15:山菜取り
もともと、佐代と松樹の会話はそう弾むものではない。が、今日ほどに気まずい食事の時間はなかっただろう。
昨日――怒った松樹に連れ戻されたあの後、彼は夕餉を食べることなく床に就いた。佐代としても、家の主人である彼が何も食べないのに、自分だけ呑気に食べるということはできなかったので、彼に倣って就寝した。その際、二人の間に会話はない。
佐代は松樹がなぜ怒っているのか、さっぱり分からなかった。ただ、横になった松樹に対して、佐代も膝をつき、謝ってみたものの、彼から反応が返ってくることは無かった。佐代もお手上げだった。せめて言葉だけでも交わしてくれれば、と。
しかもその次の日は、佐代が起きるよりも早く、松樹は仕事へ出かけていた。佐代は慌ててお弁当を作るものの、今度はお弁当を作り終えるよりも早く松樹は帰って来て、再びどこかへ出かける準備を始める。
堪らなくなって佐代が行先を尋ねると、一言、村の手伝いに行ってくるとだけ答えた。さすがに丸一日ご飯を食べないのは駄目だと佐代は精一杯追いすがった。ご飯を食べずに倒れられたら大変だ、村の人たちにも迷惑がかかる、と。
松樹は考え直したのか、渋々食べてくれたが、怒っている相手との無言の食事は非常に居心地が悪く、佐代は先ほどの行動を早速後悔していた。
「あの」
佐代はついに箸を置いた。彼女のその動作に、松樹が緊張したのが分かった。
「どうして松樹さんが怒っていらっしゃるのか、私にはさっぱり分かりません。教えていただけませんか?」
畑仕事をしている松樹を放り出して、居候の身の佐代は遊び呆けている。
始めはそのことに松樹が怒ったのかと思ったのだが、違うだろう。一緒に過ごした時間は短いが、それだけでも彼がその程度で怒る性格ではないことくらい分かる。ならば、なぜ。
「……別に、怒ってはいない」
「怒ってます」
「怒ってない!」
「ほら怒ってる!」
「それは……! お前が何度も言わせるからだろうが!」
「でも怒ってますよ!」
「怒ってない!」
じりじりと視線が絡み合う。佐代としても一歩も引くつもりはなかった。その時、何とも呑気そうな声が割って入った。
「ねー、ちょっと入っていいかい? 志紀だけど」
「……どうぞ」
不満そうにそう言うのは松樹だ。佐代も口をへの字に曲げながら、取りあえずは休戦だと心を入れ替える。
「おっ、佐代、早速昨日練習したの作ったんだね。おいしそうだ」
「ありがとうございます」
志紀の突然の来訪は、何とも気の抜けるものだった。佐代が作った昼餉を興味深げに眺めた後、箸も使わずにちょちょいと摘まんで口に入れる。もぐもぐと咀嚼した後、佐代に満足そうに言うのだから、佐代も閉口した。
「で、志紀さん、いったい何のご用でしょう」
彼女ののんびりとした口調に松樹も急く思いだったのだろう、早速話を切り出した。志紀はうーんと顎に手をやった後、にっこり笑う。
「松樹が怒ってるってうちの旦那から聞いたんだけど、本当なんだねえ」
「茶化しに来られたんならお引き取り下さい」
「まあまあ、そんなこと言わずにさ」
佐代としては、常時ハラハラし通しだった。冷徹な松樹の態度と、それを物ともしない志紀の大雑把な態度。いつ松樹が爆発するか、彼女としては堪ったものではない。
「今日は山菜取りに誘いに来たんだよ。ほら、丁度頃合いの気候になって来たし、そろそろいいかなってね」
「山菜?」
佐代は思わず声を上げた。一触即発のこの空気の中、何だか不釣り合いな言葉が聞こえた気がする。
「そうそう、山菜取り。毎年この時期になると、村の女子供総出で行くんだよ。佐代も行くよね?」
「え……っと」
佐代の視線は自然と、顔色を窺うように松樹へと向く。山菜取りがどういうものかは分からないが、手伝えるものなら手伝いたい。対する松樹はは佐代に視線をやらずに、口だけ開く。
「勝手にすればいいだろう」
「あ、ありがとうございます」
昨日とは違って、今日はそれほど怒ったような様子は見られない。佐代はホッと息をついた。
「ま、勝手にするんだけど。でも松樹も行くんだよ?」
「はい?」
思い切り眉根を寄せた松樹がこちらを向く。
「俺は行きません。村へ手伝いに行くつもりでしたし」
「ああ、雄造に聞いたら手伝いはいらないって。一緒に山菜取り行かせろって言ってたよ」
言ってたというか、言わせたというか……。
