24:懺悔


 その時目を覚ましたのは、全くの偶然だった。昨日は昼になるまでぐっすり寝ていたのに、今日ばかりはそんなこともなかった。 
 まだ早朝と言っても良い時間、蓮介は深い眠りについていたのだが、不意に寝返りを打った、その瞬間。彼の身体に激痛が走った。何が何だか分からない。が、とにかく彼は目を覚ました。

「……?」
 朝餉を食べている佐代と松樹が目に入る。唐突に目が覚めたので、いまいち現状が分からなかった。

「あ、起きたの? おはよう」
「相変わらず寝坊助だな」
「はあ……」
「じゃあ俺はもう行くぞ」
「あ、はい。頑張ってくださいね。今日のお弁当は、志紀さんがおすそ分けしてくれたおひたしがあるんです」
「そうか。楽しみだな」
「またお昼に伺いますね」

 目の前で交わされる和やかな会話。

 そうか……また畑に行くのか。
 ようやく思考が覚醒してきたので、蓮介はゆっくり起き上った。
 自分は仮にも宿を借りている身。何もせずに松樹の厚意に甘えている訳にはいかないと、今日も畑仕事を手伝うつもりだった、が。

「――っ」
 蓮介は声もなくその場に蹲った。その動作のせいで、また腕と太ももが痛む。何が起こったのかさっぱり分からなかった。

「かっ……体中が、痛いです」
 驚いて声も出ない様子の佐代と松樹に、取りあえず今の現状を伝えてみる。

「…………」
「こんな症状は初めてですが……。もしかしたら、熱がぶり返したのかもしれません」
「…………」
「あの……すみません。本当は今日も畑仕事を手伝うつもりだったのですが……。この状態だと、お役に立てそうにありません。すみません……」
「…………」

 誰も、何も答えない。
 不審に思って蓮介が二人を見上げると、バッチリ目が合った。

 佐代と松樹。
 二人とも、同じ表情をしていた。何とも言えないような、呆れたような表情。

「……今のお前の症状を当ててやろうか」
 松樹の視線が冷たい。彼の後ろでは、佐代が頭を抱えていた。

「筋肉痛だ。大人しく寝ていろ、馬鹿」
 それだけいうと、松樹はさっさと家を出て行った。蓮介はしばらく唖然としていたが、やがて置いて行かれると慌てて布団から這い出そうとして――またも体中に痛みが走る。

「――っ」
「だから筋肉痛なんだってば。今日は大人しくしていた方がいいよ」
「きん、にくつう?」

 聞いたことはあった。確か、運動をし過ぎると、次の日には激しい痛みを伴うのだとか。
 蓮介は神殿にて大切に育てられた神官見習いだ。箸よりも重い物……というのは大袈裟だが、書物よりも重い物を持ったことがなかった。

「松樹さんが呆れるのも無理はない……。どうして私と同じことばっか……」
 佐代がぶつぶつ言う声が聞こえるが、蓮介は痛みに耐えることに精いっぱいで、それに反応することは無かった。

「私、今からちょっと志紀さんの所に行ってくるけど、くれぐれも大人しくしていてよ」
「……分かってる」

 何とも情けないことだが、今の蓮介には、そう答えることしかできなかった。

*****

 いつの間に寝ていたのだろうか。
 気が付くと、また昨日のように料理をしているらしい佐代の後ろ姿が目に入った。

「佐代」
「ああ、起きたの? そろそろお腹空いたでしょう。今度はちゃんと蓮介の分も作ったから。私はそろそろ松樹さんにお弁当を持って行くけど、大人しくしていてね。まだ痛むでしょう?」

 佐代の口調は、どこか楽しげに見えた。神殿にいた頃は想像もつかなかった姿だ。

 これが……これで、いいのだろうか。目の前の巫女は、良い方へ向かっているのだろうか。

「佐代」
 蓮介の口調が変わる。佐代は身構えた。

「――なに?」
「今……楽しいかの? ここでの生活。だから……ここから離れたくないと?」
「……別に、そういう訳じゃ」
「じゃあどうしてここに残りたいと? どうせ一週間後には馬車が来るんだろ? 今帰ってもその時帰っても一緒じゃないか。むしろ、ここに留まれば留まるほど身の危険が高まるのに、どうしてここに留まろうとするんだ?」

 蓮介の真剣な瞳に、佐代は一瞬答えに窮する。
 分からない、と答えるのはどれほど簡単なことだろうか。
 事実、佐代はよく分からなかった。どうして自分がここに未だ留まり続けているのか。

