25:似た者
眠れなかった。
あれから、松樹と蓮介とさえも一言も交わしていない。無言の食事を終え、みな床に就いた。
松樹を問い詰めることはできなかった。それをすれば、今のままではいられないような気がして、あと一歩踏み出せなかった。
じっと息を潜めてみると、微かに寝息のようなものが聞こえる。
佐代はため息をついて、寝床をそっと抜け出した。
やることがないのなら、私にはやるべきことがある。
こんな気持ちで祈祷をしても、雨なんて降る訳ないとは思う。が、何かせずにはいられなかった。
外は少々肌寒かった。秋が近づいているのかもしれない。
手慣れた手つきで佐代は樽を転がし、丁度月明かりの元へと並べる。
「あ……」
その時になって、巫女の装束を着ていないことに気付いた。
思わず佐代はがっくり肩を落とした。巫女の装束すら着ていない今の状態では、ただのおままごとにしかならない。いや、道具が樽しかないこの状況では、それすら及ばないかもしれない。
このまま。
このまま、雨がずっと降らなかったら。
佐代が雨を降らすことができなくても、最低限の雨は降る。だがそれはあくまでも最低限のそれであって、国民の半数以上が農作業を生活の糧としているこの国では、最低限の雨ではきつい。
もっと、もっと土地を肥やすためにも、雨が必要なのに。
佐代は次第に自分が情けなくなっていた。
地面に座り込んで月を見上げる。
いつだったか、松樹と見上げたあの星空のような空が、そこにはあった。しかし月が存在を主張しているせいで、星の明かりが余計儚く見える。
「佐代」
突然後ろから声をかけられ、佐代は飛び上がった。と同時に、僅かに安堵する。巫女の装束を着ていないので、不審がられる要因は何もなかった。そんな所に樽を出して何している、と問われてしまえば、弁解に困るだろうが。
「ど、どうしたんですか、こんな夜中に」
自分のことはさて置き、先に松樹に問いかけた。
「いや、お前が起き出すのに気付いたから」
「あ……すみません。起こしてしまいましたか」
できるだけ静かに置き出したつもりだったが、佐代は恐縮した。ただでさえ連日の畑仕事で疲れているのに、その睡眠を邪魔してしまうとは。
「気にしてない。もう慣れたしな」
「え……って、え!?」
松樹の意味ありげな言葉に、佐代は混乱する。
「あの……もしかして、いつも起きて……?」
「起こされたんだ。あんな狭い小屋だ。誰かがごそごそしていれば、嫌でも気づくだろう」
「ううっ……」
佐代は肩を落とす。最低だ。今日だけでなく、疲れている人を毎日起こし続けていたとは。それも、佐代自身は全くそのことに気付いていなかったとは。
佐代は唐突に覚悟した。
いつもこちらを見透かされているような彼の視線――彼の態度に、佐代は疲れてしまった。ここで、もしそうでなくても、何もかも暴露してしまおうと思った。
どうせ、いつまでもこのままではいられない。なら、今彼と向き直っている今ならば。
「きょ、今日のお昼……」
喉がカラカラに乾いていた。
「聞いて、ましたか」
「ああ」
即答だった。どこから、と聞きたいが、もう手遅れのような気もしていた。が、その一方で納得がいかないような気もする。佐代の正体を知ってもなお、彼女をここに住まわせ続けるその真意が――。
「わ……たしが、その。私の正体――」
「――巫女だろ?」
うっと詰まる。言い訳をしたい。こんなつもりではなかったと。一番厄介になってはいけない人の所に佐代は世話になってしまった。松樹としては屈辱的なはずだ。どんな罵詈雑言も受け入れる心意気だった。
「でも」
佐代の顔は蒼白だったが、そんな彼女を見下ろして彼は続ける。
「俺はもうずっと前から、お前が巫女だってこと、うすうす気づいてたよ」
「え……?」
思わず松樹を見上げる。
「な、何で」
「川から流れてきた時、お前、妙な羽織を羽織ってたんだよ」
「は、おり……」
「その羽織に、神殿の象徴があった。見紛うことなんてない。すぐに神殿のものだって分かった」
「…………」
「それに、毎夜お前が何かに祈ってる様な姿も見てた。どこか神聖にも見えたから、薄々噂の巫女なんじゃないかって当たりを付けてた」
「…………」
「羽織は箪笥の奥深くに仕舞ってる。必要だったら取り出してくれ」
お手上げだった。
全てを知った上で、松樹さんは私を匿っていてくれたというのだろうか。
気を使わせたのは、私の方だった。
混乱する頭で、それでも何か言わなければという気持ちに圧迫される。
「……私が憎くないんですか」
私は憎いです。
佐代は拳を握る。
