38:危険な任務
油断していれば見落としてしまいそうな所にある木製の扉。
デリックはそこを軽快に三回叩いた。
「すみません! お届け物ですが」
「…………」
しかし中からの応答はない。人のいる気配は充分あるのだが。
「届け人の者です。どなたかいらっしゃいませんか」
「――ああ」
しばらくして、ようやく扉の向こうから返事があった。ぶっきらぼうな声は、バタバタと騒がしい音を立てた後、警戒するようにわずかに扉を開けた。
「お前、誰だって? 何の用だ」
「届け人のデリックと言います。こちらのラドロフ様にお届け物です」
「届け人だあ?」
無精髭の男は、胡散臭そうなものを見る目になる。右手がゆっくり剣の柄に添えられる。デリックはそれに気づかない振りをして愛想笑いを浮かべた。続いて、いつもの身分証を取り出す。
「はい。知りません? 届け人」
「……聞いたことはあるが。一体何の用だ」
「ですから、ラドロフ様にお届け物が」
「ここにそんな名前の男はいない。人違いだ」
「ええ? でも、確かにここだと伺ったんですが……」
デリックは、とぼけた顔で以来の品である手紙を取り出した。男は目の色を変えた。
「おい、それを見せろ!」
男は突然デリックの持つ手紙をひったくると、目の前で乱暴に開いた。
「なっ、何するんですか!」
一読すると、男はすぐに手紙を突き返してきた。が、封を切られてしまった手紙に、元の価値があるわけがない。
「あーあ、それ大切な依頼の品だったのに……。ったく、どうしてくれるんですか」
「知らん。お前が勘違いするからいけないんだろうが。もうお前に用はない。さっさと行け」
そうして男はすぐに扉を閉めようとした。だが、ここでひくデリックではない。扉の隙間に片足を突っ込むと、挑発的な笑みで男を見上げる。
「困りますよ、こんなことされちゃ。確かに間違えたのは俺かもしれませんが、依頼の品を台無しにされて黙ってなんかいられません。弁償してください」
「弁償だあ?」
男は、今度は大袈裟に剣の柄を掴むと、苛立った声を上げる。
「お前、俺が大人しくしてりゃあ調子に乗りやがって。俺が誰か知らないのか? 俺はな――」
「まあまあベンさん! ここは一旦落ち着いて!」
軽やかな声と共に、大きく扉が開く。その隙を見逃さず、デリックはサッと奥の部屋を一望した。殺風景な部屋の奥で、何人かがカードゲームをしていた。不自然に思われないうちに、すぐにまた視線を外す。
「ほら、皆さん待ってるから。ベンさんはゲームに戻って。ここは俺が何とかしますって」
「ああ? 俺に命令すんな!」
しかし、面倒ごとは嫌いなのか、男は舌打ちをした後、部屋の奥に下がった。彼にもの申したのは、赤毛の男のようだった。
「ごめんね、あの人、今ちょっとピリピリしてて。で、何だっけ、手紙がどうのこうのって聞こえたけど」
「ラドロフ様宛てに手紙を持ってきたんですが、人違いだったようで。でも、あの人が手紙の封を切ってしまって……」
「そっか。それは悪いことをしたね。あ、じゃあ弁償した方がいいね」
「できればお願いします」
物怖じせずに言うデリックに苦笑いを浮かべると、赤毛の男は懐から何かを取り出す。
「これ、お詫び。悪かったね」
幾らかのお金と、小さく折り畳まれた紙。デリックは、表情を変えずにそれらをポケットに押し込む。
「ありがとうございます。でも、まあ……間違えたのはこちらが悪いんですし。何とか依頼人にもう一度お願いしてみます」
「本当、悪かったね」
「失礼しました」
小さく頭を下げると、赤毛の男がちょっと手を挙げ、そして扉が閉められる。
「…………」
デリックは小さく息を吐くと、まるで逃げるかのように、足早にそこを立ち去った。それとなく周りを警戒しながら、大通りへ出た。雑踏に紛れながら、なるべく複雑に入り組んだ道を選んで歩いて行く。
そうしてたどり着いたのは、細い路地裏だ。雨樋を伝って、細長い建物の上へ上へと上っていく。
この建物に、入り口などない。地下の隠し通路か、こうして下から上るほか、入る術はないのだ。
手慣れた手つきで窓を数回叩けば、僅かな間をおいて、窓が開いた。デリックはそこから一気に身を滑り込ませる。
「――どうだった?」
息つく暇もなく、声が降ってくる。デリックは重たい外套を脱ぎながら、そのポケットから赤毛の男から手渡された紙を取り出した。背の高い男が無言で手を突き出してくるので、その手に渡す。
「男が四人と女が一人。あとこれ、渡されました」
「中は見てないだろうな?」
