34:社交界にて
夕日が傾き始めた頃、シンディはようやく身支度を終えた。侍女に連れ添ってもらいながら、ゆっくりと居間へ向かう。
「お嬢様」
階段を降りたところで、ウィリアムと遭遇した。彼はハッと目を開き、やがて微笑を浮かべた。
「お綺麗です。ドレスがとてもよく似合ってらっしゃいますね」
「ありがとう」
シンディも笑みを返した。
ウィリアムは、シンディが産まれる前からずっとここで働いている壮年の執事である。もう四十近くになるだろうが、歳の頃合いも丁度シンディの父親ほどで、物心がつく前に父が亡くなってしまったシンディとしては、父親のように慕っていた存在でもあった。
ウィリアムが開けてくれた扉から、シンディは居間へと足を踏み入れた。テレーゼと向かい合ってお茶を飲んでいたアーヴィンが、機敏に立ち上がる。
「シンディ! さすがは僕の妹だ、とても綺麗だよ」
おちゃらけた様子で、彼はニコニコ笑って言う。
「ありがとうございます。お兄様からいただいたドレスのおかげですね」
「シンディには黄色が似合うと思ったんだよ。僕の見立ては間違いじゃなかったな」
今宵の舞踏会のため、シンディは、アーヴィンからレモンイエローのドレスを贈られたのだ。モスリンのこのドレスは、高いウエストラインで切り替えがあり、スカート部分には細かなギャザーが寄せられている。身体の線に沿ったドレスではあるが、露出は少なく、裾や袖口など、細かい部分にまでステッチやフリルが施されており、シンディは一目見ただけでこのドレスが気に入った。優しい色合いのレモンイエローも可愛らしく、髪型や宝石など、どんなものが似合うか、侍女とずいぶんな間悩んだものだ。
「それに、折角の王宮での舞踏会だ。とびっきりのを新調しないともったいないからな」
悪戯っぽくアーヴィンはウインクした。シンディも大きく頷く。
「そうですね。私も、王宮の舞踏会はデビュタント以来ですから、とても楽しみです」
デビュタントの時も、シンディはアーヴィンをパートナーに、連れて行ってもらったものだ。その時は緊張と人の多さに体調を崩し、すぐに家に帰ってきてしまって、後で随分落ち込んだものだ。
「では、そろそろ行きましょうか。遅刻は厳禁ですからね」
「はい」
テレーゼの後に続いて、シンディ達は外に出た。四頭立ての馬車に乗り込み、やがてゆっくり動き出す。
移動中、馬車の中はとても静かだった。しかし、シンディとしては非常に有り難いことだった。
母テレーゼは、シンディと顔を合わせる度、裁判のことを話題に挙げるので、シンディとしては、神経をすり減らされてばかりだったのだ。もちろんシンディも、裁判のことは、本当に母に悪いことをしたとは思っている。母が女手一つでブランドン家を支える中、シンディが起こした裁判は、それを台無しにしてしまうほどの威力を持っていた。被害者とはいえど、女性側が受けた傷と醜聞はもちろんのこと、家名にも泥を塗る羽目になっただろう。
相手側のバラード公爵家の権力が強いだけに、ブランドン家も悪目立ちしてしまったのだ。この一件で、バラード家はブランドン家に敵意を持つだろうし、その傘下の家々ももちろんのこと、バラード家と取引をしている貴族家も、おそらくはしばらく様子見ということになり、ブランドン家とは距離を置くだろう。
――シンディが起こした裁判は、当人だけではなく、家や更に多くの人々をも巻き込むものだったのだ。あらかじめそのことは肝に銘じていたとはいえ、いざ自分たちが社交界の中心に行こうとしていることを思えば、自ずと手が震えてくるシンディであった。
しばらくして、馬車が王宮に到着した。とはいえ、貴族家の馬車が長蛇の列をなしていて、なかなか外に出ることはできない。ようやく馬車が王宮の前に到着すると、三人は馬車から降り立った。長い階段を上り、そこで待ち構えていた執事に招待状を確認してもらう。
「ブランドン伯爵家ご一行、テレーゼ=ブランドン、シンディ=ブランドン、そしてマレット子爵、アーヴィン=マレットがいらっしゃいました」
良くも悪くも、いつもは決して目立たない三人だが、この時ばかりは違う。会場の視線が一気にシンディ達に向けられる。好奇の視線もあれば、同情、嫌悪の視線もあった。それら全てを受け流し、シンディ達は王族への挨拶へと伺う。