言ってもどうにもならないことだというのは分かっている。松樹からして見れば、巫女――すべての元凶である佐代は憎いに決まっているのだから。
「私、が……雨を降らせたんです。そのせいで洪水が起こったんです」
矢継ぎ早に佐代は続ける。
「私が憎くないんですか。憎いですよね。当たり前です」
「一体お前は俺にどうしてほしいんだ」
ついに松樹が口を挟むが、その顔には困惑が浮かぶばかりだ。
「どうして……松樹さんはそんなに冷静なんですか」
悔しかった。楽になってほしかった。
「私が、元凶の私がいるのに、どうしてそんな……」
「弟が死んだのはお前のせいじゃない」
ハッとして佐代は息を呑む。思わず顔を俯かせた。
「聞いたんだろ。弟のこと」
佐代は力なく頷いた。勇気を振り絞ってそっと彼の顔を見上げるが、松樹の目に、憎しみはなかった。
胸が痛い。
私に……すべての憎しみを向ければ、少しは楽になれるかもしれないのに。
佐代は今更ながら、蓮介の気持ちが分かった。
目の前で、自分を責め続けている人を見るのは、辛くて苦しい。それが、自分のせいだったのならなおさら。
「お前を見ていると、まるで鏡を見ているような気にさせられた」
「――っ」
咄嗟に佐代は顔を上げた。松樹と目が合う。
彼の瞳は優しかった。思わず心が締め付けられる。
「自分を責め続けて、出口のない闇の中を彷徨ってる。誰かに縋り付きたいのに、誰もいない。分かってくれる人は誰もいない。分かってほしいとも思っていない。ただ、自分が悪いということだけは分かってる」
松樹の言葉が呪文のように佐代に突き刺さる。でも、最後にはストンと佐代の中に落ち着いた。
「疲れるよな。憎むのも、憎まれるのも。自分しかいないから、どうすることもできない。出口が分からなくなる。憎しみが消えることも無く、許されることも無く、謝ることもできず、怒りをぶつけられることもなく……」
佐代は、言葉もなくその場に立ち尽くしていた。
どうして、彼はこんなにも私の心情を言い当てるのだろうか。
分かってほしいなんて思っていなかった。分かってくれるとも思っていない。
でも……ただ。
独りぼっちだと思っていたこの場所に、彼がいた。
「きっと、俺は出口に辿り着くことはできないだろうな。一生、このままだと思う」
佐代は僅かに頷いた。
構わない。
私と同じ人――彼の言葉は、そのまま私にも当てはまる。
でも構わない。
「俺はお前を憎いとは思わないよ。それ以上に、俺には後悔しかないから」
声もなく佐代は頷いた。
彼の気持ちが分かる。私の気持ちを分かってくれる。
蓮介の気持ちが痛いほど分かった。
自分を責め続けることに、出口はない。だからこそ、せめて目の前の人に出口を与えたかった。憎む対象となりたかった。
でも目の前のこのは、それを望んでいなかった。私と同じように。
自分の中で渦を巻いていた事柄が、次々と整理されていくのを感じる。
私は私が憎かった。でも自分自身を責め続けるのは、酷く辛いことだった。
私のせいで、辛い思いをしている人がいた。でも彼は、私を憎む対象とはしてくれなかった。彼は、私と同じ人だった。
夜風が、頬を撫でていく。暗い、寒い、冷たい。
それはいつしか、水に変わっていた。一滴、一滴、緩やかな感覚で頬を撫で紀行く。
始めは、涙かと思っていた。もう、枯れていたと思っていた涙。
「あ、め……」
でも違った。
「雨……雨が、降った」
淡々と、空から水が降り注ぐ。地に滴り落ちるように、雨はぴちょんぴちょんと落ちていた。地を潤わすように、雨は佐代の足元まで流れてきた。
「雨……」
茫然としたように呟き、佐代は一歩後ずさる。
「違う、これは……」
「佐代!」
世界を切り裂くように、蓮介が飛び出してきた。その顔は喜びに溢れている。
「佐代、やったな、雨が降ったぞ!」
「お前……」
松樹は思わず呆れたような声を上げる。
「もしかして覗き見してたのか?」
「狭い部屋だから、嫌でも気づくんです! さっきあなたも言ってたでしょうが!」
「それとこれとは話が別だろ……」
「止めて……やだ」
騒がしい二人の声も届かず、佐代はその場に蹲った。頬に、手に足に滴り落ちる液体が、ひどく気持ち悪かった。
「違う……これは、雨じゃ……私の雨じゃ」
「何言ってるんだ。俺には分かる。腐っても神官見習いだ。これは紛れもなくお前が降らせた雨だよ!」
「違う……」
狂ったように佐代は頭を振った。
「やだ、止まって……!」
「ど……どうしたんだよ、一体」
「私じゃない……私じゃ、ないから」
今にも泣きそうな佐代。
どうすればいいのか分からず、松樹と蓮介は、ただただそこに立ち尽くしていた。