18:お祭り


 畑で松樹と共にお弁当を食べた後、佐代は淡々と後片付けをした。その後は志紀の下で毎日のように行っている料理修業が待っているのだが、この時の佐代はどうも行く気がしなかった。

 早く行かなければ、そうは思うのに、身体が動かない。
 穏やかな昼下がりではあるが、佐代の心は一向に晴れ渡らなかった。

 あれから数日が経った。
 松樹とは、関係が近くなることも遠くなることも無かった。佐代は、何事もなかったかのように接していた。

 薄情な人間だ、と佐代は思う。
 両親が目の前で事切れた時、佐代は何もできなかった。瞳から涙が零れることも無ければ、声にならない叫びが突き上げることも無い。ただ、茫然としていた。
 そうして数か月経った今も、涙は出ないままだ。

 悲しいと思わない訳ではない。寂しいと思わない訳ではない。ただ、まるで考えることを拒むように、佐代は激しい感情に溺れることは無かった。

 傍目から見れば、両親の死の悲しみを堪えながら、それでも懸命に国に尽くす少女に見えるかもしれない。でも違う。
 ただ目の前のことに集中したかっただけだ。ただ、忘れたかっただけだ。涙すらも流せない自分のことを。

 薄情な人間だ、と佐代は思う。
 現在彼女を取り巻くすべての環境が、彼女の雨によってもたらされた被害者だ。そして佐代の一番近くにいる存在――彼の弟の命を、彼女は奪った。にもかかわらず、自分はそのことを素知らぬふりをして、のうのうと暮らしている。

 跪いてただただ謝り続けることもしなければ、泣いて許しを乞うこともしない。ただ、何事もなかったかのように振る舞っている。何も、聞かなかったかのように。

 私はいったいどうしたいのだろう。
 むしろ、村の人々全員に、暴露してしまったらどうだろう。佐代が、洪水をもたらした巫女本人だと。あなた達の村に多大なる損害をもたらした張本人であると。

 闇の中へと沈み込む思考を途切らせたのは、唐突な扉の開く音だった。この乱暴な音は松樹ではない。振り向くと、志紀が立っていた。手には長いテープを持っている。

「ね、ちょっと採寸させてくれない?」
「え……?」

 急な申し出に、佐代は頭が混乱した。

「採寸って……」
「ちょっと作りたいものがあってさあ、ね、ほんの少しの間だけだから。服の上からでいいからさ」
「はい……。別に大丈夫ですけど」

 佐代は黙って両手を広げた。志紀は嬉々として採寸を始める。
 何のための作業なのか、どうして私なのか。
 聞きたいことはたくさんあったが、しかし聞くのが億劫で、佐代はされるがままだった。

「あーっとさ、佐代」
「はい?」
「今日と明日、こっちには来なくていいよ。あたし、ちょっと用事があるからさ」
「あ……はい。それはもちろん、大丈夫ですけど……」
「その代わり、明日の夕方にこっち来てくれる? 松樹と一緒に。夕餉をご馳走するからさ」
「え……でも悪いです、そんな」

 慌てて佐代は両手を振った。と、志紀は厳しい表情で彼女の手を抑える。採寸中に、じたばた動くなと言いたいらしい。

「うちのと食べるには十分すぎるくらいのおすそ分けもらっちまってさ。二人で食べに来てよ」
「それは……すみません。ではお言葉に甘えて……」
「うんうん、遠慮せずに甘えて。でもね、絶対松樹と一緒に来ること。松樹が渋っても、引きずってでも連れてくること。頼んだよ」
「は……はあ」

 曖昧に佐代が返事をすると、志紀はそれでも嬉しそうに帰って行った。

 志紀は、押しが強い女性だから分からないだろうが、あの松樹が渋ったら最後、押しの弱い佐代に彼を引っ張ってくることができるだろうか……。
 佐代には、ただそれだけが杞憂だった。

 そして次の日。案の定、松樹は渋った。面倒、疲れた、眠いなどなど……。
 が、前日あれほど志紀に言われていたので、佐代としては彼を連れて行かない訳にはいかない。どうしても、と説き伏せて佐代は彼を志紀の家に連れて行った。

