12:再度、祈る
志紀の家は、豪華ではないが、大きなところだった。しっかりした造りだったのか、大雨の被害は少なかったようだ。佐代は少しホッとする。
「じゃ、早速手ほどきを始めようか……あ」
志紀の視線は、かまどの所で一旦停止した。佐代もそちらに視線を向けると、すっかり冷えてしまった昼餉の数々が、誰に食されることなく鎮座していた。志紀はため息をつく。
「あーあ、本当に全く何も食べないでいっちまったよ……。そんなんで大丈夫かねえ。最近は日光の当たりすぎで具合が悪くなる人もいるってのに」
「あの……旦那様たちは、やはり先日の大雨の復興作業をしているんですか?」
「旦那様あ?」
質問よりも驚いたらしく、志紀は素っ頓狂な声を上げた。佐代も少し顔を赤くする。仰々しい言い方だとは自分でも思ったが、それ以外に呼び方を知らないので、そう呼ぶしかなかったためだ。
「ああ、あの人のことか。まあそうだね。いつもは自分たちの仕事……畑を耕したりとか、家畜を育てたりとか、物を売りに行ったりとか、そんなのをしてるんだけど、何せ、この間の大雨で随分な被害が出たからねえ。皆総出でその復興をしてるってとこかな。あの大雨で、家を潰されたり流されたりした人もいるから」
「……そうなんですか」
「ったく……それにしても勿体ないね。夜にでも食べさせるか。このまま捨てる訳にはいかないよ」
ぶつぶつ言いながら、志紀は手早く料理を器に盛っていく。その様をボーっと眺めている佐代は、つい口にしていた。
「お弁当……にして、持って行っては?」
「お弁当?」
聞き返され、佐代はハッとする。完全に無意識だった。
「あ……いえ、その、私も、確かにこの天気で何も食べずに力仕事をするのはきついと思うので……。倒れてしまっても大変ですし……」
「言われてみればそうだね……。お弁当という手があった」
ポンと手を打つと、志紀はすぐに佐代に向き直った。
「よし。あたし、今からこれ届けてくるよ。悪いけど、ちょっと
ここで待っていてくれるかい?」
言うが早く、志紀は手早く料理の品々を風呂敷に包んでいく。その素早さに目を回しながら、佐代は今度は意識してしっかり声を出した。
「あの、私が持って行きます」
「え……?」
「私に持って行かせてください」
「でも……大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
佐代はしっかりと頷いた。先ほどの失礼な態度も、きちんと謝りたい。それに、この村の被害の大きさを、自身の目でしっかりと確認もしたかった。
「じゃあ、悪いけどよろしく頼むよ。これね」
どっしりとした風呂敷の重みに、佐代はよろめいた。
「はい。でもなの、旦那様のお名前は……」
「雄造だよ。とりあえずは山のふもとに行ってみな。そこで雄造さんはどこですかって、その辺りにいる男に聞いてみるといい。誰かは知ってるだろうよ」
「はい」
元気よく頷き、佐代は外に出た。眩しい太陽の光に思わず目を細めたが、すぐに歩き出す。子供の賑やかな声や、カンカンと甲高く響き渡る金槌の音。そんな中を、佐代は真っ直ぐ山のふもとに向かった。そこへ向かう途中、様々な人々とすれ違ったが、彼らは見慣れない佐代に目を丸くすることはあっても、彼女が巫女だと見破るものはだれ一人いなかった。
しかしそれもそうだろう。あの時は、面紗もしていたし、装束も巫女の羽織もきちんと着こなし、髪もしっかり整えられていた。男物の服を着、髪を適当に下ろしている今の佐代とは、似ても似つかなかった。
山のふもとには、多くの男たちがいた。あちらこちらで怒号――互いにああではないこうではないと、指示し合う姿が見られた。全くの部外者である佐代が、彼らの間に割って入るのは勇気が入ったが、それでも早くしないからには、志紀にも雄造にも迷惑がかかる。
「あの……」
「ん? なんだ?」
振り返ったのは数人の男たちだ。一人の視線で事足りるのに、一気に視線が集まったので、佐代は顔を赤くする。
「雄造さんはどちらにいらっしゃいますか?」
「雄造? 何か用かい?」
「っこれ、志紀さんのお弁当です。預かってきました」
大きい紫の風呂敷に、男たちは目を丸くした。
「あいつ、昼飯も食べてないのか……。そんなんじゃぶっ倒れるぞ」
「おーい、雄造! お嬢ちゃんが愛妻弁当持って来てくれたぞ!」
「ああ?」
先ほどよりも機嫌が悪そうだった。大男――雄造は、眉間にしわを寄せて振り返った。が、佐代が居心地悪そうにしているのを目にすると、途端にその皺が無くなり、申し訳なさそうな表情になる。
