40:素直になること
「大丈夫なんですか! お怪我は!?」
思わずシンディが駆け寄れば、デリックは戸惑ったように一歩退く。彼が答えるよりも早く、フェリクスがからかうように笑った。
「ダンスをみっちり練習できるくらいには治っている。だろ?」
「え?」
怪我とダンスが、どう結びつくのだろうか。
いまいち言っている意味が分からず、シンディは首を傾げる。
「行ってこい。この日のために私は準備してきたんだからな」
「はい……」
ため息をつくデリックと、面白そうに二人を見つめるフェリクス。
なにが何だか分からずに、シンディは戸惑うばかりだ。デリックはそんな彼女に右手を差し出す。
「……踊ってくれませんか?」
「私と、ですか? でも、お怪我は?」
「もう大丈夫だから」
そうこうしている間にも、次の曲が緩やかに始まる。デリックはシンディの手を取ると、会場の広い場所まで歩いて行く。
「……嫌だな、ダンスなんて柄じゃないのに」
そう言いながらも、デリックのステップは、なかなか様になっている。始めは事態の把握が難しいシンディだったが、やがてもうそんなことどうでもよくなっていた。なぜ自分とデリックがダンスをしているのか。そんなこと、もう問題ではないのだ。
「大丈夫、だったんですか? 殿下から大変なお仕事だと伺いましたが。それにお怪我もしたとか」
「まあ……神経は使ったかな。隠れ家を敵に見つかったりもしたし」
思わず息をのむシンディ。だが、デリックは更にぼやく。
「でも、俺としてはダンスの練習の方がずっとしんどかった。何せ王族御用達の厳しい講師が専属で就いてたし。なんで俺がダンスの練習なんかって殿下に文句を言ったけど、面白そうだからの一言で一蹴されて、本当、めげそうになった」
「で、でも、お上手です。私もすごく踊りやすくて」
「殿下とどっちが踊りやすい?」
「へ?」
反射的にシンディが顔を上げれば、耳を赤くしたデリックと目が合う。二人同時に顔を逸らした。
「で、殿下……でしょうか」
「……そりゃ、殿下はうまいでしょうね」
自分で聞いておきながら、勝手に拗ねるデリック。シンディは慌てて首を振った。
「ち、違います! 私がいけないんです。デリックさんと踊る方が緊張してしまって、踊りにくく感じて……」
「…………」
言っておきながら恥ずかしくなったシンディは、再び視線を下に落とす。と、その時にデリックの胸元にあるものを見つけ、顔を綻ばせる。
「ハンカチ、使ってくださってるんですね」
「え? ああ、これか」
デリックの上着のポケット――そこから、チラリと顔を覗かせるハンカチ。
「……ありがとう。これのおかげで、任務の間も頑張れた気がする」
「本当ですか?」
「うん。……お礼と言ってはなんだけど、お土産も買ってきたから」
口元が緩んでしまいそうなのに必死に堪えながら、シンディは何度も頷いた。
「ありがとうございます」
「うん。だから後で――」
デリックが言いかけたところで、曲が終わった。二人ではたと止まると、我に返ったようにまた会場の隅に逃げ帰る。話に夢中で、自分たちがちゃんとしたダンスを踊れていたかどうかすらあやふやだった。
火照った顔を冷やすため、二人は互いにあらぬ方を見る。そんな彼らに、呆れたような顔で近づいてくるのはフェリクスである。
「どうだった、ダンスは」
「えっ」
「とはいえ、大方ほとんど何も覚えてないのだろう。互いが互いに夢中で」
「いえ……」
反射的に二人は首を振ったが、本当のところ、まるきり事実である。
居住まいの悪い様子の二人に苦笑を漏らすと、フェリクスは、パッと顔を上げた。
「皆の者、聞いてくれないか」
低いが、落ち着いたフェリクスの声は、思いのほか会場によく響いた。もともと目立つ三人に注目していた招待客達は、ハッとしたように今度こそ堂々と三人を見つめる。
「昔から私と懇意にしていた届け人を紹介したい。こちら、かの有名な届け人の第一人者、デリックだ」
まるで自慢するかのようにフェリクスが手を広げてデリックを紹介すれば、招待客はそれに気圧されるようにワッとどよめいた。突然の出来事に、デリックは慌てる。
「で、殿下!」
「このくらいで何を照れてるんだ」
しかしフェリクスの方はデリックの抗議などものともせず、更に続ける。
「皆も知っての通り、私は恋多き男でね。今まで数々の女性と懇意にしてきたわけだが」
ぬけぬけとそんなことを言うフェリクスに、デリックはしらけた視線を送った。
恋多き男と言うよりも、打算的な男だ、彼は。
口説いていると見せかけ、実は身分ある数多の女性から情報を引き出している食えない男である。
だが、そんなこと恐れ多くて口に出来るわけもなく、結局デリックは一人唇を歪めることしか出来ない。
今まで多大な迷惑しか被ってこなかった複雑なデリックの心境などいざ知らず、フェリクスは嬉しそうに声を大にする。