しかしそれは口には出さず、にこにこと志紀は松樹を見る。村を取り仕切っている雄造にいらないと言われたら、もう松樹に出る幕などない。
「じゃ、ちゃっちゃと準備して行くよ。もうみんな集まってるからね」
「……はい」
なかなかに強引な村の大人、志紀に逆らう術を、佐代と松樹は持ち合わせていなかった。大人しく昼餉をかきこむと、彼女に従って黙って家を出る。山の麓へ近づくにつれ、次第に騒がしくなっていった。佐代と松樹を連れていくことはもうすでに決定済みだったのか、そこには二人分の籠と水筒まで用意されていた。二人は若干顔を引き攣らせながらもそれらを手に取る。志紀は、二人の準備が終わったことを確認すると、人ごみに向き直った。
「ほら、奥様方も子供たちも皆静かにして。今日は松樹と、最近彼に拾われた佐代が同行するよー」
「よ、よろしくお願いします……」
志紀の妙な紹介の仕方に、佐代はびくびくしながら頭を下げる。が、村の女性や子供たちに警戒心というものはあまりないらしく、にこにこと各々よろしくーと手を振られた。佐代はホッと胸を撫で下ろした。
「何だか……賑やかですね」
思わず佐代は呟いた。それに反応したのは、意外にも松樹だった。
「だから嫌なんだ。子供も多いし」
そう言い捨てる松樹の足元には、わらわらと子供たちが集まっている。やんちゃな子供が、我先にと松樹の身体をよじ登っていた。
「それにしては……好かれているようですね」
「子供は高い所が好きだからねえ」
志紀は豪快に笑う。
「そのくせ、この村一番の大男、雄造には寄り付かないと来た。雄造が寂しがる気持ちも分かるってもんさ」
「はあ……」
「ほら、もう行くよ。予定の時間よりすっかり遅れちまった」
志紀が指揮を執りながら、一行は順々に山へと足を延ばした。女性たちはぺちゃくちゃ喋りながら、子供たちはわいわいと駆けまわりながら。佐代は一方で気を揉んでばかりだった。あまりに女性たちが子供たちに関心が無く、その一方で、子供たちはというと、急な坂道を上ったり駆け下りたり。いつ彼らが転ぶか冷や冷やし通しだった。そんな彼女を見透かしてか、松樹がため息をついた。
「そんなに気に病むことは無い。あいつらは慣れてる。自分から危険なところへ行くようなことは無いさ」
「で、でも……遊んでいるうちに崖から落ちてしまったら……」
自分がその経験者でもあるので、ひどく不安だった。佐代の場合は、下に川があったから一命を取り留めたものの、岩場だったならば、どんな目に合っていたことか。
「遊びに夢中な時でも、危険なところは自分できちんと判断している。俺はそれよりもお前の方が心配だ。一人で変な所に行くんじゃないぞ」
「しっ、失礼ですね! 子供じゃあるまいし、そのくらいの判断はできます!」
思わず言い返すと、佐代はずんずん足を速めた。確かに自分は世間知らずかもしれないが、一見して年下の子供たちよりも心配されると言うのは心外だった。佐代は志紀に追いつくと、、そのまま黙って彼女の隣を歩いた。志紀の方も、どうしたものかと思ったようだが、チラッと松樹の方を見たのち、結局何も言わないまま、ご婦人方との交流を楽しんだ。
途中途中で休憩を入れながらの行程は、ゆうに二時間はかかった。目的地に着いたことに感動する間もなく、一行はてきぱきと山菜取りに励む。山菜だけではなく、茸や果実なんかも視野に入れていく。子供含む彼らのその効率の良さに、佐代は置いてけぼりだった。山菜らしきものを見つけてみても、それが食べられるものかよく分からない。茸なんかはもっての外だ。毒入りだったとしたら、誰かの命を奪うかもしれないのに、そう簡単に籠に入れることなどできない。
佐代はそっと志紀の方を盗み見る。――彼女は未だ、村の女性たちとの会話に勤しんでいた。もちろん山菜を籠に入れる手は休めることは無いが、彼女たちの間に割って入ることなどできなかった。
次に話しかけやすそうな子供たちの方を見る。彼らの母には知識は及ばないだろうが、山菜を迷いなく籠に入れていく様子からは、期待しか見られない。が、その合間合間に、彼らはそこらにいる虫を互いに投げ合っていた。……山育ちである佐代だが、もちろん虫は苦手だ。彼らに話しかけたら最後、その矛先が今度は自分に向きそうな気がして、佐代は断念した。
