11:大雨の惨状
次の日、松樹にお弁当を持って行った後、佐代はそわそわと志紀の来訪を待った。今まで流されるままだった彼女にとって、やるべきことがあるのは嬉しいことだったし、それに対して努力することも新鮮だった。
朝のうちに洗濯も掃除も済ませ、さらに言えば、お弁当の後片付けも終わった後、ようやく志紀は現れた。といっても、佐代の準備が早すぎるだけだったのだが。
「なに、早いね。そんなに待ちきれなかったのかい?」
「はい」
素直に佐代は頷く。志紀はそれに目を丸くすると、ぽつりと呟いた。
「全く、誰かさんにも見習わせたいものだねえ」
「え?」
「いや、こっちの話さ。さあ、今からあたしの家に行くよ」
「はい」
松樹の家を出、川や畑以外の場所へ行くのは、佐代にとって初めてのことだった。松樹には特に禁ずるようなことは何も言われていないが、それでも彼女は元来大人しく、畑や川の往復以外行うことは、何だか悪いことのように思えており、散歩にも出かけることは無かった。松樹にも、今回の出征は秘密だった。こっそり志紀に料理を習い、その腕で彼を今度こそ唸らすことができれば、というのが目下佐代の目標だった。
せめて、ひと月後、私が都に戻るまで。
それまでには、人並みの料理の腕を持ちたいものだと、佐代は切に願った。
村に近づくにつれ、子供のはしゃぐ声で騒がしくなってきた。畑仕事をする大人にちょっかいを掛けたり、子供同士で追いかけっこをしたり。いつかの佐代の故郷にいるようで、彼女は眩しそうに目を細めた。
「こっちに来るのは初めてなんだろう?」
「――は、はい」
「というか、すっかり忘れていたけど、あんたを着替えさせたの、あたしなんだよね。川で溺れたらしくって、気を失ってたあの時さ」
「え? そうなんですか?」
「そうそう。松樹がのそのそやって来て、ちょっと手伝って欲しいと。あの子の家に行ったらびっくりしたよ。あの掘立小屋に似ても似つかない女の子がいたんだから」
「あの……その節はありがとうございました。松樹さんにも、志紀さんにもご迷惑をおかけしてしまって……」
「ああ、別に気にするこたないよ。ああいう時はお互い様さね」
佐代が見慣れないのか、村の奥へ進むたびに、人々の視線が突き刺さった。佐代はどこか不思議な感覚を味わう。何か、大切なことを忘れているような――そんな感覚。が、すぐに居心地が悪いせいだろうと当たりを付け、深く考えるようなことはしなかった。
「でもどうして川で溺れていたんだい? 松樹は上流から溺れて来たんじゃないかって言ってたけど」
「え……っと」
佐代は視線を泳がせ、口ごもった。しかしそれも一瞬のことだった。
「家族と旅行をしていたんですけど、都へ帰る途中、野盗に襲われてしまって……。逃げる途中、足を滑らせて崖から落ちてしまったんです」
「あら……それは大変だったねえ。それならご家族が心配だね」
「はい。金品を奪うことだけが目的の様だったので、無事だとは思うんですけど」
表情を変えず、ポンと嘘を吐くことがこんなにも簡単だとは。
何となく申し訳ない思いを抱きながらも、巫女だと勘付かれるわけにはいかないので、佐代も必死だった。
「参ったねえ。じゃあすぐにでも都に帰って家族の無事を確かめたいのに、これからひと月も馬車を待たないといけない訳だ。悪いね」
「い……いえいえ! むしろ、こんな私にも良くしていただいて、感謝の言葉もありません……! 松樹さんには寝床を貸していただき、志紀さんにはお料理を教えて頂いて……。本当にありがとうございます」
「そんなに気にすることないって。どうせあたしは暇だし。松樹だって、一人暮らし――ああ、いや……同居人が増えて嬉しいだろうよ。一人で食べるご飯は美味しくないからね」
「そう……でしょうか」
その割には、いつも松樹は不機嫌そうだ。むしろ、さっさとひと月経って、佐代が都に帰ることを望んでいるかのように。
「おい、志紀。一体どこに行っていたんだ。今日の昼飯は何だ?」
唐突に、後ろから声がかかった。志紀が嫌そうに顔だけを向ける。佐代も体を捻ってそちらを見る。見上げるほどの大男だった。
「ああ? 何言ってんだ。かまどの上に置いてあっただろう」
「かまど? そんなところにあったのか。気づかなかったぞ」
佐代は戦慄した。ゆっくり大男から視線を逸らす。
「あんたは子供か! 人に聞く前に自分のことは自分でやんな。……あと、あたしたちは今から料理に専念するから、邪魔すんじゃないよ。昼飯食べたらさっさと仕事に行きな!」
「ったく……ひでー言い草だな」
「こんな時間まで寝てたやつがよく言うよ」
「仕方ねーだろ。昨日は連れと飲んでたんだから」
ゆっくりと大男の視線が佐代に向く。彼女は更に縮こまった。
「――で? この子は一旦何なんだ?」
「松樹に拾われた子さ。今からあたしが料理を教えるんだ。
「拾われた?」
大男の視線が上から下へと、佐代の身体を這う。佐代はぎゅっと目を瞑る。つい先日の光景が、走馬灯のようにして甦った。無意識のうちにガタガタと震えた。
『この村に、何しに来た』
『お前の雨のせいで、この村は散々たる現状だ』
『ただの村娘が、雨なんて降らせられるわけがない!』
目の前の大男は、あの時あの村で、佐代を糾弾した男だった。
全てが繋がった。この村は、数日前、佐代達が訪れたばかりのあの村だった。
どうして気づかなかったんだろう!