挨拶は、つつがなく終わった。――社交界の噂は広まるのが早い。てっきり、裁判のことにも言及されるかと思ったのだが、それは杞憂だったようだ。むしろ、最高権力者として、どちらの味方にもならないよう気を遣った結果がこれなのだろう。
舞踏会が始まっても、シンディ達に向けられる視線は止まなかった。シンディは、羞恥を感じるよりもむしろ、申し訳なさを抱いた。自分と共に、針のむしろのようなこの感覚を味わっている母と兄に対して。
「お母様、私のことはお気になさらず、ご友人の下に行ってきてください」
シンディはテレーゼに向き直った。アーヴィンも援護するようシンディの肩を叩いた。
「そうですよ。僕たちはダンスをしていますから、ね?」
「はい」
「…………」
テレーゼは難しい顔で二人の子どもを見つめた後、やがて諦めたようにため息をついた。
「――そうですね。ずっとここにいても仕方ありませんし」
「行ってらっしゃいませ」
「挨拶回りが終わったら、早々においとますることにしましょう。いいですね?」
「はい」
なおも後ろ髪引かれる様子のテレーゼを、シンディ達はにこやかに送り出した。
「じゃあシンディ、踊ろうか」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
アーヴィンに手を引かれながら、シンディは会場の中央に躍り出た。
兄と踊るのは、二度目だろうか。デビュタント以来だ。デビュタントの前は、予行演習だとダンスの練習に何度も付き合ってもらったものだが、やはりきちんとした装いで、こうした衆目の場で踊るものとは段違いだ。
自分たちに降り注ぐ視線に耐えられず、シンディはつい下を向く。そのことに気づいたのか、アーヴィンが顔を寄せた。
「シンディ」
「はい?」
「……その、こんなことを言うのは野暮だとは思ったんだけど、つい気になってしまって」
珍しく歯切れが悪い。
シンディは不思議に思って顔を上げる。
「――デリックは、最近来てないみたいだね? 何かあったの?」
「は……」
一瞬、シンディの動きが止まる。慌ててアーヴィンが助け船を出して、シンディはなんとかつんのめることだけは避けられた。
「えっと……」
正直なところ、ダンスどころではないが、シンディは何とか頭を動かし始める。
「知って、らしたんですか……?」
「最近ね。隣の部屋から話し声が聞こえてきたから。……ああ、内容までは聞こえてないから安心して」
それを聞いてようやくシンディは思い出した。そういえば、兄の部屋は隣だったと。シンディのことが落ち着くまで、今はずっとブランドン家に滞在していたのだと。
「……喧嘩でもした?」
「いえ。そういったものでは。……でも、もうデリックさんは来ないと思います。私がそうお願いしましたから」
「なぜ? 仲良かったんじゃないの?」
「……デリックさんは、ただ義務で私の下に来てくださっているだけです」
「そうかな」
「もう、ご迷惑はおかけできませんから」
沈痛な表情で視線を逸らすシンディに、アーヴィンは眉を下げた。
「いいんじゃないかな、たまには我が儘になっても」
「……私は、充分我が儘です」
もし、胸を焦がすこの想いが成就したらとは思う。しかし、もしそんなことになったら、貴族の娘としての義務を果たせなくなってしまう。
所詮は、シンディも自分のことしか考えていなかったのだ。
もう、この想いは心の奥底に閉じ込めなければならないのに。
「……それに、もう今も皆に甘えながら生きていますから」
「弱音も吐かないし、頼ってもくれない。僕からすれば、これほど悲しいこともないんだけどな」
アーヴィンは窺うようにシンディを見たが、彼女は答えない。ただ口を結んで、自分たちの足先を見つめるのみだ。
ダンスが終わると、シンディはアーヴィンの手を離し、距離を取った。
「お兄様も、挨拶回りがおありでしょう? 行ってらしてください」
「シンディを一人にはできないよ」
「ちょっと夜風に当たりたいんです。どうぞお気になさらずに」
「……分かったよ」
アーヴィンは力なく微笑むと、そのままシンディの傍から離れた。それを見送ると、シンディも庭の方へと足を進める。