「あー、よく来たねえ。ご苦労様」
 佐代の苦労など露知らず、志紀は随分ゆったりとした表情で出迎えた。後ろにはそわそわとした雄造もいる。

「じゃ、雄造、よろしく頼んだよ」
「ああ」
「――え」

 松樹は、そのまま雄造にがっしりと首根っこを掴まれ、奥の部屋へ引っ込んだ。佐代も、松樹本人さえも、呆然とされるがままだ。

「え……っと」
「佐代はこっちだよ。上がんな」
「は……はい」

 聞くに聞けず、佐代はそのまま志紀の後について二階に上がった。志紀の私室だとみられる部屋に入っていく。

「あのねー、ちょっとその椅子に……あ、いや、その前に来てもらおう」
「え……」

 志紀は勝手に納得した様子で、綺麗に畳まれていた服をパッと広げた。佐代の視界に、鮮やかな色が広がる。

「こ、れは……?」
「これはねえ、この辺りの民族衣装……みたいなものかな。これ、着てもらえる?」
「え……っと、私が、ですか?」
「そりゃもちろん」

 いまいち佐代は分かっていない顔だったが、相変わらずせかせかした志紀に急かされ、佐代はその服に目を通した。全体的に生地は柔らかく、詰襟のゆったりとした上衣から切り替えで、下は足首まで覆うスカートだった。模様はないが、それが逆にスカートの鮮やかな紅色を引き立てていた。袖口は大きく広がっていて、着心地も抜群だ。佐代は思わず頬を染める。

「あの……これは一体……?」
「今日千世村でお祭りがあるのさ。若い子たちは、皆この衣装を着るんだ」
「も、もしかして、志紀さんが、これを……?」
「ああ、そうだよ。どう? 着心地は? 初めて作ったから、自信は無いんだけどねえ」
「あの……あの」

 言葉にならない。佐代は唇を噛みしめた。

「ありがとう、ございます。本当に素敵です。可愛いです。着心地もすごくいいです」
「あはは、ありがとうね」

 志紀は流れるような動作で佐代の頭に手をやる。ゆっくりと撫でられるその優しさが、ひどく心地よかった。

「娘がいたらこんな気持ちなんだろうねえ」
「…………」

 母が生きていたら、こんな気持ちなんだろうか。
 ふっと佐代はそう思ったが、すぐにぎゅっと目を瞑ってその考えを追い出した。

「じゃ、ちゃっちゃと髪も結っちまうか」
「髪も……ですか?」
「ああ。一年で唯一の若者がはしゃげる日だからねえ。みんなおめかしするのさ。紅も引いてみるか」

 佐代よりもはしゃいだ様子で、志紀はパタパタと忙しそうに動く。佐代はぎこちなく椅子に座り、ただ彼女のされるがままになっていた。全てが終わった後、嬉しそうに手鏡を手渡された。覗き込んで見ると、いつもと違った雰囲気の自分がいた。髪は高い位置に結いあげられ、花と一緒に存在を主張している。佐代のスカートと同色の紅は、それだけで彼女の顔色を一層明るくした。

「ありがとうございます……。こんなに、よくしてくださって」
「あたしも楽しかったからいいよ。それよりほら、早く行っておいで。松樹が待ってるからさ」
「松樹さんが?」

 思わず怪訝そうに聞き返した。あの不愛想な松樹と、晴れやかなお祭りという単語が、似ても似つかなかった。

「ああ、あの子は雄造に頼んだから、あっちも上手くやってくれてると思うよ」
「はあ……」
「外に料理もあるから。今日は若い子たちが主役だよ。存分に楽しんでおいで」
「はい」

 少々歩きにくい長いスカートは、どこか神殿時代を彷彿とさせた。あの頃も、始終神殿の者だけが身に着ける上衣、下衣に、長い巫女の羽織を羽織っていた。

「おおっ、佐代ちゃん可愛いねえ! 似合ってるよ!」
 一階に降りると、これまたはしゃいだ様子の雄造に出迎えられた。

「ありがとうございます、雄造さん。……あの、松樹さんは?」
「ああ、あいつならさっさと家出て行っちまったよ。ったく、佐代ちゃんの付き添いをしろってあれだけ言ったのになあ」
「そうなんですか……」
「まあ松樹がいないのなら、遠慮なく俺が付き添いを――」
「あんたは大人しくしてな。今日は若者たちが主役だよ。あんたがいったら水を差すだろうが」

 いつの間にやら、怖い顔をした志紀が雄造の後ろに立っていた。佐代は思わず苦笑を浮かべる。

 志紀にはにっこり手を振られながら、雄造には若干悲しそうな顔をされながら佐代は見送られた。