17:山奥の星空
気が遠くなっていたのは一瞬のことだった。すぐにハッとすると、佐代はきょろきょろと周りを見渡す。落ちてから……いや、落ちるまで大分時間があったような気がするし、全く経っていないような気がする。少々混乱しながら下を向くと、松樹と目が合った。
「すっ、すみません!」
「……大丈夫だ」
松樹を下敷きにしていたことに気付き、佐代はすぐに身を退けた。松樹はさして気を悪くした様子もなく、身体の土を払った。
「すみません、大丈夫ですか?」
「だから大丈夫だって」
呆れたようにため息をついたのち、松樹は空を見上げた。先ほど落ちた場所だ。
「思ったより怪我もなく――」
そう続けた松樹が固まる。不審に思った佐代も彼が見上げている先を見た。彼の考えていることを一瞬にして理解した。
「そんなに……高くなかったみたい、ですね」
「だな」
見上げた先は、せいぜい五、六メートルほどの高台だった。夕闇の視界が悪い中、崖の途中からは茂みがせり出していたので、全く気付かなかった。打ち所が悪ければ怪我をしていたかもしれないが、幸い、二人にけがはなかった。
……何だか、拍子抜けした気分だ。
何となく二人は顔を見合わせる。そして。
「ふっ」
「あはははっ!」
示し合わせたように二人は笑い出した。
「必死になったのが馬鹿みたいだ」
「酷いですね。一人でここに落ちた方が良かったと?」
「そういうことだ」
「薄情な人ですね!」
すっかり今の状況も忘れ、二人が和やかな口論をしていると、先ほどの悲鳴に気付いたのか、わらわらと人が集まってきた。もちろん、それは先ほど二人が落ちた、崖の上でのことだが。
「ちょっと、大丈夫? 足滑らせた?」
心配そうに顔を覗かせるのは志紀だ。途中の茂みから見え隠れしている。
「あ、はい、大丈夫です。私がボーっとしていて、そこから落ちてしまって……」
「松樹も一緒?」
「はい。俺も怪我はありません」
「なら良かった。そっちからは……上がれなさそうだね。合流する場所もよく分からないし」
言いながら、志紀は地面に転がっていた佐代と松樹の籠を手に取った。
「大丈夫ですよ。俺たちは俺たちで下山します」
「そうしてもらえる? もうすぐ暗くなってくるし、あたしらも下山するつもりなんだわ。くれぐれも気を付けなよ」
「はい」
「みんな! 松樹と佐代は大丈夫だって。だからあたしたちもそろそろ山を下りよう!」
はーいと従順な返事の後、大勢の人たちが移動する音が聞こえてきた。次第に佐代は心細くなってくる。
慣れない土地に松樹と二人きり。
彼と二人きりが嫌なのではないが、行きはあれだけ大勢だったにもかかわらず、帰りは暗いうえに、二人だけという行程に、不安を抱かないわけがなかった。しかし、松樹の方はさしたる不安はないようで、案外ケロッとした様子で地上へ向けて歩き始めた。佐代に対して何の声掛けもなかったので、慌てて彼女も後を追う。
「道……分かるんですか?」
「分からんな」
素っ気ない返事だ。佐代は更に不安になる。こんな事態になったのも自分のせいだということは分かっているが、それでも唯一の連れ、松樹との会話が無いというのは辛いものがある。その上、松樹の足は速いし、足場も悪い。佐代は一生懸命松樹について行くので精一杯だった。
そのうち、辺りは薄暗くなっていった。足場も悪いうえにこうも地面が見えづらいと、そのうち転んでしまうのではないか。
「わっ!」
そう思った矢先、あまり運動神経の良くない佐代は、案の定石に躓き、両手と両膝を地面に打ち付けた。思わず涙目になる。
松樹の視線が痛い。
「……すみません」
「……いや、こっちこそ悪かった。ゆっくり歩こう」
「…………」
佐代は目を点にして松樹を見つめた。思いもよらない言葉だった。まさか、あの松樹がこんな優しいことを言うなんて。
しかし彼の方もそれは承知の上だったのか、佐代の不思議そうな視線に、すぐに眉間にしわを寄せると、そのまま睨み付けた。
「なんだよ」
「い、いえ……何でもないです」
ぶんぶんと首を振る佐代に、松樹はなおも言いたげだったが、やがて踵を返した再び歩き出した。今度は佐代に合わせて、ゆったりとした速度だ。
「今日は……月が無いんだな」
ぽつりと呟かれた言葉に、佐代は反射的に顔を上げる。
「わあ……」
途端、すぐにその顔は喜色で溢れた。満天の星空だった。山の澄んだ空気と、松樹の言う通り、月が無いせいで、より一層星が明るく瞬いていた。周りに背の高い木々があるせいで、視界いっぱい、という訳にはいかなかったが、それでも見上げるだけ一杯の星空は、何年振りだったろうか。思わず佐代の口から感嘆の声が漏れる。
「綺麗、ですね……!」
「丁度今日が新月だったのか。星が綺麗に見えるわけだ。急ぐぞ。そのうち全く地面が見えなくなる」
「…………」
雰囲気もへったくれもない。が、佐代は気を悪くすることなく、下山を再開した。それでも心の中は、未だ先ほどの星空に魅了されていた。
「昔……」
