07:残り香


 シンディは非常に焦っていた。
 今日でちょうど一週間。ウサギをデリックに返さなければならない日である。にもかかわらず、彼女はすばしっこい白ウサギを捕まえられずにいた。
 途中、何度もヘレンやカリーナに手伝ってもらうことも考えたが、どうしてウサギがここにいるのかという話題に移ることを恐れ、今の今まで言い出せずにいた。
 コンコン、と窓を叩く音が響き渡る。ビクッと肩を揺らし、ゆっくりと振り返ったが、やはりそこには届け人デリックの姿があった。
「…………」
 無言で彼はシンディの方を見やる。
 シンディを見つめる彼の瞳は、呆れているようにも見える。シンディが膝をついて寝台の下を覗き込んでいることから、未だウサギを捕まえられずにいることを容易に察したのだろう。否定できないのが悲しい所だ。
 おずおずとシンディは彼に近寄り、窓を開けた。途端に肌寒い夜気が肌に触れ、彼女は身震いをしたが、窓を閉めることはなかった。謝罪をするのに、窓を隔てているは相手に失礼だ。
「あの……すみません。見ての通り、まだ捕まえられなくて」
「一度も? 一週間もあったのに?」
「――はい」
「エサで釣ってみたら?」
「何度もやってるんです。人参を置いて、少し離れた場所で見守ってみるんですけど……いつも私が目を離した隙に取って行ってしまって」
「どんくさいな……」
 デリックは思わず呟いた。シンディは更に身を縮こまらせる。すっかりデリックからは敬語が抜け落ち、更には届け人と顧客という立場も逆転していたが、二人は全くそのことに思い至らなかった。
「依頼人から返事の催促が来てるんだけど。どうする」
「あ……の」
 視線をゆっくり上げる。もう決心はしていた。
「あの……こんなことお願いするのは本当に申し訳ないんですけど……捕まえてくれませんか?」
「は……俺が?」
「はい」
 そしてシンディは再び視線を下げる。
 男の人を部屋に、それも夜に入れるなんて、自分でもどうかしていると思う。だが、それ以上に早くウサギを捕まえ、そして依頼人に返さなければ、相手の思い通りになってしまうのではないか。ただそのことだけがシンディにとって気がかりだった。見も知らない手紙の向こうの男よりは、目の前の――多少気心が知れている相手の方が、まだ大丈夫だと思った。
「いや……でも君」
「私、何としてでもウサギは相手の方に返したくて。中途半端に接するのも失礼だと思いますし」
「……ちょっと分かった。じゃあ今から入るから、ちょっと離れてて」
「はい」
 しっかり頷くと、シンディは部屋の隅にまで移動した。いくら慣れている相手とはいえ、今からすぐ側に男性がやって来るのだ。大丈夫だと心を落ち着かせてみても、心配なものは心配だった。
 冷たい夜風とともに、デリックはシンディの部屋に入って来た。どこか浮世離れした光景だった。僅かな月光を背景に、短い黒髪をなびかせて少年が降り立つ。
「今ウサギは?」
 デリックの視線が自分に向いたので、シンディは慌てて視線を下に這わせる。
「たぶん……寝台の下だと思うんですけど」
 その言葉に、デリックは地面に膝をつき、寝台の下を覗き込んだ。
「暗いな」
「灯りを持ってきましょうか?」
「あ! いや、いい。そっちに行ったから捕まえて」
「え……どっ、どこ――」
「ほら! 君の足元!」
「きゃっ……踏みっ――あっ!」
 駆けまわるウサギを思わず踏みそうになるのを、シンディはすんでのところで堪えた。寝台にボスンと倒れこみながらも、彼女はウサギから目を離さない。
「あ! 今度は机の下に行きました! そこの……椅子の脚に!」
「すばしっこいな!」
「あっ……あ、また踏みそ――」
「君はまた何をやってるんだ! いい加減邪魔だからそこでじっとしておいてくれ!」
「え……え!? で、でも――」
「あのー、お嬢様?」
「えっ……あっ!」
 ヘレンの声だった。シンディとデリックは思わず固まる。すっかり忘れていたが、シンディの部屋のすぐ下にはヘレンの寝室があった。いくらヘレンの耳が遠いからといって、この騒ぎに気付かないわけがない。
「お嬢様? 何か騒がしいようですが、何かあったんですか?」
「ば……婆や、あの、いえ、ちょっと――」
 適当に言い訳を繕いたいが、うまい考えが思い浮かばない。
 デリックの方ももちろん焦っていた。妙齢の女性の部屋に侵入した男、などという噂は立てられたくないし、立てられたが最後、きっと届け人の称号も剥奪されてしまうことだろう。
「こっち! ここへ!」
 シンディは必死でデリックに呼びかけた。言い訳よりも、取りあえずデリックを隠す方が先決だと思った。今から窓の外へ出るのは時間がかかりすぎる。シンディはとりあえず毛布の下にデリックを放り込み、その膨らみを隠すように寝台に寝そべった。
「入りますよ?」
「あ……はい、どうぞ」
 心臓が早鐘の様に高鳴る。ヘレンの不審そうな視線がシンディから部屋の中へと行ったり来たりする。彼女の視線はシンディの部屋の中で唯一の窓で止まった。
「こんなに寒いのに窓を開けておられたんですか? お風邪を召しますよ」
「あ……はい。ごめんなさい。ちょっと夜風に当たりたくて」
「それに今日はやけに騒がしかったですよ。一体何をなさってたんですか」
「あ……少し……その、運動をしていて。ごめんなさい、起こしてしまって。静かにするから」
「別に私は構いませんけど……。でも運動なら昼……それも外でしたらよいと思うんですけどねえ」
「そっ……そうよね、そう、私も思います。すみません」
