20:花流し


 あんなに大きかった焚火も、いつしか小さくなっていき、祭りはお開きの雰囲気になっていった。料理もあらかた食べつくされ、辺りには酔いが回った人々があちらこちらに転がっている。

 さすがに片付けくらいは手伝おうと、佐代はすくっと立ち上がった。隣の松樹はと言えば、何だか眠そうにうつらうつらとしている。そのまま彼をそこに残して、佐代は適当に料理の器を両手に持った。どこへ持って行こうか、ときょろきょろしている矢先、彼女を呼び止める声があった。

「ああ、二人とも、こんな所にいたんだ」
「志紀さん?」
「あの、これはどちらに持って行けば……」
「ああ、片づけは後ででいいよ。その前にやることがあるから」
「そうなんですか?」
「ああ。でさ、祭りどうだった? 楽しかった?」

 志紀はやけに嬉しそうだ。連れだって松樹の元へ歩きながら、佐代は大きく頷いた。

「はい。すごく楽しかったです」
 笑顔で言い切る佐代を、松樹は胡散臭そうに見つめた。が、佐代は撤回するつもりはない。傍から見れば、確かに佐代は何にも楽しいことはしていないが、それでも楽しかった。楽しそうな人々を見るのは、すごく好きだった。自分も明るい気分になれる気がして。

「そっか、なら良かった。じゃ、早速移動しよう」
「どこへ行くんですか? 今から何が?」
「はながしをするんだよ」
「はながし……?」

 佐代はきょとんと聞き返した。

「そのままの意味だよ」
「…………」

 言われて、佐代は思案に暮れる。
 はながし……。は、流し……。

「歯を、流すんですか……?」
「はあ?」

 志紀は素っ頓狂な声を上げた。心なしか、松樹の顔も呆れている様に見える。

「ああ、ごめんごめん。正確には花流し。面倒だからはながしって呼んでるんだ」
「花流し……。花を、流す……?」
「ああ、そうだよ。亡くなった人たちを弔って、花や供物を川に浮かべて流すのさ」

 ハッとして思わず佐代は松樹の方を見てしまった。が、幸運なことに彼はそれには気づかなかったようだ。ただ、思い詰めたように地面を見つめていた。

 川に到着すると、もう既に人だかりができていた。と言っても、体力が底を尽きたらしい老人たちや、酒に酔いつぶれただろう男たちの姿は少なかった。

「例年のことなんだけど、全く悲しいことだねえ。毎年の伝統なのに、面倒くさがって出てこない人らもいる」
 ぶつぶつ言いながら志紀は列に並んだ。佐代と松樹も後を追う。どうやら、ここで花を受け取るらしい。この人数分の花、いったいどこから調達してきたのだろうと佐代は不思議でならなかった。

「あっ……悪いねえ。今日は人が多いのか、松明が切れちまった。悪いけど志紀さんたち、そこの火が届くすぐ近くでやってくれるかい」
「ああ、あたしは別に構わないよ。雄造のとこに行くつもりだったし」
「悪いねえ」

 いくら月が足元を照らしてくれるからと言って、確かに暗闇の中、松明なしで歩くのはきついかもしれない。が、幸いなことに近くには即席のかがり火も一つ二つ供えられていたし、早めにここに到着したらしい人々の中には、松明を持っている人もいる。近くで花流しをするには十分な明るさだった。

「あんたらも好きなとこへ行きな。あたしは酔っ払いどものお世話をしてくるからさ」
 手渡された花を大事そうに持ちながら、志紀は上流の方へと歩いて行った。手元には酒もないと言うのに、未だに騒いでいる音が響いていた。66さんも大変だと、佐代は苦笑を浮かべた。

「松樹さんはどちらへ?」
「家に戻る」
「家って……え?」

 一瞬聞き間違えかと思ったほどだ。が、松樹の足は迷うことなく彼の掘立小屋へと向かっていた。

「え……え」
 折角花を頂いたのに、と思わないでもなかったが、佐代には行く当てもなかったので、大人しく彼の後をついて行った。一人寂しく花を流すのは寂しいので、せめて家の近くで花を流そうと思っていた。

 しかし、予想に反して松樹は家に入らなかった。そのまま家の裏手に回り、川へと近づく。かがり火からは遠く離れている上に、松明を持った人々も、さすがにこんな下流まで行くのは面倒なのか、誰もいなかった。灯りもここまで届かず、どこか世界と断絶されたような感覚に陥る。

 松樹は川べりに.跪くと、大事そうに抱えていた花を、そっと水面に浮かべた。ここまで流れ着いた他の人々の花と共に、ゆらゆらと彼の花は更なる下流へと流れていく。暗いので、彼がどんな表情をしているかは分からない。

 佐代も彼の隣に行き、花を水面に浮かべた。たったそれだけのことではあるが、コツがある訳でもないのに、佐代の花は下流へとは流れていくと同時に対岸へ近づいて行き、ついにかさりと止まってしまった。それが何となく不吉だということは分かる。しかし、まさか対岸まで泳いでいくこともできず、佐代はおろおろとしていた。今の恰好は志紀がせっかく繕ってくれた衣装であるし、何より今の神聖にも思えるこの川に、躊躇なく侵入することはどうしてもできなかった。

 佐代がそわそわしていると、隣で小さく噴き出す音がした。

「お前らしいな」
「――たまたま私の時に風向きがおかしかっただけです」
「気にするな。いずれ下流へ流れていくさ」

 松樹の声が聞こえたわけではないだろうに、やがて佐代の花は、風にゆらゆら揺らめき、ついには対岸から離れ、下流へ向かっていった。佐代はホッと息をつく。

 上流の方を見ると、ちらほら人々が帰っていく姿も見られる。佐代も、後片付けのために早く広場へ行かなければ、と思うものの、どうしても体が動かない。虚ろな目で目の前を流れていく花々を眺めていた。

「これ――この花たち」
 歌うように佐代は呟く。

「一体……どこへ向かっているんでしょうね」
 まるで、迷子のような声だった。後ろで小さく息を呑む音がする。

「目的地……あるんでしょうか」
 死者の元へと向かってくれればいいとは思う。でも、もし弔う側に覚悟が無かったら? 佐代は未だ、両親が亡くなったという自覚を持てずにいた。だからこそ、彼らを弔うこともできない。

 身近な人が亡くなる経験をした人もしていない人も、弔う気持ちさえあれば、前を向こうという気持ちさえあれば、多少の哀しみと共に、きっとこの花を見送ることができるだろう。死者の元へと、この花が向かってくれることを信じて。

 だが、弔う気持ち以前に、死者に対して罪悪感しか抱いていなかったとしたら。

 ……この花たちは、一体どこへ向かうのだろうか。

「帰りましょうか」
 夏とはいえ、水辺の近くは少々冷える。佐代はくるりと振り返った。そして瞬時に固まる。

「松樹、さん……?」
「――ああ」

 一瞬遅れて松樹は立ち上がった。佐代は見た。彼の瞳に、涙が光っているのを。

「松樹さん――」
「何でもない」

 佐代の気遣わしげな声を、強い口調で拒絶した。

「何でもないんだ。気にするな」

 そう言う彼も、迷子の様に見えた。暗い闇を、一人で彷徨っている迷子。

 かける言葉が、見つからなかった。