08:似合いそう
昨晩いつも以上に夜更かしをしたせいで、翌日のシンディはいつにもまして寝過ごしていた。が、その後の行動は、いつもと違っていた。そして、やる気に満ち溢れてもいる。
「……どうしたんですか? シンディ様。そんな恰好なされて。もしかしてお出掛けでも?」
「はい! 少し……買い物をしたくて」
はにかむシンディの表情からは、以前までの消極的な態度は全く見られない。ヘレンは目を丸くした。
「珍しいですねえ、お嬢様が家をお出になるなんて」
「はい……少し、心境の変化があって……」
言葉を濁したものの、今回に限って言えば、単に外出しなければならない事態になってしまっただけだ。
ウサギのシロを飼うとなれば。
今までのように急ごしらえの寝床やエサでは長い間もつことはないだろうし、シンディはウサギ好きではあるものの、その飼い方についてはあまり良く知らない。図書館へ行ってウサギの飼い方について学ばなければ、と一人熱く燃えたぎっていた。
「私もついていきましょうかねえ?」
「い……いえ! 大丈夫です。その、一人でちょっと買い物をする程度なので……あ、図書館にも寄りたいなって」
「まあ、いろんなところに行かれるんですねえ。夕方までには戻って来てくださいな。私も心配ですから」
「はい、もちろんそのつもりです。……あの、あとそれで……少し買い物をしたいんです。だから……」
シンディの拙い言葉でも理解したのか、ヘレンは大らかに頷いた。
「ああ、もちろんよろしいですよ。奥様からお嬢様のお金を預かっていますからねえ」
はい、と手渡された財布は、意外にもずっしりと重かった。シンディは目を白黒とさせる。
「え……ええ? こんなに……?」
「はい。毎月頂いてますから、いつの間にかそんな量に……。自由にお使いくださいね。お嬢様が外出なさるようになられたこと、奥様にご報告したらきっと喜ばれますわあ」
「……そうだといいんですけど。行ってきます」
穏やかに微笑むと、シンディは身を翻して家を出た。背中にヘレンの不思議そうな視線が突き刺さるのを感じたが、シンディがそれに応えることは無かった。
丁度人の多い時間帯なのか、往来は人ごみでごった返していた。シンディは僅かに顔色を悪くすると、迷うことなく裏道を進むことにする。あの人の波の中を歩く自信はなかった。
久しぶりの陽光は、少々眩しく、そして熱く感じられたが、それでもシンディの心は晴れ晴れとしていた。もともと外を歩くことは嫌いではない。外に行けば男性がいる、ということで外出は勇気が出なかったが、社交界復帰も兼ねて、少しくらいなら歩いてもいいかもしれない、とシンディは密かに思った。
シンディはまず、図書館へ向かうことにした。たくさんのウサギ用品の買い物をした後で図書館へ向かうのは至難の技だろうし、もともと返さなくてはならない本もあるので、荷物としては変化がない。それに、久しぶりの外出なので、図書館という落ち着いた場所の空気も必要だった。
王立の図書館は、広く、落ちついた空間だ。シンディも、以前はよく訪れていた。たくさんの本を借りるには最適の場所だったし、何より煩わしい俗世のことを忘れることができた。
シンディは、吟味に吟味を重ね、四冊の本を選んだ。そのうちの二冊はウサギについての本で、シンディは早くも家に帰ってその本を読みありたくて仕方がなかった。
ウサギを飼うためにはどのようなものが必要なのか、ウサギは何を食べるのか、ウサギに懐かれるにはどうしたらいいのか……。
もう一週間以上シロと共にいるが、シロはなかなかシンディに懐こうとしなかった。餌を置いてシロの名を呼んでみても、耳をヒクヒクとさせるだけで、一向にやって来ないのだ。撫でることができたのも、シロが初めてやって来た日と、ようやく捕まえることができた昨日のみだ。そうなってくると、さすがのシンディも悲しくなってくる。
この後はウサギ用品を買わなくては、と意気込むシンディは、すぐにカウンターへやって来た。貸し出しの手続きは至って簡単なもので、身分証明書を差し出すだけで、後は職員の者がそれをカードにメモしてくれる。しかし問題は……その職員だった。
カウンターは二つあり、一つは女性、一つは男性が本の貸し出しをしていた。シンディはしばらく迷った後、顔を俯けながら女性の方へ向かう。幾度となく繰り返した行為だが、どうしても踏ん切りがつかない。
シンディの前には、二、三人並んでいたが、滞りなく進んだ。しかし後一人、というところで、問題が発生したらしい。
「ええ? どういうこと?」
「……すみません。資料が見つからなくて……」
「もう、ちゃんと昨日言っておいたわよね? 資料の場所」
