21:行き倒れの少年
少年が千世村に滞在することになったのは、ただの偶然だった。慣れない馬に乗り、時には野宿する日々。疲労が重なり、ついには千世村の近くで倒れてしまったのだ。彼は運よく、農作業帰りの男に拾われた。彼に背負われて、少年は千世村に入って行った。
「おい、大丈夫かい、兄ちゃん。随分顔色が悪いようだが」
「は……はい」
頷くのもやっとの様子だ。頬が真っ赤で、しかし顔以外の手足は真っ白だった。着ているのは簡素な旅の装いだが、良い所の坊ちゃんなのか、所作や言動に品が見られる。拾われたのが俺で良かったなーと男は話しかけた。もし盗賊や人買いなどに拾われてしまったら、もう二度と陽の目を見ることはできなかったかもしれない。
「おい、どうしたんだ? その坊主」
そんな彼に、話しかける者が一人。
「ああ、雄造さん。いや、ちょっと村の近くで倒れていたところを拾ったんだ。随分具合が悪そうだったんで、少し村で休憩させようかと」
「おお、そりゃ大変だな。何なら俺の家で介抱するか? 子供も居ねえし、うるさくなくていいだろ」
「ああ、そうしてくれると助かるな」
熱で浮かされる中、男の広い背中と適度に揺れる衝撃はひどく心地よかった。次第に少年の意識は遠くなっていく。朦朧とする意識の中、人々が会話する声だけが耳に入って来た。
『おっ、良いにおいがするな。今日の昼飯はなんだ?』
『ああ、具合が悪いのを俺が見つけたんです。すみませんね、志紀さん。少しお邪魔させてもらいます』
『おいしそうだなあ。ちょっと俺も食べさせてもらおうかな――』
『悪かったって。つまみ食いくらいでそんなに怒ることはないだろうよ……』
『でもそう言えば佐代ちゃんはどこに? 一緒に昼飯作るはずじゃ?』
『何だ、つまんねえの。……っち、松樹の奴、今頃良い思いしてるに決まってる』
『あーはいはい。すぐに仕事に行きますよって。ちょっとこの坊主を客室に寝かせてからな。はいはい、分かってますって』
『相変わらず尻に轢かれてるな』
『うちのかみさんには一生頭が上がらねえよ』
固い寝台に、ゆっくりと身体が横たえられた。そこまで来て、ようやく少年の意識は浮上する。彼の茶色い目が、二人の男の姿を捉えた。
「あ……」
「おっ、気が付いたか? ここは俺んちだ。良くなるまでしばらく寝とけ」
「はい……。すみ、ません」
「なあに、気にすんなって。困ったときはお互い様ってもんよ。あ、水でも飲むか?」
「……雄造さん、しぱらくそっとしておいてやりましょうや。水は机にでもおいておけばいいし」
「……そうか?」
「あんたは少しうるさい。坊主もゆっくり寝たいだろ」
「……そうか」
雄造はしょんぼりしながら部屋を出て行った。もう一人の男の方も、寝台の傍の机に水差しを置いたのち、そっと部屋を出て行った。少年の方としては、何か感謝の言葉をかけたかったのだが、喉が貼り付いているような気がして、うまく声が出せない。有り難く水を口に入れたのち、力尽きた様に再び寝台に倒れこんだ。そのまま目を閉じ、死んだように眠りについた。
*****
少年が目を覚ました時、何やら良い香りが彼の鼻孔をくすぐった。そっと身を起こすと、彼の目に、大きな背中が映った。ボーっとした意識の中、彼に声をかける。
「あ、の……」
「おっ、坊主、目を覚ましたのか」
そうにっこり笑ったのは、確か雄造と呼ばれていた男だ。少年の意識は一気に覚醒する。慌てて寝台の上に正座すると、そのまま両手をつく。
「この度は、助けていただき、本当にありがとうございました。先ほど助けていただいた男性にも、お礼を伝えておいてもらえますでしょうか?」
「ちょ……何そんなに畏まってんだよ! まだ熱下がってないだろ? 大人しく寝てろよ」
「いえ、そんなわけには――」
「いいから! 病人が口答えすんじゃねえよ!」
村の男たちの言葉遣いは、悪気が無くとも粗野に聞こえる。『良い所の坊ちゃん』の少年は、ビクッと肩を揺らした。それに気づいた雄造は、すぐにばつの悪そうな表情になったが、取り繕う言葉も分からず、ガシガシと頭を掻いたのち、彼に背を向けた。
「あ……のよ、かみさんたちがお前にって食べられそうなのを用意してくれたからさ、これ食ってまた寝ろよ」
「はい……重ね重ね申し訳ありません」
「ったく……」
相変わらずこの小さな少年は、慇懃な態度を解こうとはいないようだ。雄造はムスッとしながらも、少年のために粥をよそった。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
少年は丁寧にお辞儀をし、碗を受け取った。静かに粥をすする音だけが響く。高級そうな衣を身に纏っている少年は、食事の品も良いらしく、かゆを食べる、ただそれだけの光景が絵になっても見えた。
「これ、おいしいですね」
箸を一旦止め、少年はにっこり笑った。思わず雄造も笑みをこぼす。
「はは、そうか? ま、俺が作ったわけじゃないけどな」
「あ……っと、奥様……に作っていただいたんですか?」
「ああ……まあそうだな。多分佐代ちゃんも手伝ったのかな?」
「佐代さん?」
少年が訝しげに聞き返したが、雄造にその小さな声は全く入って来ず、むしろ自分の言葉にハッとした様子で少年と向き直った。
