39:暗闇の先


 その日、ブランドン家は朝から大騒ぎだった。シンディは侍女に叩き起こされ、アーヴィンはマレット家から駆けつけさせられ。
 ようやく居間に皆が集まったとき、険しい表情でテレーゼがテーブルの上に出したのは、一通の手紙だった。

「……これは?」
「開けてご覧なさい。あなた宛です」
「私?」

 シンディは、恐る恐る手紙を手に取った。確かに、表側にはシンディの名が書かれている。そして何気なく裏返したところで――シンディは固まった。

「こ、これ――」

 手に取っただけで分かる上質な紙とインク。そして他でもないアラン国の紋章の印鑑。
 シンディは血の気を失う想いだった。

「とにかく、今は早く開けてご覧なさい。私は気が気でなりません」
「は、はい」

 王家の紋章があるということは、王族からの手紙ということ。
 シンディは、震える手で手紙の封を切った。これまで王族との関わりなどないに等しかったのに、何事だというのか。
 手紙は定型的なものだった。すぐに読み終わると、シンディは顔を上げる。

「何て書かれてたの?」
「どなたからでした?」

 矢継ぎ早に尋ねられる。シンディは、手紙をテーブルに置くと、自身を落ち着けさせるため、一呼吸置いた。

「――フェリクス殿下からでした。もうすぐ舞踏会を開くので、ぜひ来て欲しい、と」
「…………」

 しばし呆気にとられたように、テレーゼとアーヴィンは言葉を失う。先に我に返ったのはテレーゼだった。

「殿下が舞踏会を開かれることは知っていましたが、どうして直接? いつの間に殿下と面識があったのですか?」
「先日の舞踏会で、一度ご挨拶を……」
「どんな話をしたのですか」
「え? ……特には、なにも」

 フェリクスとデリックが知り合いだっただけで、シンディはほとんどフェリクスとは話していない。しかし、テレーゼは何か勘違いをしているのか、ほうっと息を漏らした。

「そうですか……。もしかしたら、シンディのことがお気に召されたのかも。……シンディ、よくやりました」
「えっ?」
「そうと決まれば、早速張り切って準備をしなければ。――ウィリアム! いつもの仕立屋を読んでちょうだい!」
「かしこまりました、奥様」

 ウィリアムは一礼すると、すぐに居間を出ていった。それに慌てるのはシンディの方だ。なにやら事態がおかしな方に向かっている、と。

「ちょっ……お母様!? 私、フェリクス殿下とは本当に何もありませんでした。殿下も、きっと形式的に招待しただけだと……」
「今まで殿下が個人的に女性を誘うことなどありまして? シンディ、これは驚くべきことですよ。このことが社交界に広まったら、一気にまたあなたの名誉も元に戻ります。ああ、なんて素晴らしい!」

 シンディの声など聞こえない様子で、すっかりテレーゼは有頂天になっていた。シンディは慌てて兄に助けを求める。

「お兄様、どうしましょう」
「確かに僕も驚いたな……。シンディ、本当に殿下とは何もなかったのかい?」
「はい、もちろんです! そもそも、殿下とお知り合いだったのは、デリックさんの方だったんです。デリックさんとは、随分親しげな雰囲気を感じられましたけど。その関係もあって、デリックさんは今、殿下に頼まれた仕事をしていると伺いました」
「その時に一目惚れされたとか?」
「お兄様まで、そんなことおっしゃらないでください!」

 シンディは大きく叫んだ。ことが大きくなってきて、シンディは大いに慌てていた。フェリクスが自分に一目惚れなどと、そんなこと考えるだけで勘違いも甚だしい。彼はむしろ、自分よりもデリックの方に好意を持っていたような気がする。シンディと接点を持つため、わざわざ舞踏会に招待をするのなら、彼の目的は、デリックに関すること――。
 そこまで考えて、シンディは一気に血の気を失った。
 わざわざ直接会って話をする機会を設けるなどと、もしかして、デリックの身に何かあったのだろうか? デリックは、危険な仕事だと言っていた。その仕事を頼んだ身として、フェリクスが責任を感じているのだとしたら。せめてシンディに直接自身の口から説明しようとしているのだとしたら。