「見てませんよ。見たくもない」
外套を椅子にかけたあと、水差しからコップに水を注ぐ。そして一気飲み。
「――俺はこれ以上深入りするつもりはありませんから」
「だといいが」
紙に素早く視線を走らせると、男はそれをポケットに突っ込んだ。
「正直な所、お前のことは信用していない。殿下からのお墨付きだから仲間には仕方なしに受け入れたものの、素性がハッキリしていないからな。届け人とやらがどこまで役に立つか。足手まといにはなるなよ」
「そのつもりですが」
売り言葉に買い言葉で、デリックも言い返しはしたが、その内心は複雑である。
舞踏会が終わった日の夜、フェリクスから頼まれたのは、隣国に潜入している密偵同士の連絡網としての役割だった。届け人の発祥――あまり知られていないが――は、デリックやシンディの住むアラン国にある。近年では世界的に有名になり、各国をまたにかけて届け人の事務所があちこちに置かれているが、その本拠地はアラン国になる。自国の次代を担う一国の王子に頼まれ、一介の平民であるデリックには断ることもできず、また、世界的にも独自の連絡網として知られている届け人は、怪しまれることなく自由に各国を行き来できるので、フェリクスはその利点を買ってデリックに仕事を与えたのだ。
――シンディのことが絡んでいなければ、デリックとて、このような危険な仕事は請け負っていなかった。
今までも、デリックは知らず知らず、フェリクスから危ない仕事をやらされてきた。隣国の名のある貴族の娘と秘密の文通を頼まれたり――彼の目的は、娘から情報を得ることだった――、それとは知らず、自国では禁止されている密輸品を運ばされたり――彼に直接手渡した後、これは実は密輸品なんだと暴露されたときのデリックの心境と言ったらもう――、とにかくデリックは昔から彼には散々な目に遭わされてきた。
何をどう言われようと、もう彼からの仕事は請け負わない。
そう決心していたデリックだが、舞踏会の夜、彼に言われたのだ。――自信をつけたいと思わないのか、と。
危ない仕事をしたからといって、自信などつくわけがない。が、その更に後に続いた言葉が、デリックは何よりも魅力的に感じた。だからこそ、満を持して引き受けたのだ。
隣国のあらゆる場所にアラン国の密偵は潜んでいる。デリックは、これから数ヶ月の間、その一人一人と接触し、情報を交換するのだ。届け人として顔と名前をさらしている以上、デリックには常に危険がつきまとう。一時の油断もならないのだ。
しかし、隠れ家であるこの建物は、いくらか安心のできる場所だった。密偵の隠れ家として随分長い間使われてきたこの場所は、食料も備蓄されていたし、分かりにくい場所にあるので、敵に気取られる心配もない。
一仕事終わったので、さあ一眠りでもしようかとデリックがおもむろに立ち上がったとき、窓の外を見ていた男が振り返った。
「お前、武器は使えないんだったか?」
「もちろん使えませんよ。手紙を届けるだけの仕事に、武器なんか必要ありませんでしたから」
「そうか」
男は頷くと、床下から剣を取り出す。ゆったりとした動作でそれを腰に差すと一言。
「……じゃあ、この苦境は乗り越えられないかもな」
「はい?」
「敵に囲まれたようだ」
「なっ……」
あまりにも淡々というので、デリックはしばらく男の言うことが理解できなかった。理解できたときには、男に大きな剣を握らされていた。
「危なくなったらこれを使え。ないよりはマシだろ」
「敵って……」
「お前、つけられてたんじゃないか」
「いや、そんなはずは……。ちゃんと警戒してました」
「……じゃあ、前々から目星はつけられてたのか。どちらにしても厄介だな、地下からの退路を断たれたか」
男は窓辺に近寄り、目を細めて外を見た。
「一か八か、窓から逃げるか。……おい、お前。身のこなしは軽いんだったな。窓から逃げるぞ」
「はあ、確かに窓からの方が俺は有り難いですけど」
狭いところで戦うよりは、どんな場所でも逃げられる外の方がずっとマシだ。
「おい、もう一つの隠れ家の場所は分かってるな? 夕方そこに集合だ。互いの身は互いで守るように。以上」
それだけ言うと、男はさっさと自分だけ窓の外へ身を投げ出した。雨樋を伝って、屋根の上に出たようだ。あまりの素早さに、デリックも言葉を失う。窓から下を覗けば、覆面をした男達がこちらを見上げている。
「もう少しよく考えてから引き受ければ良かった……」
そうデリックがぼやくのも、仕方がないのかもしれなかった。