 変な格好だとは思うが、シンディは寝台に寝そべりながら謝る。本当ならばしっかりと頭を下げたいところだが、すぐ近くにはデリックもいる。ここから離れるのは心許なかった。
「まあいいんですけど。じゃあお休みなさいませ」
「はい、おやすみなさい!」
 冷や汗を流しながらシンディはヘレンを見送る。彼女が最後の階段を降り切ったのを聞き届けると、ようやくほーっと長い息をついた。デリックも緊張が解けたような表情で顔を出す。
「危なかったな……。むしろよく運動なんて下手な言い訳でやり過ごせたものだ」
「婆や――ヘレンさん、耳が少し遠いんです。今までは平気でしたけど、もう少し静かにウサギを捕まえないといけませんね」
「どうすれば捕まえられるかなー……」
 デリックは宙を仰ぎ見て頬をポリポリと掻く。その様を何となく見ていたシンディは、途端に固まった。
「あの……」
「何だよ」
「いる……んですけど」
「はあ?」
「デリックさんのすぐ膝の上に……ウサギが」
「うわっ」
 突如膝の上に現れたウサギに驚いて叫ぶデリック。
 唐突に声を上げたデリックに驚いて走り出すウサギ。
「ひゃっ……!」
 突然両腕の中にウサギが飛び込んできて変な声を上げるシンディ。
「シロ!」
 シンディの顔は、途端に破顔した。始めに出会った時以来、全く触れずにいたウサギが、今この腕の中に。嬉しくないわけがなかった。
「見ました!? 今シロが私の腕に飛び込んで――!」
 満面の笑みのまま、シンディはデリックを見る。が、すぐに彼女の顔からみるみる色が失われていった。冷めたような視線のデリックと目が合ったからだ。
「……名前、付けてたのか」
「ちっ、違います! その……名前を付けたらこっちに来てくれるかなって、あの、それにご飯のときとか、不便かなって思って――!」
 言い訳のように聞こえるかもしれないが、全て事実だった。呼びかける時やご飯の時に、まさかおーいなんて呼べないし、だったら適当に名前を付けてみれば、と思って考えたのが『シロ』だった。毛並みが白いからシロ。シンディにして見ても、安直な名前だと思ったが、どうせ一週間という期限付きの名だ。むしろ凝る方がいざ離れる時に悲しくなるだろうと、そう思っての名づけだった。
 そう、確かにそう思っていた。いざ別れる時に、寂しくないよう、適当な名を。
「……シロ」
 だが、単純なこの名の響きがこんなにも離れがたくなるなんて、シンディは全く予想していなかった。
 シンディの寂しげな声に、手の中のフワフワした生き物は、ちょっと身を震わせると、鼻をくんくんと動かした。そんな些細な動作もシンディの胸は一杯になり、唇をぎゅっと噛みしめた。
 返さなければ、このウサギは……返さないと。
 それは分かっているのに、手が動かない。
 そんなシンディを見かねて、デリックははーっとため息をついた。
「その子と離れたくないって?」
「……はい」
「あーもう、分かったよ。俺もそんなに鬼じゃないから、そんな目で見ないで」
「え……?」
「だから、そのウサギ、君が気に入ったんならここに置いて行くって言ってんの」
「え……でも、そんなの」
 シンディは強く首を振った。有り難い申し出ではあるが、決してシンディには受け入れられないだけの理由がある。
「無理です。依頼人の方にはきちんとお断りを――」
「大丈夫だって。依頼人には何も言わないから。君がウサギを受け取ったこと」
「……?」
 いまいち話が分からず、シンディは首をかしげる。
「依頼人の人はここから結構離れたところに住んでいてね。だからウサギもこっちの街で買ってくれって言われた。だからそのウサギは俺が飼ったもの。もちろん金は相手もちなんだけど」
 シンディは黙って頷く。次第に話が見えてきて、彼女の顔は期待に輝く。
「まあつまり……君がそのウサギの代金を払ってくれれば、俺が依頼人にその金を返す。依頼人には君がウサギを受け取ってくれなかったとでも言えば良い。これで解決だろ?」
「……いいんですか?」
「上にバレたら俺もただじゃすまないだろうけど……まあ、君が黙っていてくれればバレるようなことでもないし。いいんじゃない」
「ありがとうございます……!」
 ぺこぺことシンディは頭を下げる。その際にウサギの円らな瞳と目が合い、頬を緩ませた。
「大事に……大切にします!」
「はいはい」
「あっ、お金……は、来週払う形で……? すみません、今あんまり持っていなくて」
「いいよ、それで。どうせ来週も来ることになりそうだし」
「……あんまり嬉しくはないんですけどね」
「俺も仕事だからね」
 デリックは欠伸を堪えながら身を翻した。いつの間にか、月は随分低い位置にまで移動していた。
「ありがとうございました!」
「はいはい」
 ひらひらと手をふるデリックを見送って、シンディはもう一度優しくウサギを抱き締める。フワフワとした毛が頬に当たり、少しこそばゆかったが、それでも嬉しかった。
「明日はちゃんとシロの家を作るからね!」
 シロにはどんな家が似合うのか。そもそもウサギにはどんな寝床を作らないといけないのか。
 分からないことだらけだったが、シンディはそれでも何もかもが新鮮で、そして楽しかった。その気持ちのまま、シンディは寝台に飛び込む。仄かにだが、僅かに温かいことに疑問を抱く。が、すぐに気付いた。デリックの体温だった。僅かな時間だったが、ヘレンの追求から逃れるため、この毛布の中に隠れていたのだった。
「外の……匂い」
 デリックを経由した夜の匂い。
 不思議と嫌な気持ちは抱かず、むしろその匂いが心地よく感じられ、シンディはすぐに穏やかな眠りに誘われていった。