「多忙な身ゆえ、私は自由時間もままならない。そんなときによく利用していたのが手紙だったわけだが。しかしここでとある問題が発生する。――検閲が入るのだ。時には身分ある女性に秘めやかな想いを綴った手紙を送ることがあるのだが……そうしたときには、必ず公な検閲が入ってね」
フェリクスはやれやれと首を振った。彼の身分を思えば、それは仕方のないことだが、時にはそれだけで納得のいかないこともある。
「私達の年ごろには、人に知られたくない、見られたくないことくらいあるものだろう? 何が楽しくて、女性への口説き文句を他人なんかに見られないといけないんだ。……だが、そんなときに存外役に立ってくれたのが、このデリックだった」
ポンとデリックの背中を叩くフェリクス。彼は大層嬉しそうだったが、対するデリックの方は、見るからに愛想笑いである。
「届け人である彼が直接届ければ、手紙に検閲が入ることはない。それに、手紙以外の様々なものも届けてくれるから、贈り物にも幅が出来て、相手の女性にも大層喜ばれたよ。彼のおかげで、私の恋路に更に拍車がかかったのは言うまでもあるまい」
茶目っ気たっぷりな言葉に、思わず笑い声が漏れる。
フェリクスは咳払いをして、一旦場を鎮める。
「他人の恋路を結ぶ仕事――巷ではそう呼ばれている届け人だが、その仕事を通して、何を隠そう、このデリックも自分なりに恋心を育んだようでね」
「ええっ」
驚きのあまり、無防備なデリックの声が漏れる。デリックは慌てて口を押さえたが、その瞳は睨み付けるようにフェリクスに向いている。
「誰とは言わないが、身分の差に苦悩することもあったらしく……誰とは言わないが、自分に自信がなくて、相手に想いも告げられていないのではないかと私は睨んでいて」
そう言いながら、フェリクスがチラチラと視線を送る先は、シンディとデリック。――これでは、わざとらしく名を伏せた理由もない。
「あの……」
シンディは不安げにデリックを見た。大々的にこんな風に言われて、彼に迷惑じゃないのか。
そう問いかけたとき、鬼気迫った顔でデリックはシンディの手を取る。
「迷惑じゃない!」
シンディの考えることなどお見通しのようだ。
「でも、殿下のことは大嫌いだ!」
目一杯フェリクスのことを睨み付けると、デリックはシンディを連れたまま、足取りも荒く王宮の庭へと逃げてしまった。おそらくは誰もいない場所へと。
後に残されたフェリクスは、これまたわざとらしく素っ頓狂な顔をして見せた。
「どうやら、私が衆目の場で茶々を入れたことが気にくわないらしい。いやはや、思春期の少年は扱いが難しくて困る」
またも笑いが起こる。嘲笑ではない、純粋な笑い声だった。まるで自身の子供を見ているかのような、温かい視線と共に。
「皆もぜひ、届け人で秘めやかな恋を発展させてくれ!」
そう締めくくると、フェリクスは優雅に一礼して見せた。長いようで短かった一連の出来事に、温かい拍手が送られる。
「――これまでの功績に敬意を称した、せめてもの私からのはなむけだ」
そうして微笑を浮かべて呟いたフェリクスの言葉は、誰に聞かれることなく、静かに消えていった。
*****
シンディに言われるまで、デリックは足を止めなかった。思ったよりも冷たい夜風が、火照った身体に心地よく、束の間、今自分が何をしているのか忘れさせたのだ。
「あの……どちらまで?」
躊躇いがちにそう言われ、デリックははたと足を止めた。そうして、気まずげにシンディの腕を放す。
「あ……そうだ、これ」
そして、彼の手は、そのままポケットを探る。淡い色合いの包装紙で包まれたものを取り出すと、デリックはスッとシンディに向かって差し出す。
「お土産、なんだけど。気に入ってくれると嬉しい」
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「どうぞ」
シンディが包みを開ける中、デリックは所在なげにその場に突っ立ったままだ。しかし、すぐに彼女の嬉しそうな声に、頬を緩める。
「わあ、可愛い……」
中から姿を現したのは、手触りの良い絹のスカーフだった。可憐な花々があちこちに刺繍されている。
「似合うかなと思って……貸して」
シンディからスカーフを受け取ると、デリックはそれをシンディの手首に巻いた。――いつしかの、デリックの旅立ちのように。
「えっと……あのさ」
「はい?」
「さっきのこと、迷惑じゃなかった? あんな場所で、殿下にあんな風に言われて」
「私は全くそんな風には思いませんでした。むしろ、デリックさんに嫌な思いをさせているのではないかと」
「そんなこと――」
咄嗟に言いかけて、止まる。デリックは、長い時間を取って、慎重に口を開く。
「ごめん」
開口一番に彼が発したのは、謝罪の言葉だった。
「俺、ずっと今まではぐらかしてばっかりで。挙げ句の果てには殿下にあんなことまで言われて。本当は自分の口で言わないといけないのに、本当、情けない……」
