13:川遊び


 近ごろ、志紀の特訓のおかげで、料理の腕が上がってきていると、佐代も自負していた。松樹も、決して言葉にはしないが、食べ終わった後の顔は満足そうだ。今日もきっちりお弁当を全て食べ終え、最後の水も飲み干した。

「水はもう無いのか?」
「はい、すみません。酌んできましょうか?」
「いや、いい。それにしても今日はいつにも増して暑いな……」

 松樹が鬱陶しそうに空を見上げだ。佐代も頷く。ここへ来るだけでも、たくさんの汗をかいてしまった。

「そうですね。でもそういえばここに来る途中、川で水遊びしている子供たちを見かけました。随分涼しそうでしたよ」
「あいつらはいつも水遊びだな……。他にやることは無いのか」

 子供に何を求めているんだろう、と佐代は苦笑しながらも何も言わない。

「松樹さんも混ぜでもらったらどうですか?」
「はあ?」
「ずっと働きっぱなしでお疲れでしょう。川で涼んで行ったらどうですか?」
「絶対に行かない」

 松樹の態度は釣れない。良い案だと思っていた佐代はすっかりしょげた。

「お前も川には近づくなよ。あいつら、大人だろうと女だろうと容赦ないからな……」
「はい……? どういうことですか?」
「別に……」

 言葉を濁し、松樹は汗を拭う。基本的に彼は無口だった。しばらく待ってみても何も答えてくれないので、佐代はため息をついた。

「でもお茶碗洗いたいですし。洗濯物もしたいです」
「ったく……」
「何ですか?」

 何か言いたげに視線を寄越すだけで、松樹は何も答えない。と思ったら、彼は唐突に立ち上がった。

「俺も行こう。少し休憩だ」
「……行くんですか?」
「悪いか?」
「いえ、別に……」

 どういう風の吹き回しだ、と思ったが、松樹がさっさと歩き出したので、慌てて佐代も後を追う。彼の歩幅は大きい。ついて行くだけで精いっぱいだった。

 川へ近づくにつれ、数人の子供たちの笑い声が耳に入って来た。佐代も思わず頬を緩ませる。故郷の村でも神殿でも、あまり子供と接する機会はなかったが、見ている分には、何だか楽しくなってくるような力が彼らにはあった。

 二人して土手に立つと、好奇心旺盛な子供たちの視線が一斉にこちらに向いた。

「あ、松樹だ」
「松樹じゃん」
「女連れだ」
「女連れてる」

 これまた一斉に話し出しながら、彼らは何がおかしいのか、笑い転げ始めた。人気……者なのだろうか、と奇妙な顔で佐代は松樹を見上げた。彼は不機嫌そうな顔をしていた。

「何か文句あるのか?」
「べっつにー。ただ生意気してるなって」
「生意気なのはお前らの方だろうが!」
「あはは、松樹が怒ったー!」

 土手を降り、河原へと立つ松樹に、子供たちははしゃいで水をかける。松樹は相変わらずうんざりとした表情だ。

「お前らな……俺は遊びに来たんじゃないんだ」
「じゃあ何しに来たんだよ」
「休憩だ」
「やっぱり遊びに来たんじゃん」
「言い訳すんな! だっせーぞー!」

 子供とギャーギャー言い合う松樹が、何だか子供の様に見えてきて、佐代は思わず噴き出した。――と、彼の後ろに、何だかものすごく悪そうな顔をしている子供が目に映った。彼はこっそりこっそり松樹に忍び寄ると、唐突に彼の背中を押した。川のすぐ近くで油断していた松樹は、もちろん受け身をとる間もなく、頭から川の中へと落ちていった。一瞬遅れて盛大に水しぶきが上がり、子供たちも一斉にげらげら笑いだした。

「だっ、大丈夫ですか……!?」
 さすがの佐代も心配になり、土手を駆け下りた。川幅の広い川だとはいえ、ここは子供の膝程の高さしかない。大人の松樹が飛び込んで、どこか怪我でもしていないかと心配だった。

「くっ……お前ら、な……」
 ゆらっと立ち上がる松樹は、子供たちを睨み付けながらも、鼻を片手で押されている。少年はニヤリと笑った。

「松樹、鼻に水が入ったのか?」
「ちっ……」
「あはは、だっせーの! 餓鬼かよ」
「お前らが急に押してくるからだろ!」
「言い訳すんなよ」
「はあ!?」

 佐代はポカンと彼らの様子を見ていた。何だか拍子抜けした気分だった。あの無口な松樹が、ただの子供に見える。

「だからこんな所来るの嫌だったんだ……」
 がっくりと肩を落としながら上がってくる松樹に、佐代は曖昧に笑みを浮かべる。ほんの少し、松樹が楽しそうに見えると言ったら、彼は怒るだろうか。