「……すみません」
「分かった分かった。すぐに行くから少し待っていて。ここ、よろしくね」
そう言って女性は立ち上がると、さっさと奥へ姿を消してしまった。当然、シンディの本を貸し出してくれる職員の者がいないので、横の男性に呼ばれる。
「申し訳ありません、こちらでお伺いします」
「あ……」
シンディは戸惑いながらもそちらへ向かう。男性のにこやかな視線が痛い。
「お待たせしました。貸し出しですね? 四冊でよろしいでしょうか」
男性の視線がシンディを向く。途端にシンディの身体は強張る。
「あ……」
言葉が出てこなかった。ただ吐息だけが口から漏れだす。早くしなければ、という焦燥感も相まって、さらに赤面する。
「お客様?」
不審そうな視線が向けられる。シンディは声もなく、ただ何度も頷いた。
「――では貸出期間は二週間となります。ご利用ありがとうございました」
至って機械的なやりとりだ。緊張するところなど一つもないのに、どうしてこんなにも。
シンディは図書館を出ると、ホーッと長い息を吐き出した。
「……嫌だなあ」
シンディは思わず呟く。いつまで経っても自分に成長が無いところも、直面している現実から逃げている自分自身にも。
「あ……でもこの後まだ買い物があったんだ……」
憂鬱そうにシンディはため息をつくと、再び裏道に足を踏み出した。久しぶりのお出かけに始めは心躍らせていたものの、今やすっかりその気持ちも萎んでしまっていた。
*****
足取り重くシンディが次に向かったのは、愛玩動物用用品がそろえられている店だ。ガラス窓越しにじいっと中を覗き、男性がいないか確かめる。幸いなことに、店員も女性のようだった。シンディはホッと息をつき、朗らかな表情で店の中へ入った。
店内には、動物用用品だけでなく、猫や犬、鳥やウサギなど、様々な動物がケージで飼われていた。
シンディはついウサギがたくさんいる方へ釣られそうになったが、その前に、女性店員がやってくる。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
男性とは違う、柔らかく優しい声。
シンディはパッと顔を上げた。
「はい、あの……最近ウサギを飼い始めたんですけど、道具をそろえたいと思って」
「ケージや餌などでしょうか?」
「はい。今は部屋で放し飼いをしているんです。でも、それだといつ部屋から逃げてしまうか分からなくて、ケージで飼いたいなと思っています。ご飯も人参くらいしか用意できてなくて、他にはどんなものを用意したらいいのかお聞きしたくて」
「そうですね」
動物たちの空間から離れ、女性は用品が揃う空間へ向かった。
「ウサギは草食ですが、やはり栄養面などを考えると、バランスの良い食事が望ましいです。人参や他の野菜、牧草や果物なども与えた方が良いですね。ウサギのケージとしては、大きめの鳥かごほどか、もう少し大きめでも大丈夫です。床材にもいくつか種類がありますが、おすすめはこちらですね。掃除もしやすくて、持ち運びもしやすいですよ」
流れるような説明が続く。シンディは彼女の説明に合わせて、次々と商品に視線を合わせていくが、正直なところ、見た目ではあまり違いが分からない。
「あの……おすすめのものをお願いします。他にもそろえた方が良いものはありますか?」
「トイレや給水器なども必需品ですね。後はおもちゃなども」
「おもちゃ?」
「はい」
途端にシンディの表情が輝く。その響きから言って、もしかしてウサギと一緒に遊べる物なのではないか、と。
「こちらのかじり木なんかが人気ですよ。歯が伸びすぎるのを防止したり、ストレス解消にもいいので」
「じゃあそれもお願いします。でも、あの……」
言いにくそうにシンディは口ごもる。女性は首を傾げた。
「どうかなさいました?」
「えっと……一緒に遊べるおもちゃってありますか? 普段は一人ではしゃいでることが多くて」
一週間も経つのに、未だになれてくれないことが、シンディにとっては気がかりだった。頭を撫でさせてくれないかと時折様子を窺うのだが、手が触れそうになると、途端に逃げてしまう。せめておもちゃがあれば、懐いてくれそうなものだと思ったのだが。
「すみません……飼い主の方と一緒に遊べるようなものはここには置いてません。申し訳ありません」
「あ、そうですか……」
「なかなか人に慣れないウサギもいますから、焦らないことですよ。一日に一回は部屋で放し飼いするようにして、しばらく様子を見てみるとか」
「そう、ですね。そうしてみます」
シンディはおずおすと頷いた。ウサギについての本も借りたことだし、まだまだ仲良くなるための方法が分かるかもしれないと密かに意気込んだ。