様子のおかしいデリックに、シンディは駆け寄ろうとしたが、真っ直ぐな瞳に射貫かれ、足が止まる。
「君が好きだよ」
一瞬呼吸も止まる。彼の声以外、何も聞こえなくなった。
「執着心はない方だったから、見て見ぬ振りしていれば、どうせこの気持ちもそのうちなくなると思ってた。でも、君は真っ直ぐぶつかってくるし、調子狂わされるしで、もう最悪」
片手で顔を覆い、デリックは自己嫌悪のため息を漏らす。
「殿下にも言われたよ。自分が弱いせいで逃げるのは止めろって。……本当にその通りだと思った。自分が情けなくて仕方がない」
「私……私だってそうです。自分に自信がなくて、周りに守られるだけの自分が嫌で、でも何をすればいいのか分からなくて」
シンディは、おずおずとデリックの手を握った。安心する手のひらだ。
「でも、デリックさんのおかげで変われたんです」
「俺も君の――あ、いや、殿下のおかげかな?」
「……そこは、嘘でも私のおかげって言って欲しかったです」
思わず恨めしげな顔になれば、デリックはケラケラと笑った。
「一緒に頑張ろう。俺のせいで、君に迷惑をかけるかもしれないけど」
「そんなことありません。私の方こそ、足を引っ張るかも」
妙なところで似たもの同士になって仕舞った二人は、顔を見合わせて笑った。
「まずは、君のお母さんに挨拶をしなくちゃだね」
「私、デリックさんのご両親にも一度お会いしたいです」
「俺の? ……実は、もう会ってるんだけどね」
「えっ、私が、ですか? いつ? どこで会いました?」
「今は止めとく。心の準備だけはしておいて」
「気になるじゃないですか」
遠い目をするデリックに食い下がるシンディだが、彼が口を開くことはなかった。
「今はとにかく、君のお母さんの方が手強いと思うけどね」
「そうですね。私の母は――」
「シンディ〜〜っ!」
どこからか、テレーゼの声が聞こえてきた。会場にいる招待客に聞こえてしまうのを考慮してか、声はいくらか抑えてあるが、しかし、怒りは堪えきれていない様子の声が。
「……お母様です」
サーッと血の気の失った顔でシンディが項垂れる。
「お母様って……怒ると怖いって聞いたんだけど」
「知ってるんですか?」
意外そうにシンディが聞き返すと、デリックも苦笑いをして頷く。
「殿下から聞いた。怒らせると怖いから、お前も気をつけろって」
「……残念ながら、お母様は怒らなくても怖いんです」
嘆息混じりに呟き、シンディはデリックの手を取って歩き出した。
「こっちに行きましょう」
「って――え、いいの!? 逃げたらもっと怒られると思うけど」
「いいんです。今だけは……幸せに浸っていたいから」
そう言って小さく舌を出すシンディに、釣られてデリックも笑い出した。
「シンディっ! 一体どこにいるのですか!」
怒り狂う母と、笑いながら逃げ惑う年若い二人。
王宮の庭を舞台での鬼ごっこは、やがて兄が慌てて駆けつけてくるまで終わらなかった。
*****
この日を境に、貴族達のシンディに対する見方は一変した。公爵家に楯突いた身持ちの悪いシンディ=ブランドンではなく、初な届け人と着々と恋を育ませているシンディ=ブランドンとして、一気にその地位を確立させたのだ。
年若い二人の恋路は、思いのほか、社交界を色めき立たせた。 今をときめく届け人と伯爵令嬢の身分差の恋。そんな風に社交界でうたわれては、興味を持たないわけがない。女性側にいくら聞こえの悪い過去があったとしても、身分差ロマンスの前では、むしろ女性を悲劇のヒロインとして一層持ち上げられる要因の一つにしかならないのだ。
アラン国第一王子であるフェリクスが、二人の後ろ盾となっていることも大きく影響しているだろう。彼が声高にに二人の関係を明らかにしたことで、むしろ隠れていた純な面があらわになった。
この一件で、突然情勢が変わるということはない。ただ、一方的にバラード家の味方になっていた貴族達が、周りの反応を窺いながら、徐々に徐々に中立の立場に戻り、そして、温かい眼差しで年若い二人の関係を見守っていく。そんな光景が、あちこちで見られるようになっていたのである。時には、二人の結婚を許そうとしないブランドン家女当主テレーゼに口を挟む者までいる始末。
『そんなに躍起になって反対しなくても……。お似合いの二人ではないか』
『この子の母親は私ですよ! 部外者が口を出さないでください!』
『いや……失礼した。つい第二の娘息子のような感覚がして、口を挟まずにはいられないのだよ』
そう照れたように頭をかく貴族もいる。
結局、先に折れたのはテレーゼの方だった。もうどうにでもなれと。せめてシンディとデリックの間に男児が産まれたのなら、その子に家を継がせるから、どうせなら早く結婚して子を産めと。
唐突に気の早すぎる話をされ、シンディとデリックは互いに顔を真っ赤にして、穴があったら入りたいと思ったとか思わなかったとか。