26:自覚
誰かが話す声が聞こえた。うっすらと意識が浮上する。身は起こさずに、顔だけを彼らの方へ向ける。松樹と蓮介は、こちらに背を向けていた。
「おいっ……焦がしてるぞ。ちゃんとかき混ぜろ」
「混ぜてますって……」
「混ぜてないだろ! 底から混ぜるんだ。鍋に焦げがついたら落ちにくいんだからな! 後でお前に洗ってもらうからな!」
「うるさいなあ……。前から思ってましたけど、松樹さんって何かと小うるさいですよね」
「何だと!?」
ボーっと彼らに目をやりながらも、その会話は耳に入って来なかった。ただ、外の気配に神経を集中させる。――雨は、もう降ってなかった。
「あ……起きたのか?」
「はい……。昨日はすみませんでした」
すっかり夜が明け、朝日も昇り、時はもう真昼間と言っても過言ではなかった。
微かに体がだるいような気がするが、それ以外に異常は感じない。
「雨……止んだんですね」
「ああ。昨日、お前が気を失ってからしばらくして止んだよ」
「そう……ですか」
「佐代――」
「外に食べに出るか」
何か言いかけた蓮介を、松樹が割って入って止めた。
「俺たちで弁当作ったんだ。な、蓮介」
「まあ……」
物珍しそうな佐代に見つめられ、蓮介は顔を赤くして視線を逸らす。
「お弁当?」
「ああ。といっても、お前の分は鍋にお粥だけどな」
「嫌味ですか」
「蓮介が提案したんだ。文句ならあいつに」
「…………」
ジトッとした佐代の目が蓮介へと向けられる。が、神殿育ちの彼にこの一連の意味は通じなかった。曖昧に笑みを浮かべられ、終わる。佐代はため息をついた。
「分かりました。行きましょう」
「今日は良い天気だ。外は暑いだろうな」
「川の方へ行きましょうか? 少しくらいなら涼めそうです」
「そうだな」
三人は、手にお弁当と鍋を持って意気揚々と川へ向かった。畑の方はどうなっているのだろう、と佐代は思わないでもなかったが、それを聞くのは野暮な気がして、ただ目の前の道を歩いた。
川につくと、三人はまっしぐらに木陰に向かった。ただでさえ暑いのに、容赦なく照り付ける太陽の下ご飯を食べたくない。それに、一名熱々の粥を食べなくてはならない者がいる。
木陰――と言っても、太陽が丁度真上に位置しているので、影は少なかった。しかし一応皆に気を使われているらしい佐代は、その少ない影の部分に押し込まれた。
「いただきます」
「……どうぞ」
お椀によそってもらった粥を、佐代は一口口に含む。緊張したような顔で松樹と蓮介二人にじっと見られているので、味はよく分からなかった。だが、山菜が風味づけにちりばめられていて、香りは良かった。
「どうだ?」
「おいしいです」
「良かったな」
やけに嬉しそうに松樹は蓮介を仰いだ。一方の蓮介は、なぜか不機嫌そうだ。
「……混ぜるだけの料理でしょう。火加減は全て松樹さんがやりましたし」
「初めてにしては上出来だと思うぞ」
「……お世辞だと思いますけど、まあ……有り難く受け取っておきます」
「…………」
佐代は、黙って松樹と蓮介のやり取り眺める。蚊帳の外だ、とか、そういうこと以上に、彼女には気に食わないことがあった。
「蓮介の料理は褒めるんですね。私の料理は一度も褒めてくれなかったのに」
「…………」
二人が黙り込む。松樹は視線を外して、蓮介は何が何だか分からない、といった表情で。
余計な一言だったのだろうか、その後の食事はまたしても無言の嵐だった。しかし佐代としては先ほどの言葉を撤回するつもりはない。彼女の言葉は、残念ながら真実なのだから。
「おっ、松樹じゃん。佐代もいる」
食後の茶を飲んでいたところで、どこからか聞き覚えのある声がした。
「げっ」
途端に松樹は顔を顰める。村のやんちゃ坊主たちの登場だった。彼らはもう既に上半身裸で、水遊びする気満々だった。
「松樹、そいつ誰?」
「そっ、そいつ!?」