「そう言えば自己紹介がまだだったな。俺は雄造だ」
雄造の言葉に、少年も慌てて礼をする。
「申し遅れました、僕は蓮介と申します」
「蓮介か……。そう言えば、どうして村の近くに? この村に用があったのか?」
「いえ……その」
蓮介は言いづらそうに言葉を濁す。が、やがて決心がついたように雄造の瞳を真っ直ぐに見た。
「人を、探していて」
「人?」
「はい。あの、単刀直入にお伺いしますが、先ほど仰られた、佐代……さんとは?」
「ああ、佐代ちゃんか。彼女はついこの間……何だったかな、川で溺れてた……とか何とかで、助けられたんだよ。都への馬車が出るまで、この村に滞在する予定だとか。知り合いか?」
「僕は彼女の幼馴染です。その……彼女が行方不明だと聞いて、彼女を探していました」
「そうなのか?」
雄造はひどく驚いた。が、すぐに合点がいく。確かに、この少年と佐代は、どこか似たような雰囲気を感じる。所作もそうだし、言葉遣いや、肌がやけに白い所なんかも。
薄々当たりはつけていたものの、やはり佐代ちゃんも良い所の娘だったりするんだろうなあと雄造はのんびり考えていた。
「まあ佐代ちゃんは逃げねえし、今日の所はゆっくり休みな。また明日あの子に会えばいいさ」
気楽な雄造の言葉に、蓮介はすぐに被りを振った。
「いえ……僕は大丈夫です。すぐにでも……佐代を連れ戻さなければ」
「だからってなあ……。夜に出かけたら危ないだろ? こんな時間に押しかけても向こうにも迷惑がかかるだろうし」
「……そういえば、今佐代はどこに?」
「村の外れの川の近くだよ。松樹っていう男と住んでる」
「…………」
いまいち事情が掴めず、蓮介はしばらく固まった。
「……え、二人きり……で住んでいるんですか?」
「ああ、そうだな」
あっけからんと言ってのける雄造を、蓮介は信じられない思いで見つめた。そして次の瞬間。
「――すぐに迎えに行きます」
蓮介は勢いよく立ち上がった。
「はあっ!? 坊主、俺の話聞いてたか?」
「はい。聞いていたから迎えに行くと言ってるんです。未婚の女性が男性と一緒に暮らしているなんて、見聞が悪いに決まっています」
「あ……っと、そういうことか。でも心配しなさんな。俺たちは別にそんな噂流さねえし、間違いが起こるなんてのも思ってねえよ」
「男性と二人きりですよ? 力づくで迫られたらどうするんですか!」
「ん……そっちの方を心配してたのか?」
「当たり前じゃないですか! か弱い女性が、男に迫られて抵抗できるわけがない!」
蓮介は鼻息荒く言い返す。そんな彼の熱が伝わらないのか一人。
「いや……松樹はそんなことをするやつじゃねえし、そもそも佐代ちゃんを助けたの、松樹だし」
「……そうなんですか?」
そう聞き返す蓮介の瞳は、至極意外そうだった。雄造は勢いよく頷く。
「ああ、あいつは相手の嫌がることはしねえよ。俺が保証する」
「あらまあ、松樹がいたら聞かせてあげたい台詞だねえ」
「志紀?」
唐突に笑い声を上げながら入って来たのは志紀だ。蓮介の手にある空の碗と、彼のピシリとした背、そして真剣な面差しに、やがて彼女はため息をついた。
「いいじゃないか。行かせておやり」
「志紀!」
驚いた雄造が抗議の声を上げるが、相変わらず志紀は、旦那のことは構いやしなかった。そうして、蓮介に向かって右手の小指を立てた。
「あんた、佐代のコレだったりするのかい?」
訳の分からない動作に、蓮介はきょとんとした。
「……何でしょうか、それは」
「あれ、わかんない? あのねえ、これは――」
「志紀! いい加減にしろ! 男同士の会話に口を挟むんじゃねえ!」
「雄造! あんたこそこの子たちの複雑そうな事情に顔を突っ込むんじゃないよ!」
「ぐう……」
志紀は、いつも雄造より一歩上手だ。雄造は悔しそうに唇を噛む。
「とにかく行きな。夕日が沈む方向に真っ直ぐ行ったら川に突き当たる。川沿いを下流に行けば松樹の家につくだろうさ」
「あ……ありがとうございます」
「でも、暗くなる前に帰ってくるんだよ。あんた、仮にも病人なんだからね」
「はい」
顔を綻ばせると、蓮介は寝台から立ち上がり、二人に向かって深く礼をした。多少ふらついたものの、その足取りに迷いはない。
蓮介はすぐ家を出ると、自らを奮い立たせながら歩き始めた。
何としてでも、この村から佐代を連れ戻さなければ。
蓮介は、ただそれだけを考えていた。
日が完全に沈む前に川に辿り着いた。そのまま下流に沿って歩く。そう経たないうちに、掘立小屋のような小さい住まいが目に入った。思わず蓮介は顔を顰める。仮にも若い女性が、あんな所に男と一緒に住んで良いはずがない。
「佐代!」
少年は叫ぶ。
「どこにいるんだ、佐代!」
家の中を覗くが、人の気配はない。イライラしながら小屋の裏手に回ると、洗濯物を取り込んでいる佐代の姿が目に入った。
「佐代!」
驚いたように佐代は固まる。蓮介に顔を向け、彼女の瞳は、やがてゆっくり見開かれていった。
「蓮介……」
彼女が持っていた洗濯物が、はらりと地面に落ちる。
神官見習いの蓮介と、巫女の佐代。
二人が顔を合わせたのは、数週間ぶりのことだった。