36:別れの夜


 自室に下がってシンディが一番初めにしたことは、窓のカーテンを開けることだった。デリックが来なくなってから――というより、シンディが彼の来訪を拒んだのだが――カーテンはずっと閉め切っていた。
 シンディは、つい先ほど――王宮の庭でのことを思い出していた。
 フェリクスの言葉を否定するシンディに対し、咄嗟にデリックは腕を掴んできたのた。
 そして、迷惑じゃないと、拙いながらもそう口にしてくれた。
 シンディは、それだけで嬉しかった。あまり表情に出ない彼のことだから、内心ではシンディのことをどう思っているかは分からない。嘘を言うような人には見えなかったから、きっと本心だったのだろう。
 まだ眠たくはなかったので、シンディはベッドに腰掛け、シロのケージを眺めた。残念ながら、音沙汰はない。きっともう寝ているのだろう。暗くて見えないが、丸まって寝ている様を想像し、シンディは口元を緩める。
 ――と、不意に何か物音が聞こえた気がして、シンディは窓の方に顔を向けた。
 耳慣れた木のしなる音。
 それだけで、シンディは彼の来訪を悟った。

「こんばんは!」

 頬を上気させてシンディが窓から顔を出せば、驚いたような表情のデリックと目が合った。

「来てくださるとは思ってもみませんでした」
「うん……。さっきの今だし、どうしようかと俺も思ったんだけど」
「でも、来てくださって嬉しいです」

 疲れているだろうから、早く休んで欲しいという思いもあるが、それ以上に嬉しさの方が勝った。

「その格好のまま来られたんですか?」
「うん」

 シンディは、デリックの様相をまじまじと見つめる。折角の正装なのに、こんな木に登ってしまっては、皺もつくし、汚れるのではないかとシンディは気が気でない。しかしデリックにはその考えは頭にないようで、どこか浮かない表情をしている。

「お腹は空いてませんか? 何か軽食でも……」
「いや、大丈夫。ありがとう」

 歩き出したシンディだったが、デリックの制止により、再び窓に近寄る。

「何か、あったんですか?」

 いつもと雰囲気が違うような気がして、シンディは声を落とす。

「また、殿下に仕事を頼まれたんだ」
「大変なんですか?」

 重々しく切り出すデリックに、シンディは眉を下げた。

「うん、それなりに隣国に行かなくちゃならない。一ヶ月か二ヶ月か、もしかしてそれ以上かかるかもしれない」
「…………」

 ただの届け物に、そんなに時間がかかるものなのだろうか。
 あまりの期間の長さに、それだけ仕事の難易度が比例しているようで、シンディは眉を顰めたまま動かなかった。

「しばらくここには来れないけど……。あ、や、君が嫌じゃなければって話だけど」
「とんでもないです、嬉しいです!」

 シンディは咄嗟に叫ぶ。その勢いのまま、デリックの来訪をどれだけ心待ちにしているか、熱く語ろうとも思ったのだが、嫌がられてしまうのではないかと思うと、喉の奥でその言葉が詰まってしまう。
 何度か口をパクパクさせた挙げ句、結局何も言わずに下を向くシンディに、デリックは微笑を浮かべた。

「仕事が一段落ついたら、また会いに来てもいい?」
「もちろんです!」

 ハッとしてシンディは大きな声を出した。ついで、隣室の兄の存在を思い出し、声を落とす。

「私はいつでも待っています。ですから、お仕事が一段落した時に来てくだされば、とても嬉しいです」
「ありがとう。また来る。あ、お土産あった方がいいかな」
「お気遣いありがとうございます。でも……あっ、じゃあ、またお土産話をしてほしいです。隣国がどんな場所だったのか」
「了解。数ヶ月分の話だから、一夜じゃ話しきれないかもね」
「その方が嬉しいです」

 シンディは素直に微笑んだ。
 不思議と、羞恥心はあまりなかった。いつもなら、こんな言葉をスラスラと言えるほど、芯がしっかりしている訳ではないのだが。
 思い当たるのは、先の舞踏会でのデリックの言葉だろうか。迷惑じゃないと言ってくれたから、その言葉が、シンディの背中を後押ししてくれる。

「あのっ、ちょっと待っててください」

 シンディは一旦窓から離れると、テーブルの引き出しを開けた。あるものを取り出し、また窓辺に戻ってくる。

「これ……もらってくれませんか?」

 シンディが躊躇いがちに差し出したのは、刺繍入りのハンカチーフだ。絹のハンカチに、春の葉の刺繍を施したものだ。

「いいの?」
「はい。お粗末ながら、私が刺繍したものなんです。デザインが少し女性向けで、使うには躊躇いがあるかもしれませんが……その、餞別……といいますか」

 シンディはごにょごにょ言いながら俯く。
 隣国ともなれば、何があるか分からない。隣国へ行く途中、盗賊や追い剥ぎに遭うことだってあるのだ。それを思うと、手ぶらでは見送れないと思った。こんなことなら、もっとちゃんとしたものを作っておけばと思わないでもなかったが、後の祭りだ。恥ずかしさを押しのけて、シンディはパッと顔を上げた。

「右手、出してもらえますか?」
「うん?」

 迷った末、シンディはデリックの右手にハンカチを結ぶことにした。着替えるときに外すことになるのだろうが、せめてその間だけでも。

「ご無事を祈っています」

 ハンカチを、きゅっと二回結んだ。結び終われば、デリックのテをそのまま両手で包み込む。すっかり冷たくなっている彼の手を、少しでも温めようと。

「ありがとう」

 少し照れくさくなって、デリックはそっぽを向いた。続けて冗談めかして言う。

「本当なら、手紙の一つでも送れればいいんだけどね。でも、届け人が郵便局を使うってのもおかしな話だし」

 とぼけた口調に、シンディもクスクス笑い声を立てた。

「お仕事、大変なんですよね? 私のことはお気になさらずに、どうかお仕事やり遂げてください。デリックさんがご無事な姿で戻ってきてくだされば、私はそれで充分ですから」
「うん。頑張ってくる」

 素直なシンディに感化され、デリックもまた、いつもよりは口が緩くなる。

「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」

 デリックがそっと手を引けば、名残惜しい温かさが尾を引いた。すぐにまた冷たい風に手は冷える。が、自身の手首を見下ろせば、じんわりと温まる心に、自然と弧を描く口元――。