松樹は聞くのを諦めた。追及した方が負けだ。聞けば聞くほど気になってしまう。
 暗く長い通路を出た先は、狭い一室だった。見たところ使われていない部屋らしく、所々に埃が積もっていた。
「さて、松樹さん。そろそろ俺たちは別行動になるかもしれませんね。ちょっと寄りたいところがあるので」
「え……」
 松樹は面食らった。
「お前は佐代に会いに行くわけじゃないのか?」
「その前に行くところがありますから」
「それじゃ――」
「いえ、だから途中まではきちんと案内しますよ? ほら、つい来てください。ここからは地上を行きますから。あまり人に見つかりたくないですね。特に守衛には」
「――ああ」
 松樹も心を入れ替える。いよいよだと思った。そもそも、一介の農民である松樹がここまで神殿の中に入りこめたことすら奇跡に等しい。見つかれば、神殿を――聖域を怪我したとして、処罰は免れないだろう。
 神殿の中は、薄暗く、そして白かった。真っ白な石造りの壁は、冷たい印象を与える。
 ひたひたと歩き続ける最中、時折神官や守衛とすれ違うことがあった。彼らは皆、不審そうに体の大きい松樹を見るものの、蓮介を見ると、必ず頭を下げてそのまま去って行った。
「このまま……何とかいけそうですね」
 嬉しそうに蓮介は囁いた。
「佐代の部屋はもうすぐですよ。部屋にいるとは限りませんが、その近くまでなら案内――」
 言いかけたところで、蓮介は固まった。前方から、また新たな神官が歩いてきた。
「これは……蓮介様! 一体今までどちらにおられたのですか!」
「ああ……いえ、まあ」
 今まで涼しい顔でやり過ごしていた蓮介が、一気に口ごもる。長くなりそうだ、と感じた松樹は、咄嗟に顔を俯かせる。
「お父上も心配成されてたんですよ! ……神官長のことで話があるのに、全く姿を見せないって!」
 小声でぶつぶついう神官に、蓮介はただ項垂れた。と、神官の視線が、ふと蓮介の後ろを向く。ここ神殿では見慣れない、逞しい体つきの男。視線を下に向けており、その顔は分からない。
「蓮介様……」
 疑い深い口調で神官は問う。
「そこの、後ろの者は……?」
「知りません」
 即答だった。
「はあっ!?」
 突然の裏切りに、思わず松樹は目を剥いた。しかし蓮介は彼に目を向けることなく、さっと背を向けた。
「それより、巫女様はどこにおられるんですか? 先日戻られたとか……」
「ああ、そのことですか。おそらく今は祭壇の間にて祈祷を行う準備をしているのではないかと――」
 蓮介と神官の後ろ姿が遠ざかっていく。後に残るは、茫然と残された松樹一人のみ。
「お前……誰だ!」
 すぐに守衛に声をかけられるのは半ば必然だった。蓮介という壁が無ければ、松樹の存在など、目立ちまくりだった。神官と同じような服を着ていても、その当人が神官らしくない男、松樹。
「くそっ……!」
 すぐに踵を返して駆けだした。足音が良く響くのが恨めしい。
 加えて、すれ違うものたちにはこれでもかというくらい悲鳴を上げられていた。
「なっ、何者だ貴様!」
「きゃー! 侵入者よ!」
 松樹の粗野な姿に、ぬくぬくと温室で育てられた神官や女官たちは、次々に悲鳴を上げていく。
 足腰には自信はあるが、何しろここは敵陣と言っても過言ではない。一人、また一人と松樹を追うものは増えていった。
「あっ……悪い!」
 角を曲がったところで何者かとぶつかった。もしや守衛か、と松樹は身構えたが、なんてことはない、ただの女官だった。松樹は安堵したが、すぐにハッとして駆けだそうとした。女官だとしても、また騒がしい声を上げられても困る。
「松樹、さんですか?」
 が、その前に女官は松樹の腕を掴んだ。意外にも強い力だった。
「あなたは……」
 息を整えながら、目の前の女性を見る。
「私、巫女様の側仕えをしております、藤香と申します」
 藤香は深く頭を下げた。その品の良さが、どこか佐代を彷彿とさせた。