「シンディ、仕立屋と連絡がついたそうです。ほら、早く部屋にいらっしゃい。新しいドレスを新調しますよ」

 デリックが隣国へ行ってもう三ヶ月が経った。早くて一、二ヶ月と言っていたが、まだ任務は終わらないのだろうか。
 シンディは、嫌な予感がしてならなかった。


*****


 舞踏会の日は、あっという間にやってきた。着せ替え人形のように、母と侍女とに様々なドレスに着替えさせられ、結局決まったのは流行の最先端のものだ。デリックのことが気がかりなシンディはされるがままで、自分のドレスが何色かも定かではない状況だ。

「いいですか、シンディ。もしも殿下が来られたら、粗相のないように。今夜のあなたの言動次第で、ブランドン家の将来をも決まってしまいますからね」
「わ、分かっています」
「いいえ、分かっていません。あなたという人は、あれからずっと上の空ではありませんか。目の前のことに集中なさい。くれぐれも粗相のないように!」

 馬車の移動中、テレーゼからは耳にたこができるほど似たようなことを何度も繰り返し言われた。
 殿下に粗相のないように、あわよくば気に入られるように、愛想良く、せめて嫌われないように。
 同乗しているアーヴィンも、口を挟めば自分にまで被害が及ぶと思ったのか、素知らぬ顔で窓の外を見ていた。シンディが恨めしげに彼に視線を送ってみても、彼はどこ吹く風だった。
 やがて馬車は王宮に到着し、三人は揃って馬車を降りる。以前と同じような段取りで会場入りし、王族に挨拶を済ませる。その際、フェリクスから視線を感じたのは、シンディの気のせいだろうか。
 ――前回の舞踏会から数ヶ月間をおいているが、人々はまだシンディのことに興味津々なのか、ブランドン家を尻目にひそひそ話をする者のなんと多いことか。
 皮肉なことだが、シンディはもはや、この視線の数々に絶えられるだけの度胸はつくようになっていた。いや、それもあるのだろうが、今はデリックのことが気がかりで、視線を気にする余裕などないといった方が的確か。
 舞踏会が始まり、兄と一回ダンスをしたところで、さあ役目は終わったとばかり、シンディは隅に移動する。
 物憂げな表情で庭の方へ視線をやるシンディに、今まさに自分へと向かって歩いてくる者の姿は目に入らない。

「踊っていただけませんか?」

 涼やかな声でそう誘われたとき、シンディはようやく気づいた。目の前の御仁と、加えて、こちらを驚愕の眼差しで見つめている人々の視線に。

「も、もちろんでございます。光栄至極に存じます」

 シンディは、震える手でフェリクスの手を取った。顔までは見るに至らず、彼の胸元のジャボを注視することしかできない。
 ダンスの間中、シンディは気が気でなかった。なぜフェリクスがという思いと共に、彼がこれから話すであろうことに、不安が募ってならない。

「浮かない顔だな」

 それを当の本人フェリクスに言い当てられ、シンディはすぐには応えられなかった。

「気がかりか?」
「え?」
「デリックのことが」
「あ……」
「あいつに仕事を頼んだのは私だ。隣国に行かせた」
「ご無事なんでしょうか」

 つい勢い込んで聞いてしまう。
 フェリクスは、表情を変えずに肩をすくめた。

「隣国に忍ばせた密偵とのやりとりを手伝ってもらう予定で――まあ、前にも一度似たようなことをやらせたから、心配はしてなかったんだが、予定外のことが起きてしまってな。怪我をしてしまったらしい」
「えっ……! 大丈夫なんですか!」
「もう傷は完治した。心配しているだろうから、とすぐに君の所に行こうとしたのを止めたのは私だ」
「……?」

 話の筋が見えなくて、シンディは混乱する。だが、もどかしいことに、曲は終わってしまった。ダンスが終わったにもかかわらず、いつまでもフェリクスを留めておくことなどできない。
 もの言いたげにチラチラと視線を送るシンディに、フェリクスは唇の端を緩めた。

「予想はしていたが……デリックは存外不器用でな。時間を取られた。その分、満足のいく出来にはなったが」

 困惑するシンディの手を取り、フェリクスは導くようにして歩みを進める。
 ――二人の一挙一動を食い入るように見つめていた舞踏会の招待客の方は、大いに慌てた。何せ、アラン国第一王子のフェリクスと、噂の火中である伯爵令嬢シンディが、皆の目の前で堂々と暗がりへ行こうとしているのだから。
 だが、フェリクスが足を止めたのはテラス席だった。そこに所在なげに座る一人の少年の元に、シンディを導く。

「デリックさん……」
「――久しぶり」

 照れた様子で目を細めるデリックの笑みは、懐かしくも眩しかった。