となると――最後の頼みの綱、松樹の方を見る。彼は、村の女性や子供たちの輪にも入らず、一人もくもくと山菜を摂っていた。背中から漂う孤独感に、佐代は同情を覚えた。同時に親近感も持ったので、そっと彼に忍び寄り、隣に腰を下ろした。強く掴んでいたせいで、すっかり萎れてしまった山菜を、松樹の前に差し出した。
「あの……これって、食べられますか?」
「食べられない」
「…………」
「じゃあこれは」
「食べられる」
「これは」
「食べられない」
「…………」
そのやり取りの間にも、松樹は手を休めない。佐代は少々むくれた。食べられる、食べられないだけではなく、いっそのこと全て教えてほしかった。いちいち松樹の聞くのでは、手間がかかる。しかし松樹に佐代のその微妙な機微は伝わらないのか、一向に彼から口を開くことは無かった。そのうち、佐代は松樹の作業を観察することにした。どれが食べられるのか、食べられないのか。食べられるものだけを目に焼き付け、それを籠に入れていくようにした。
すると、夢中になって山菜を籠に入れていく佐代の腕を、不意に松樹が掴んだ。彼の瞳は真剣だ。思わず佐代はたじろぐ。
「な……何ですか?」
おどおどと松樹を見上げると、彼は少し佐代を見つめた後、長いため息をついた。
「……それ、食べられない。こっちと形が似てるからよく間違うけど、匂いが違うから」
「におい?」
言われてみて、佐代は大人しく手に持っていた山菜を鼻に近づける。途端に、うっと顔を顰めた。
「くさい……」
「それに反して、こっちはただの草の香り。これに関しては匂いを嗅ぐといい。あと、一応言っておくと、これも食べられないから。色が違うだろ?」
松樹は佐代の籠の中を指さして言う。佐代はすっかりむくれた。
「気づいてたならそう言ってくれれば良かったじゃないですか」
「時間の無駄だと思ってたんだ。それに、麓に戻ったら今日の収穫をもう一度見直す時間がある。その時に食べられないものを分ければいいだろう。食べられないものでも、薬草を煎じるのに使ったり、香草として役立つものもある。とりあえず今は多くの山菜を籠の中に入れることだけを考えろ」
「……はい」
大変不本意だったが、佐代としては頷くことしかできなかった。その後、二人は静かに山菜取りを再開する。
すっかり喋らなくなった佐代と、もともと無口な松樹。
へそを曲げた佐代は、この沈黙を気まずいと考えることは無かったが、それでも松樹の方はそうは思わなかったらしい。視線を右に左に沿わせた後、コホンと咳払いをした。
「その……」
「はい?」
「悪かったな。昨日は」
唐突な松樹に、驚かなかったと言えば嘘になる。が、佐代としても、もう心の切り替えはできていた。静かに頷く。
「……別に、大丈夫です」
聞きたいことは山ほどある。佐代だって、松樹がどうしてあれだけ怒ったのか、その理由を聞きたい。が、聞き返したが最後、松樹が更に機嫌が悪くなるような気がして、佐代は黙っていた。その代わり。
「詳しいんですね、山菜に」
このぎこちない会話を、終わらせたくないと思った。
「……よく俺も山菜取りに駆り出されてたからな。力仕事とまではいかなくても、それなりに男手は必要だと」
「何となく想像がつきます。志紀さん強引そうですもんね」
「ああ、本当に困ったもんだよ」
嫌そうなに顔を顰める松樹は、それでも嬉しそうだ。佐代もすっかり機嫌を直し、立ち上がった。完全な仲直り――とまではいかないかもしれないが、それでも以前よりは居心地が良いことは確かだ。このまま山菜取りを通して元通りの関係に慣れると思っていた。
「あ、あっちにも色々あるみたいですね――」
そう言いかけ、佐代は更に森の奥へ入って行こうとしていた。しかし彼女の言葉はそこで途切れる。
「――っ」
足元が崩れ、佐代の身体は宙に投げ出された。
「――っ、馬鹿!」
咄嗟に掴まれる腕。温かい手。
「しっかり……掴まっておけよ」
「あ……」
ギュッと目を瞑る佐代の脳裏に、同じような光景が浮かび上がる。あの時――藤香に腕を掴まれた、あの時と同じ。
でも今回は僅かに違った。佐代の心持ちが、僅かに違う。
離さなければ。手を離さなければ、松樹まで落ちてしまう。
そうは思うのに。
どうして、一瞬でも生きたいと思ったのだろうか。
ふっと重力が無くなった。佐代の重みに松樹まで引っ張られ、二人は悲鳴を上げながら下へ下へと落ちていった。