27:前日
稀に見る晴天だった。ここ数日、雨の練習としてたびたび雨を降らせていたが、今日くらいは久しぶりの晴れを楽しんでもいいかもしれない、と畑へ向かう佐代の足取りは軽かった。
畑に近づくにつれ、松樹と蓮介の口論している姿が目に入った。もっと間隔を開けろとか、もっと深く穴を掘れとか松樹がぶつぶつ小言を言うのに対して、蓮介の方は、このくらいの方がたくさん植えられるじゃないですかとか、穴を掘りすぎたら芽が出ないかもとか、素人発言をかましている。松樹もそれにイライラしているのか、次第に眉根に皺が寄ってきており、さらにそれを目にした蓮介の方は、小馬鹿にするように口角を上げた。
ついに我慢しきれなくなった松樹が、蓮介に雷を落とそうとした時、佐代は控えめに声をかけた。
「あの……お疲れ様です」
「…………」
「…………」
無言の視線二つに見つめられる。佐代は曖昧に笑みを浮かべた。
「あ……っと、お弁当持ってきたので、休憩にしませんか?」
「……そうするか」
「ですね」
力なくため息をつくと、一旦休戦することにしたのか、二人は木陰に移動し始めた。佐代はホッと息をつく。
仲が良いのは結構なことだが、時にそれを通り越して口論にまで達することがある。本人たちはそれでなかなか楽しんでいるようだが、側で見ているものとしては堪ったものではない。
「今日も暑いなー。汗がだくだくだ」
「もう少しの辛抱だ。今日中には終わるはずだしな」
「今日中……」
その響きが、何となく悲しく聞こえるのは気のせいだろうか。
いや、聞く側によるのかもしれない。
「これ美味しいな」
「蒸し饅頭? 志紀さんに教えてもらったの」
「へー。料理なんてとんと出来なさそうだったのになー。やっぱり教え方が上手だと上手くなるもんだな」
「……褒め言葉として受け取っておく」
褒めているのか貶しているのかいまいちよく分からない蓮介の言葉だが、佐代は前者として受け止めることにした。というより、感想を貰えるだけマシだ。
佐代はちらり、と上目づかいに松樹を見る。結局、一度も彼に料理を褒めてもらえることは無かった。正確に言えば、まだ今日の夕餉もあるのだが、この調子では期待する方が無理というものだろう。
「今日は雨降らさないのか? 俺としてはこんな日には水浴びしたいけど」
「ああ……雨?」
困ったように微笑んで、佐代は空を見上げた。確かに、体力仕事を主とする彼らにしてみれば、太陽がサンサンと照り付ける今日の様な日よりも、多少なりとも曇りだったり、小雨程度の雨が降る方が気持ちが良いのかもしれない。だが。
「必要……無いかなと思って。一昨日、昨日と雨の練習もしたから、今日くらいは晴れでいいと思う。二人には申し訳ないけど」
そう宣言する佐代の顔は晴れ晴れとしている。蓮介の方も、一旦開いた口を閉じる。松樹はそんなやり取りに笑みを浮かべた。
「そんなに水浴びしたいなら、川へ行ってくればいいだろ」
「……それが面倒くさいから佐代に雨をお願いしようかと」
「一旦楽すると抜け出せなくなるぞ。午後はもっと暑くなるだろうな。川へ行って来い」
「……はいはい」
「あ、待って。私も行こうかな」
億劫そうに腰を上げた蓮介に合わせて、佐代も立ち上がった。
「佐代も水浴びか?」
「ううん。いろいろ洗い物があるから」
手早く辺りのものを片付けると、佐代はにっこり笑った。
「じゃあ松樹さん、私これで行きますね。お昼も頑張ってくださいね」
「あ……ああ」
松樹は何か言いたげに口を開け閉めしていたが、やがて諦めたのか、大人しく頷いた。佐代は少々不思議に思ったが、昼からは志紀の下にもいかなければならなかったので、足早に木陰を後にした。
河原へ近づくにつれ、蓮介の様子は次第におかしくなっていった。きょろきょろと節操なく辺りを見回し、かと思えば急にため息をついたりする。
「どうかしたの?」
「ああ、いや。……ほら、この間の悪ガキどもさ、またいるんじゃないかって気が気じゃないんだよ」
「ああ、あの子たちね」
佐代は噴き出した。
「仲良さそうだったじゃない」
「どこが! あの野生児たち、容赦なく人を川に落とすんだぜ? こちとら神殿育ちで泳ぎなんて知らないって言うのに……」
「そういえば私もあの子たちに川に突き落とされたな」
「……女にも容赦なしか」
「そういうお年頃なんだろうね」
少年たちがいないと分かったので、蓮介は思う存分川で水浴びした。佐代の方も、手早く洗い物を済ませていく。
「明日、だな」
ふと蓮介が言う。
「……そうだね」
佐代は静かに笑みを浮かべた。
明日、都行きの馬車がやって来る。
長いようで、短いひと月だった。
「……もし、あれだったら」
水浴びを終え、蓮介は真剣な表情で佐代を見上げた。
「俺一人で帰ってもいい。神殿には内緒にしておくから、その間、もう少しここにいても――」
「ううん、大丈夫。明日、神殿に帰る」
きっぱりと佐代は首を振る。決心はついていた。
「雨も、降らせることができたし。私の……ここにいる意味は、もう無いかな」