 でもそれは自分自身からも逃げているだけのような気がして、佐代はしばらく考え込む。

「私にできること……望まれていることは、やっぱり雨を降らすことなんだな、と思って」
「…………」
「でも……神殿にいても、雨を降らすことはできない気がする。神託でもあったでしょう? 世界を見せろって。正直……神託の本当の意味は分からないけど、でも私なりに、神殿の外で実際に生きることが、世界を体感することなのかなって」
「けど……実際、ここにいたって雨なんて降らせられないだろ? 祭壇もないし、供物もない、何より巫女の羽織だって来てないじゃないか」
「神殿の時と比べたら質素なものだけど、一応祈祷は続けてるの。恰好だけが全てじゃない……と思う」

 強く言い返せないのが悔しい。が、本心だった。牛車で外を移動し、従者たちに守られているあの旅で、何かが変わるとは思わなかった。

「祈祷を続けていないとね、時々不安になるの。私はなんのために生きているんだろうって。お父さんやお母さんがいない今、私は私の雨くらいしか必要とされてないのかなって」
 思い詰めていた顔を上げ、佐代はくしゃりと笑う。

「私、全然前に進めてないんだ……」
 きっと、一生このままなのかもしれない。

 そう思うことは多々ある。笑っていても、どこかその表情の裏では冷めた様な自分がいる。まるで、笑うことを責めたてるような冷たい自分が。

「…………」
 自嘲するような笑みの佐代。一番傍にいたはずなのに、蓮介はかけるべき言葉が分からなかった。

 前に進めないのは、お前だけじゃない。
 その言葉を、蓮介は咄嗟に飲み込んだ。今言うべきことは、こんなことではない。蓮介は顔を俯かせる。

「俺……霊媒なんだ」
 ポツリと呟いた言葉は、佐代には聞き慣れない言葉だった。

「霊媒……?」
「神の言葉が下される時、人を通して皆に伝えられるだろう? 俺がその役目だ。俺の口を通して神のお告げが下され、そして審神者たちによって解釈が行われる」

「…………」
 初めて聞くことばかりで、佐代の頭は混乱していた。
 佐代は巫女ではあるが、神殿の内部事情にはとんと詳しくはない。れっきとした血筋からの巫女ではないのだから、それも当然だろうが。

「俺……俺がすべての元凶なんだよ」
「元凶? 何言って――」
「全部事実だよ。全部俺のせいなんだ。俺が言ったんだ。お前が巫女だとか、渇きをもたらせとか、全部俺がこの口で言ったんだ」
「でも……でもそれは別に蓮介の意思で言ったわけじゃない。全部神託じゃない。そんな、急に言われても……そんな、私」
「俺のせいだよ」
「なっ――」
「もう自分を責めなくていい。佐代……ずっと自分を責めてばかりじゃないか。どうして……親が死んでしまったのを、自分のせいだと責めないといけないんだ。そんなの……辛すぎるだろ」
「…………」

 蓮介の言いたいことは分かる。が、佐代はそう簡単には頷けない。

「俺を憎めばいいじゃないか。お前は悪くない。俺が悪いんだ」
 微かな笑みさえ浮かべ、そう言い切る蓮介に、佐代は自分が急激に冷えていくのを感じた。

「私は……そうは思わないよ」
「佐代――」
「少なくとも私は、蓮介のせいだなんて思えない」
「…………」

 たった一言だったが、蓮介は黙り込んだ。彼の覇気が無くなったのを見て、佐代は背を向けた。

「じゃあ、お弁当届けに行くから」
 それだけ言うと、佐代は二人分のお弁当を持って扉を開けた。しかしすぐに固まる。あっと口を開けながら、立ちすくんだ。

「いつから、そこに……」
 松樹は黙って佐代を見下ろしていた。その顔は無表情で、感情が読めない。

 無言の視線が恐ろしい。

「あ、の……」
「……弁当」
「え?」
「遅かったから、自分で来た」
「あ……はい……」

 震える手で目の前にお弁当を持ち上げた。松樹は軽く頷いて受け取った。

「悪いな」
「いえ……」

 佐代は戸惑ったように視線を下げる。松樹は、佐代と蓮介、交互に視線を向けた後、再び佐代に戻した。

「外で食べてくる」
「……え」
「ここじゃあ窮屈だろ。夕方には戻る」
「はい……」

 いつもと様子が違うような、違わないような。
 そんな違和感を佐代は抱えた。

 どこまで話を聞いていたのだろう。そもそも聞いていたのだろうか。

 すぐにでも問い詰めたい気持ちだったが、勇気が出なかった。
 自分が巫女であることを暴露したらどうか、という思いは常に佐代の中にあったものの、いざ松樹に知られてしまったら、と思うと底冷えのする恐怖が佐代を襲った。

 知らず、佐代は自分の身体を抱き締める。

 松樹に嫌われたくないのだと、佐代はその時初めて実感した。