一人になると、自分に降りかかる視線の強さが、より一層際立った。シンディをダンスに誘う男性はいないし、もちろん話しかける者もいない。ただ、遠巻きに噂の渦中の人物だと顔を見合わせて話題に取り上げられるだけだ。
中には、シンディを中傷するものもあるのだろう。
いくらシンディが、手篭めにされかけたのだと声を大にして叫んでも、事の真偽は証明できない。貴族は、傷物になった女性を何よりも厭う。しかしそれは当然のことだ。貴族家の血筋の正当性と誇りが重視される中、生娘ではない者は、身持ちの悪さが噂を呼び、ゆくゆくは受け入れた貴族の恥ともなる。それが決して女性側の落ち度ではなくとも、だ。シンディの場合は特にそうで、むしろ社交界中にこうして醜聞が広まってしまった以上、シンディに求婚する者は、前以上に、シンディの家柄と財産目当ての者ばかりになるだろう。
庭に出、冷たい夜風に当たっていると、幾分かシンディの頭も冷静になってきた。
舞踏会が始まったばかりで、まだ庭を散策する者などおらず、シンディはどんどん奥に進む。
昼間はさぞ散歩のしがいがあるのだろう生け垣を通り抜け、そろそろ戻ろうかと考え始めたとき。
「ブランドン嬢?」
不意に後ろから声をかけられ、シンディはビクッと肩を揺らした。
「あ……グラハム様」
「途中でお見かけしたので、つい」
そう肩をすくめる男に笑みを返しながらも、シンディは彼から僅かに距離を取った。
彼――グラハム子爵次男のイーノスは、以前シンディに求婚を申し込んできた男性だった。跡取りでない次男は家を継げず、かといって彼自身騎士になるわけでもなく、生計を立てつもりもないようで、おそらくはブランドン家嫡男であるアーヴィンがマレット家に婿入りしたことを聞いて、自分にも可能性ありとしてシンディに求婚してきたのだろう。……縁ができたとしてブランドン家に利益があるわけではなかったので、シンディの母テレーゼは、丁重にお断りしていたのだが。
しかし、彼との縁はそれだけではなかった。
一度断っても、彼は社交界でシンディを見かける度、何度も話しかけてきたり、家に手紙や贈り物を届けたりと、諦めが悪かったのだ。当時、シンディと噂になっていたファビウスに対抗してか、家の前で待ち伏せされたこともある。
そんなことが重なって、シンディはイーノスに対し、あまり良い印象を抱いていなかった。
「夜風に当たっていたのですか? お兄様はどちらに?」
「少し散歩をしたかったので、こちらに。兄はご友人方の所にいます」
「そうですか」
シンディの返答に興味はなかったのか、イーノスは気もそぞろに相づちを打った。
「肌寒くなってきたので、私はそろそろ戻ります」
「そうですか? まだ私と少し話をしませんか?」
「いえ、風邪を引いてしまいそうなので」
「上着を貸しますよ」
イーノスは素早く上着を脱ぐと、にこやかな様子でシンディに一歩近づいた。
「――お気持ちは有り難いのですが」
やんわりと断ろうとするシンディだが、イーノスは退かない。
庭の散歩道は、一本道だ。後ろには、更に暗い奥へと続く道が続くのみ。
すっかり困り果て、もういっそのこと、一か八かイーノスの傍を走り抜けてしまおうかとシンディが考えていたとき、ふと彼の後ろに影が差した。王宮からの明かりが、一旦途絶える。
「あの……ブランドン嬢」
躊躇いがちな様子の声だった。
「お兄さんが向こうで呼んでましたよ」
「は……なんだ君は」
苛立ったようにイーノスが振り返る。
「いえ、ですからお兄様が呼んでたと伝えに来ただけで」
声の主の格好は、明らかに招待客のそれである。シンディに声をかけられたことは社交界に知られたくないのか、イーノスは乾いた笑い声を漏らした。
「じゃあ、まあ……それなら仕方ないね。じゃあ、今日の所はこれで」
シンディに軽く手を振り、イーノスはきびすを返す。王宮へと戻る道のりで、声をかけてきた招待客に舌打ちをするのも忘れない。
「――ありがとうございます」
シンディは彼に向かって軽く頭を下げた。
「でも、どうしてここに? デリックさん」
「あ……まあちょっと用事があって」
久しぶりに会ったデリックは、シンディから視線を逸らしつつ、気まずそうにそう漏らした。