粗野な言葉遣いに反応するのは蓮介だ。
「ねー、俺たち暇なんだ。遊ぼうよ」
「……嫌だ」
少年たちは松樹に次々にのしかかっていくが、松樹は相手にもしない。強引に彼らの両手を解くと、蓮介に向かって顎で示した。
「おい蓮介、お前が行け」
「はあっ!?」
慌てて蓮介は否の声を上げる。
「絶対嫌です。俺、子供とか苦手で……」
「今のうちに慣れておけばいいじゃないか。行け」
「おい蓮介、行くぞ」
少年たちは意地悪そうに笑う。
「正直松樹と遊ぶのに飽きてきた頃だ。お前で遊んでやるよ」
「なっ――!?」
彼らに引きずられながら、蓮介はぱくぱくと口を開ける。
「なっ……何だ君たちは! とっ、年上への敬意が――」
「ねー、何して遊ぶ? 下流に向かって泳ぐ? それとも追いかけっこ?」
「そもそも蓮介、泳げんの? 見るからに泳げなさそうだけど」
「くっ……」
悔しそうに唇を噛む蓮介の後ろでは、これまた意地悪そうな顔をした少年が一人。前にも見た光景だ。蓮介はその少年を背中を強く押され、抵抗する間もなく川に落ちた。溺れるのでは、と一瞬佐代は腰を浮かせかけたが、すぐに浮上してきたので、ホッと息をついた。眉を下げて隣を見上げる。
「……本当、嵐みたいな子たちですね」
「ああ、全く。将来が楽しみだな」
良い玩具――いや、身代わりができてよかったと松樹は心から蓮介に感謝した。
全身ずぶ濡れになってしまった蓮介は、それからはもう体裁などどうでもよくなったのか、年下の少年たちに紛れ、年相応にはしゃぎながら水遊びを満喫していた。と、傍から見ている分にはそう見えるのだが、内実は、蓮介が主に水かけの標的になっているだけだった。蓮介が一人の少年に反撃する間に、後ろから倍以上の数の少年が彼に水を浴びせる。数の暴力とは、まさにこのこと。
佐代は黙りこくったまま、時折上がる水しぶきを見ていた。
山から流れてくる川の水――。
あれは透明だ。向こう側の空の色が透き通るほどの。
では昨日の雨はどうだろう?
思い至って佐代は固まる。
昨日の――いや、もっと前の光景までもが脳裏に浮かび上がった。
――あれは、血の色だ。血の、雨。
「私……怖いんです」
ずっと、胸の内に秘めていたことだった。佐代は自分の口を止めることができなかった。
「雨が……止められなかったらと思うと、凄く怖い。今この国に、雨が必要なことは分かっているんです。私はそのための存在でもある。でも怖い。また……あの時みたいに」
少年たちは走り回るのを止め、一人、一人と不思議そうに空を見上げ始めた。佐代も釣られて、思わず空を仰ぎ見る。そして震えだした。
冷たい液体が、佐代の頬を不快に垂れ流れる。
「また……」
先ほどまでの晴天はすっかり鳴りを潜め、天からは雨が降り注いでいた。まるで、動揺する佐代の心と呼応しているかのように。
「落ち着け」
「で……でも」
「昨日もすぐ止んだんだ。どうせ今日もすぐ止む」
素っ気なくも聞こえる松樹の言葉。
佐代は唇をかむと、目を閉じた。松樹の言葉を心のうちに繰り返しながら。佐代の心は、次第に静まって行く。それとともに、暗雲が立ち込めていた空に僅かに光が差してきた。やがて完全に空が晴れ渡ると、再び太陽が顔を出した。
*****
松樹と佐代が寄り添うようにしている。
少年たちはそれを目敏く見つけると、からかってやろうと、こそりこそりと彼らに忍び寄ろうとした。
「おい……お前ら」
そのことに気付いた蓮介は、咄嗟に足を踏み出した。が、彼がいるのは大小様々な石がゴロゴロ転がっている川の中。蓮介は足を踏み外して盛大に転んだ。
「蓮介! ったく何やってるんだよ!」
「だっせーのー!」
途端に、子供たちによる弾けるような笑いが起こった。蓮介はというと、目にも鼻にも耳にも水が入って散々な様子である。だが、決して本意ではないが、やんちゃな子供たちからあの二人への注意を逸らすことには成功したらしい。