コン、と小石を蹴る。それは、小さく円を描いて、静かに川に落ちた。
「それに……私がここにいたら、きっと村の人たちに軋轢を生じさせることになる。私の居場所は……ここじゃないもの」
逸らした佐代の横顔は、寂しげだった。
蓮介は咄嗟に口を開いたが、かけるべき言葉が見つからなかった。代わりに頭をグシャグシャかき回す。
「――ま、俺はせいせいするけどな。ようやくあの小うるさい松樹さんから離れられるんだと思うと」
「でもその割には楽しそうだよね、二人とも。私といる時よりも楽しそう」
「そんな訳ないだろうが」
そう言う蓮介の顔は呆れ返っている。一体お前の瞳にはどう映ってるんだ、と言いたげである。
傍から見ればそう見えるのーとのんびり返すと、佐代は家の方へ歩き出した。午後からは、志紀にも挨拶をしなければならない。渡したいものもあった。
喜んでくれるといいな、と思う一方で、明日のことを思うと、自然と足取りが重くなる佐代だった。
*****
志紀との最後の授業はつつがなく終わった。佐代としては、最後くらい何か恩返しをしたかったのだが、最後だからこそ徹底的に授業をすると宣言され、いつものようにしごかれてしまった。彼女らしい、と佐代は思わず笑みを浮かべた。
「あの……」
でもそれも今日で最後だ。佐代はおずおずと風呂敷を差し出した。
「これ、家で作って来たんです。良かったら雄造さんと食べてください」
「ま……」
ポカンと口を開けながら志紀は風呂敷を受け取った。物珍しげに上へ下へと観察する。
「あら……あらあら、いいの? 頂いちゃって。嬉しいわ。佐代の手作りだなんて」
「いえ……そんなに大したものではないんですけど」
「ううん! 今日の夕餉に食べるわ。雄造もきっと感激することだろうよ!」
佐代は苦笑する。
中身は本当に大したことない、普通のおひたしだ。ただ、故郷の母の味を思い出して作ったもので、少しでも喜んでもらえたら、と思った。
「明日……」
「え?」
志紀が何か言いかけた。佐代は聞き返したが、彼女はすぐに首を振った。
「ううん、何でもない。ね、まだ時間ある?」
言いながら、もう志紀はゆったりと席に座りなおした。
「佐代が出て行っちゃうなんてさ、ちょっと悲しくって。何だかさ……娘がお嫁に行っちゃうような気がして」
「大袈裟ですよ」
倣って佐代ももう一度席に着いた。
「でも時間はあります。今日はあと夕餉を作るだけですから」
「じゃあちょっとお茶してかない? また街の方から果物貰っちゃってさ」
「では……お言葉に甘えて……」
「そうこなくっちゃ!」
パンッと手を打って、志紀は嬉しそうに家を出て行った。何事か、と佐代が後を追う間もなく、彼女はすぐに返ってきた。
「これこれ。井戸水で冷やしてたんだー。皮剥くからそこで待ってて」
「私がやりますよ」
「いいのいいの。ちょっと待っててね」
手早く皮をむくと、皿に盛って佐代の前に出した。何ともみずみずしい梨だった。
「美味しそうですね。頂きます」
「どうぞー」
程よい大きさに切られた梨を、しゃりしゃりと小気味の良い音をさせながら咀嚼する。
「なーんか最近、雨が定期的に降るようになってきたねえ」
不意に志紀が話し始めた。目は外を向いている。梨を冷やすため、井戸水を汲んだとき、やけに水の量が多かったことから、ふと考えが及んだのである。
「嬉しいことだけどさ、やっぱり心配だよ。またいつ雨が暴走するのかって」
「そう……ですね」
曖昧に笑いながらも、それでも佐代の面持ちは暗くなる。彼女たちの心配はもっともだ。最近になってようやく雨の制御ができるようになっていったが、神殿でもきちんと制御できるか不安で仕方がなかった。
「あ……。そういえば、あの子はどうなったの?」
志紀も佐代の表情が沈んだことに気が付いたのか、本能で話題を変えた。こういう時に、彼女の話好きは功を奏する。
「あの子? ……ああ、もしかして蓮介、ですか?」
「そうそう。元気でやってる? この前こっちに顔出してきた時さ、運悪く雄造達に掴まっちゃったらしくて、きっと屈強な男どもに囲まれて怖かっただろうなって思うと」
「ああ……」
佐代は笑い出した。白くて細い蓮介が、逞しい体つきの強面の村の男性たちに囲まれているさま。まるでウサギとオオカミのようだ。
「多分大丈夫だと思います。蓮介は人懐っこいですから。むしろ、村の子供たちの方にしてやられています。川に落とされたり小突かれたり……」
「ああ、あの子たちねえー。あたしたちも、手焼いてんだ」
途端に志紀の目が遠くなる。
「全く、将来が楽しみだねえ……」
「松樹さんと全く同じこと言ってますよ」
「松樹か……。あの子も大分年寄りみたいな物の考え方するからね」
ついに佐代は噴き出した。
「ど、どうしたの?」
「いえ……ごめんなさいっ、ちょっと……」
一旦笑い出したら収まらない。自分でも、何がこんなにツボにはまったのかは分からないが、とにかくおかしかった。