「……弁当?」
「はい。志紀さんから預かってきました」
「悪いな……」
雄造の方も戸惑っているようで、視線が絡み合うことは無い。佐代の方も、どこを見ればよいのか分からなかったので、視線は下を向く。
「え……っと、先ほどは失礼な態度をとってしまってすみませんでした。その……」
「ああ、別にいいよ。気にしてねえから」
「雄造、また怖がられたのか」
ぎこちない二人に気を揉んだのか、単に空気が読めないのか。隣の男が顔を出した。
「悪いねえ、嬢ちゃん。でもあんまし怖がりなさんな。こいつ、こんな見た目だろ? こいつ自身は子供が好きな癖して、でも子供が寄り付かねーんだよ。こいつを怖がらずに寄って来てくれんの、何人いたかなあ。俺んとこの坊主に竹史と――」
「おい、止めろって」
慌てた様に別の男が口を出した。途端に、先ほどの男が水を打ったように静かになる。
「あ……悪い」
「気にすんな」
雄造の言い方は素っ気ないが、棘があるようには感じない。彼は黙って風呂敷を開けると、弁当を掻き込み始めた。無言に耐えきれなくなったのか、男たちは申し訳なさそうに離れていく。仕事中だということもあったのだろう。場には、佐代と雄造だけが残る。
「悪いな。弁当はちゃんと受け取ったから、帰っていいぞ」
「あ……でも、お弁当の入れ物、持って帰りたいので……」
「そ、そうか」
咄嗟の一言だった。何となく、ここに留まらねばならない、佐代にはそんな使命を感じた。
「皆さん……朝から夜まで、ここで復興作業を?」
「ああ……まあそうだな。交代でな。自分の家の仕事をやったり、ここで作業をしたり。俺んとこは、生憎今はそんなに忙しい時期じゃないから、毎日ここで汗を流しているが」
「大雨の、影響ですね……。山が崩れたり、家が潰されてしまったり……」
「まあそうだな。すっかり気落ちしてるやつもいるよ。先祖代々受け継いできた家だったのにって」
「…………」
何も言えず、佐代は唇を噛む。きっと、この村を出るころになっても、何も言えないままだろう。懺悔すらできないまま。
「うまかったって伝えておいてくれ」
「はい」
佐代は空になった容器を受け取った。丁寧に風呂敷に包みなおし、頭を下げる。
「お仕事頑張ってください」
「ああ。……嬢ちゃんも、料理頑張りな」
「はい」
*****
志紀からみっちり料理を教えてもらった後、佐代は家に帰り、その時に作った細々とした料理を今日の夕餉として、松樹の前に出した。半日のうちに急に料理の腕が上達したので、松樹は訝しがったようだが、彼が褒め言葉を口にするわけもなく、また佐代も今まで以上に向上心が上がっていたので、今回も今日の料理修業のことを彼に知らせるとこは無かった。
普段以上に言葉少なに夕餉の後片付けをすると、誰からともなく寝る準備をし始め、揃って消灯をする。
「…………」
松樹の寝息が聞こえ始めるまで、そう遅くはなかった。一日中畑仕事で疲れているのだろう。佐代は彼を起こさないよう細心の注意を払いながら、そっと起き出した。小さな箪笥の中から、仕舞ってあった巫女装束を取り出し、着替える。
扉がギイッと音を立てて軋んだのには戦慄したが、松樹の方を見ても、相変わらず穏やかな寝息を立てている。佐代はそのまま、そっと外へと飛び出した。
ここには、巫女の羽織も供物も神酒もない。
だから、祈祷なんて到底無理だと思っていた。
佐代は家の裏手に回ると、樽を祭壇に見立て、川から酌んできた水入りの竹筒を置いた。神殿の祭壇には決して似ても似つかないが、何もないよりはマシだろうと、そのまま樽の前に両膝をついた。
この国のため、この国の民のため、今一番大切なのは雨だということは分かっていた。にもかかわらず、祈祷を行うための道具が何もないからと、始めから諦めていた。。
この村の被害の原因は、私のなのに。
彼らは汗にまみれて村を復興しようとしているのに。
できることをやらなければ。
それが、この村に対するせめてもの償いだ。
樽の向こうに、綺麗な月が見えた。といっても、新月が近いのか、その姿は哀愁が漂うほど細い。
その月に向かって、佐代はただ祈る。
雨のこと、潰れた家のこと、土砂を運ぶ男たちのこと――。
しばらく沈黙が続く。彼女の耳には、虫が鳴く音も風が靡く音も川が流れる音も入って来なかった。ただ、国のことを、民のことを心に思った。
どれだけ時間が経ったかは分からない。が、しばらく経つと、佐代はそっと瞼を開け、立ち上がった。
雨は降らなかった。