佐代はポツリと言った。視線は相変わらず下に向けられている。星空を眺めながら歩きたいものだか、そうすればまた転んでしまうだろう。
「昔、両親と一緒に星を見に行ったことがあります。少し肌寒い、冬の時期でした」
目の前の星空も、佐代の中にあるかつての思い出も、綺麗なままだった。
「懐かしいなあ……」
反射的な呟きだった。しかしそのことにより、彼女にかつての光景がよみがえる。両親と村で楽しく過ごした時のことも、星空を見た時のことも、目の前で、事切れた時のことも。
佐代は黙り込んでいた。心ここにあらずといった様子だ。松樹も、そんな彼女を気遣って、チラッと盗み見る。気を遣う、というのは彼の性分ではないが、気づけば己の口から、ポロッと言葉が漏れていた。
「……そういえば、俺も見たことあるな」
「……そうなんですか?」
「ああ……まあな。こんな田舎の村だろ? 娯楽と言ったら祭りや時々訪れる行商人くらいしかない。だから、時々は村のみんなで出かけたりするのさ。弁当持って山へ行ったり、水遊びしたり。……星空を見たのも、丁度そんな時だったか」
「不思議ですよね。普段見慣れているはずなのに、非日常的なことが起こると、途端に素晴らしく美しいものに見える。美しいのは、いつも一緒のはずなのに」
松樹は、黙って佐代の言葉を聞いていた。佐代の言葉は、奥深いような、心に沁みるような、そんな不思議な心地がした。こんなに穏やかな気分になれるのは、久しぶりのことだった。
「松樹さん、好きな料理ってありますか?」
不意に、沈黙が破られる。その上全く脈絡のない質問だったので、松樹は混乱した。
「……何の話だ? 好きな料理?」
「はい。松樹さんは、どんな料理が好きなのかなって」
「…………」
そんなの、考えたことも無かった。
しばらく松樹は熟考してみたが、やがて面倒になってきた。適当に返事をする。
「特にない。何でも好きだ」
「……え。一つくらいあるものでは?」
「知らん。特にない」
「……まあ、どうせそんなこととは思いましたけど」
少々佐代はむくれた。今の今まで松樹からきちんとした返事が返ってきたためしはないが、こうも素っ気ないと、なんだか悲しくなってくる。
「お、明かりが見えて来たぞ」
「え、もう着いたんですか?」
気づけば、確かに下の方から松明の仄かな灯りが見え隠れしている。辺りの景色も、随分地上へと近づいていた。
「もう……か。それにしては結構歩いたような気がしたが」
「あっという間な感じでしたよ。松樹さん、今日はありがとうございました」
「お前といると碌なことがないからな」
「……あはは」
いつもならば、ただひたすらに恐縮して謝ってしまうような松樹の言葉だが、最近ようやくわかってきた。これが、彼なりの接し方なのだと。
すごく分かりにくいけど。すごく面倒な人だけど。
「あー、やっと来た来た」
ようやく二人が山のふもとに降り立つと、志紀が両手を広げた迎えてくれた。
「ずいぶん遅いようだから、今から村の男たち呼んで探しに行こうと思ってたところだったんだよ」
「子供たちも心配してたんだよー。今から俺たちで探しに行って来ようかってね。危ないから家に帰したんだけど。あいつら放っておいたら、二次遭難の可能性大だからねえ」
「とにかく、今日はもう家に帰んな。また明日あたしの家に来な。山菜やら果実やら、今日の収穫山分けだからさ」
「す、すみません……。ありがとうございます」
彼女たちの優しい言葉に、佐代はひたすら恐縮した。佐代がしたことと言えば、食べられもしない山菜をたくさん籠に集め、そして松樹を道連れに遭難しただけだ。何だか全てが申し訳なくて、佐代は縮こまる。
そんな彼女の背を、志紀はバンバン叩くと、豪快に笑った。
「あははっ、何もそんなに謝らなくても。ね、明日はお弁当でも作ろうか」
「お弁当?」
「ああ。この前、佐代が饅頭差し入れてくれただろ、うちの男たちに。その時のことが好評だったらしくてさ、また今度何か差し入れてくれだって」
「いいですね、それ」
佐代の顔は思わず綻ぶ。饅頭を差し入れただけで、男の人たちは随分喜んでいた。それがお弁当となると、彼らがどれだけ喜んでくれるのか想像もつかない。
「今日は豊作だったし、どうせなら村の女たち総出でどうかってことさ」
「ね、松樹、明日お昼時になったらこっちにおいでよ。一緒にお弁当食べよう」
「そうさそうさ、それがいい」
女たちは手を打って喜んだ。松樹もしばらく考えていたようだが、やがて頷く。
「そうさせてもらいます。というより、そもそも明日は手伝いをしに行くつもりでしたから」
「またまたー。あんたは気を使わなくたっていいんだって。ほら、畑の方はどうなったんだい。そっちの方が大変だろ」
「落ち着いてきたので大丈夫です。手伝いに行きますよ」
「ほんっと、この子は誰に似たんだか強情なんだからねえ……」
目まぐるしく回る村の女たちの舌は、止まることは無い。
もうすっかり星空のことは忘れ、佐代は彼女たちの会話を目を白黒させながら聞いていたが、その顔は、非常に楽しそうだった。