佐代は自分で自分が情けなかった。よく考えればすぐに分かることだったのに。
もともと、この村――千世村は山の麓にあった。佐代が落ちたのは、その山の崖から。川を流れて助けられたのなら、当然その川の近くに千世村があるのは明白だ。
助けてもらった相手が、松樹一人であったことに加え、周りには全くと言っていいほど人の気配が無かったから気づかなかった。
佐代は怯えながら一歩後ずさる。
自分のせいで千世村が被害を受けたことへの罪悪感、そして巫女であると勘付かれたら自分はどうなるのかという恐怖。二つの思いが拮抗していた。自分が悪いのは分かっている。全て、雨を降らせることができないせいだ。だがもし。――もし巫女であることを気づかれてしまったら、どうなるのだろう。
厳罰……殺されたり、するのだろうか。もしかしたら、巫女を匿ったとして、松樹にも矛先が向くかもしれない。
どんどん悪い方へ思考が転がって行き、佐代の顔色は次第に悪くなっていく。そんな彼女を見て、どうしたものかと驚いたのは志紀と大男の方だった。
「お、おい。一体どうしたんだ嬢ちゃん」
「可哀想に。怯えてるじゃないか」
「失礼だな、何に怯えるって言うんだよ!」
「あんたのその熊みたいな風貌にだよ」
大男は、む、と額に皺を寄せた。その表情がまた恐ろしく、佐代はさらに顔を青くする。困り切った志紀が、彼女の前にしゃがみこんだ。
「ごめんね? この人、見た目はこんなだけど、別にあんたを取って食ったりしないしさ」
「あ……の、いえ、そういう訳ではなくて……」
「あの人、見た目に寄らず子供好きでね? ま、暇だったら相手してくれるとこっちも助かるわ」
「…………」
大男は黙って佐代と志紀とのやり取りを見つめている。やがて、ぽりぽりと頬をかくと、気まずそうに背を向けた。
「……悪かったな。別に怖がらせるつもりはなかったんだが」
「――あっ」
「じゃあ俺は仕事に行ってくる。昼餉を食べてる時間もないだろうしなあ」
「頑張って働いてくるんだよ!」
志紀の大きな声援に、大男は背中越しにひらひら手を振りながら去って行った。その背中からは何とも言えない哀愁が漂っているような気がして、佐代は悪いことをしたと胸が締め付けられた。
「……じゃ、あたしたちも料理を始めますか!」
「……はい」
うじうじといつまでも暗い気持ちを持て余しながら、佐代は黙って志紀の後をついて行く。その際に、きょろきょろと辺りを見渡すことも忘れない。
何もかもが物珍しく、ここへ来た時には気づかなかったが。
よく見れば、遠くでカンカン金槌を叩く音がしている。
畑仕事をしている者もいれば、材木を抱えている。
泥を運んだり、砂利を運んだりしている者もいた。
視線を更に遠くへやれば、山のふもとの方で、家が立ち並んでいる一か所において、山から土砂が侵入している所がある。さすがにもう撤去されたのか、家らしい廃墟はなかったが、それでも数か月経つ今でも、そこだけが異色を放っている。
心臓をギュッとつかまれる思いだった。
実際に目にしたのは初めてだった。自分が引き起こした、大雨の惨状を。
想像はした。悲嘆にも暮れた。どうして止めることができなかったのか、と自分を責めもした。が、これほどまでとは、思わなかった。
私の認識が甘かったのだ、と佐代は改めて思い詰めていた。