「では、餌とケージ、トイレ、給水器、かじり木の五点でよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
なかなかの大荷物だが、シロのことを思うと、胸は躍る。特にかじり木というらしいおもちゃ。喜んでくれるだろうかと、もうすでにシンディの胸は躍っていた。
「ウサギの名前、お聞きしてもよろしいですか?」
カウンターで一通りの飼育用品を袋に詰めながら、女性は優しく問うた。
「シロです」
シンディが自信満々にそう口にするのとは対照的に、女性は素っ頓狂な顔をした。
「シロちゃんですか?」
「はい。毛並みがすごく真っ白なので、シロって名付けました」
「そうなんですか……」
戸惑ったような顔の女性だったが、やがて、ハッとしたように顔を上げた。
「もしかして、それって男性からの贈り物ですか?」
「えっ」
図星、とでもいうのだろうか。しかし、確かにあのウサギは、男性からの贈り物ではある。
戸惑って目線を泳がせるシンディの脳裏に浮かび上がったのは、手紙の主のことではなく、届け人デリックのことだった。仕事の一環として彼がウサギを贈ってくれたというのは分かっている。そもそも、そのウサギすら、元は依頼人からの頼みごとだ。その中に、彼の意志は全くないのだ。何を戸惑う必要があるの――。
「そうなんですね、そうだと思いました!」
しかし、シンディの反応に女性は勘違いしたらしく、パッと笑顔を咲かせた。
「じゃあもしかして、この前の届け人さんでしょうか」
「えっ」
シンディの心臓は跳ねた。まさかここでその言葉が出てくるとは。
「やっぱりそうなんですね。一週間くらい前でしたでしょうか、届け人の格好をした男の子がやって来られて、白いウサギを買っていったんですよ。もしかしてと思って」
「あ……えっと」
どう答えたものか、とシンディは視線を落とした。だが、嬉しそうに話す女性の話を遮るのも申し訳ない。
シンディがあたふたしていると、女性は別の話題を振ってくれた。
「あのウサギ――シロちゃん、よく動き回って手を焼いてらっしゃるでしょう? なかなかやんちゃな子で」
「ああ……はい。よく部屋の中を走り回ったり」
「なんとなく想像がつきます」
和やかになってきたところで、商品は包み終わったらしい。女性は顔を上げて微笑んだ。
「お待たせいたしました。店の前までお持ちいたします」
「あ、ありがとうございます」
女性がカウンターから出てきた。そのまま店の外へ出るかと思いきや、彼女は何か思い至ったようで、再び動物たちの方へ移動した。
「――ちょっと他のウサギたちも見ていきませんか?」
「え?」
「あ、ほら、この子です」
そう言って指さす彼女の先には、耳が垂れた子ウサギがいる。クリーム色の毛並みで、つぶらな瞳が非常にかわいらしい。
「最近ではこの子が人気なんですよ。ほら、耳が垂れ下がっていて可愛いでしょう?」
「本当ですね……。可愛い」
思わずシンディはそう漏らした。もう十日ほど面倒を見ている身としては、うちのシロの方が可愛い! と言い切れるのだが、しかしそれとこれとは別にして、可愛いものは可愛いのだ。
「ですよね! でもその届け人の方、この子よりもあの白いウサギの方がいいって言うんですよ。女性には耳が垂れたウサギが人気ですよって一応申し上げたんですけれど、それでも白いウサギがいいって。その後なんておっしゃったと思います?」
悪戯っぽい目つきで女性がシンディを見上げる。シンディはきょとんとして尋ねた。
「なんて……?」
「白が似合いそうだからって」
「えっ」
シンディはそう小さく漏らしたが、女性はもうそれには反応せず、にこにことウサギを眺めていた。シンディの方はというと、徐々に、ゆっくりと彼女の言葉の意味を理解し始めていた頃だった。
「お引き留めしてすみませんでした」
女性は立ち上がると、商品を持って店の前までシンディを見送りに来てくれた。シンディにそれを手渡しながら、彼女はゆっくり言う。
「今日、お客様とお話ししてなんとなく分かりました。確かに、お客様には白が似合いそうだなあって」
「そ、うですか……?」
「はい。どうぞまた来てくださいね」
店の前で頭を下げる女性に、シンディもまた頭を下げた。
前を向いて歩きながら、ゆっくりと先ほどの女性の言葉を反芻する。
――白が似合いそうだからって。
他意はなかったのかもしれない。無意識のうちに出てきた言葉なのかもしれない。それでも。
なんとなく帰り道の足取りが軽やかになったのは、シンディの方も無意識だったのかもしれない。