蓮介はため息をつきながらも、そろりそろりと下流へ少年たちを導いた。全く、世話が焼ける二人だと思いながら。
そんな蓮介の苦労などいざ知らず、佐代と松樹は相変わらずぼんやりとしたままだった。ボーっと空を見上げ、そして同時に雨が止んだことに気付く。
「止んだな」
「止み、ましたね」
「俺の言ったとおりだったろ?」
「はい……まあ」
歯切れが悪く、佐代は俯く。彼の前で取り乱した自分が少し恥ずかしかった。
「……不公平な気がします」
「何だ、急に」
「松樹さんだけいつもシラッとした顔をしていて。何だか悔しい」
「それは仕方がないだろうな。経験の差ってやつだ」
「松樹さんは……大人ですね」
思わず呟く。佐代の言葉には、様々な意味が込められていた。その微妙な機微に、松樹も気づいたのか、声を落とす。
「そんなんじゃないさ。大人じゃないから、俺はまだここにいる」
「……?」
意味がよく分からず、佐代は首をかしげたが、直接松樹に問うようなことはしなかった。
「洪水が起こった後、志紀さんや雄造さんには、自分たちの家に一緒に住むように言われたよ。使ってない部屋が余ってるから、そこを使ってくれって。でも俺はそれを辞退した。勝手に意固地になって、前と同じところに小屋を建てて、そこに住んだ」
「…………」
「死んでもいいって、思ってたんだろうな」
予想通りの言葉に、佐代は視線を落とした。
「本当なら、竹史と一緒に俺も死ぬはずだったんじゃないかって。なら……まあ、時期が少しずれただけで、また洪水が来たら俺も死ねるのかもしれないなって思ってた」
松樹は今度は苦笑した。清々しい笑みだった。
「でも……今度は雨すら降らなくなるんだからなあ……。本当、あの時は参ったよ」
「す……すみません」
思わず佐代は謝った。何に謝っているのか、さっぱりだったが。
「謝るなよ」
困った様に松樹は笑った。
「竹史も、よく謝ってばかりだったな。昔から病気がちだったからさ、きっと自分が俺の負担になってるとか、そんなくだらないことを考えてたんだろうけど」
粥を作ってくれたり、蓮介に畑仕事を指南したり。ぶっきらぼうながら、じゃれつく生意気な少年たちを強く突き離せない松樹は、きっと弟とも仲の良い兄弟をしていたのだろう。佐代は薄らとそんなことを考えていた。
「俺、お前には感謝してるんだ」
「え?」
「俺……本当意固地になってたな。洪水が起こるまでは生き延びようって、仕方がないから、ただ住むだけだった小屋にいろいろ道具もそろえて、畑も開拓して、自給自足できるようにした。それでも、まだ雨が降らないしなあー……」
佐代は少し目を見開いた。雨が降らないことに、まさか感謝されるとは思っていなかった。
「不思議だよな。いつの間にか、死を考えることの方が少なくなっていった。明日の昼はどうしようかとか、種まかないとなとか、そんなどうでもいいことまで考えるようになってた。おまけに世事にうとい巫女までもが転がり込んでくるし」
「そ……れは」
佐代は思わず閉口する。確かに、今思い返してみても彼には迷惑しかかけていない。
「でも……俺は知らず知らずのうちに、そんなお前に弟の姿を重ねてた。お前が男の服を着ていたり、拗ねた様な顔したり、花流しの時も……」
松樹の言葉が尻すぼみに消えていく。
「でも、違うんだな。お前と竹史はやっぱり違うよ。竹史は、もう――」
声が途切れた。佐代が彼の方を伺うと、松樹はじっと佐代を見つめていた。
「お前のおかげで、俺は自分の中で整理を付けることができた」
松樹は困ったような笑みを浮かべていた。
「お前がいてくれて良かった」
「…………」
佐代は目頭が熱くなって俯いた。
彼の言葉が、泣きそうになるくらい嬉しくて。
謝られるよりも、慰められるよりも嬉しくて。
佐代は松樹の顔を真っ直ぐ見ることができなかった。