「私、お茶碗洗ってきますね。松樹さんはどうぞ遊ん――休憩していてください」
「おい、嫌な言い間違えをするな」
「ほらほら、子供たちもお待ちかねですよ」
「絶対に面白がってるだろ……」

 面倒見がいいのか、はたまた単に水遊びがしたいのか分からないが、ぶつぶつ言いながらも松樹は少年たちの方へと向かっていった。佐代はそれを見送ると、お茶碗を洗うために河原に膝をついた。

 しばらく熱心に洗っていると、はしゃぎまわるのに疲れたのだろうか、一人の少年が佐代に興味を示してやって来た。

「ねーちゃん、誰?」
「え?」

 彼の直球な質問に、佐代は苦笑した。

「佐代です。川で溺れていたところを、松樹さんに助けていただいて」
「佐代、泳げないの?」
「う……ん、多分泳げないかな? 私、山育ちだから」
「ふーん……」

 そもそも、こんなに大きな川を見たこと自体初めてだった。佐代の村では、もっぱら飲み水は井戸から汲んでいたし、川もあるにはあったが、川幅が狭く、非常に浅かったので、泳ぐことなど到底できなかった。

 これほど大きな川であれば、夏に川遊びするのはさぞ楽しいのだろうと、佐代は茶碗を洗う手を休め、松樹たちを眺めた。彼らは服が濡れるのもお構いなしに、非常に無邪気な様子で走り回っていた。その時の佐代は、すっかり先ほどの少年から意識が離れている。そのことは少年も気づいていた。にんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべると、容赦なく佐代の背中を押す。

「――っ!?」
 重心が前にあったことと、彼女自身の体重が軽かったことが災いして、佐代は声を挙げる間もなくそのまま川へ頭からドボンと落ちた。盛大な水しぶきとともに、少年の甲高い笑い声が上がった。

「泳げないなら特訓だ! 佐代、俺が泳ぎを教えてやるよ!」
 あはは、と少年は高らかに笑う。口にも鼻にも耳にも水が入り込んできた佐代としては、憎たらしくって仕様がない。幸い、川自体は浅かったので、溺れることは無かったが、それでも被害はひどいものだ。子供にしてやられる松樹のことは可愛いと思っていたが、いざ自分がやられる立場になると考えものだと佐代は憤慨した。

 と、不意に誰かに強く腕を引かれた。身体に力が入っていなかったので、咄嗟のことに頭が回らない。焦点の合わない視線を上にあげると、今まで見たことがないくらいに必死な顔をした松樹が目に入った。

「おい、大丈夫か!?」
「は……はい」

 取り繕う言葉もなく、佐代はただ頷いた。どうしてそんなに必死なのか、とは聞けなかった。必死さの裏に、どこか哀しみのようなものも感じた。

「心配させるな」
「す、すみません……」

 それだけ言うと、松樹は再びぶっきらぼうに背を向けた。何が何だか分からなくて、佐代はしゅんと顔を俯かせる。

「松樹が女泣かせたー」
 しかし途端に入る野次。

「泣かせてない!」
 松樹は強く言い返すが、先ほどまでの勢いはない。何だか申し訳なくなってきて、佐代は更に縮こまった。

「おい、お前はもう帰れ。風邪ひくぞ」
「は、はい。でも松樹さんは?」
「俺はこのままでいい。この方が涼しいしな。家に帰ったらすぐ着替えろよ」
「はい……」

 松樹は一度も佐代の方を振り返らずに、自身の服を軽く絞ると、ばしゃばしゃと音を立てて川から上がった。少年たちは残念そうな声を上げる。

「えー、松樹、もう帰るの?」
「つまんねーの」
「生憎だか、俺にも仕事があるんでな」
「松樹、じゃあなー」
「また遊んでやってもいいぜ」
「二度と来るか!」

 相変わらずの減らず口に、松樹はついに怒鳴り返した。蜘蛛の子を散らすように少年たちは走っていくが、それでも楽しそうだ。
 何となく疎外感を感じながら、佐代も服を絞ると、静かに川から上がった。