33:自分と重ねて
舞踏会を目前に控えた日の夜、シンディが夜更かしをするのも通例になっていた。翌日、マナーやダンスの授業があるのはいつものことなので、その日のうちにお昼寝をして臨んでいるのだ。ここまでしてシンディがデリックのことを待っているとは、きっと彼も想像だにしていないだろう。
――シンディは、胸の痛みに気づかない振りをして、デリックの話を楽しむことにした。彼が毎夜来てくれるのは、嬉しいけど辛い。複雑だった。だからこそ、見て見ぬ振りをする。
そのことを抜きにしてみれば、デリックの話は面白かった。生まれてこの方、この街を出たことのないシンディにとって、この街の外側に広がる土地や、そこで暮らす人々の話は、どんなお土産よりも嬉しかった。
シンディは、貴族の娘として生まれた自分を、楽観も悲観もしていなかった。衣食住に不自由しない分、制約も多い令嬢という身分。淑女としての教育に日々明け暮れる中、思うように外出や旅行ができなくとも、それはそれで仕方のないことだろう。
そんなことは、分かっているのだ。
でも、どうしたって、デリックの話を聞く度に、自分も外の世界に行ってみたいと気持ちが膨れ上がっていくのは止められなかった。決してそんなことはできないとは分かっているが、想いを飛ばすだけならば、自由だ。
デリックの話は、時に今まで出会った依頼人の話にまで及ぶことがあった。届け人といえば、色恋が絡んでくるのはなかば必然のこと。依頼ついでに恋愛相談をしてくる者や、一年中手紙を送り続けてようやく想いが実った話、贈り物として大きな機械式時計を届けさせられた話や、それを受け取り拒否されて泣く泣く持ち帰った話など、様々なものがあった。自分にとって雲の上のような話に、ついつい聞き入ってしまうこともままあった。
「それでさ、その家の敷地内で男二人が大声で喧嘩を始めちゃって。真夜中にそんなこと始めるから、近所中が大騒ぎさ。しまいには衛兵まで駆けつけてくるし、もうどうしようかと思った」
「デリックさんは大丈夫だったんですか? また……この前みたいなことには」
「ああ、大丈夫。事の真相は、割と簡単に判明したから」
デリックは小さく肩をすくめた。
「結論から言うと、その女が二股かけてたのさ」
「そうなんですか?」
「うんか二人の男を天秤にかけて、どっちと結婚しようかなーなんて考えてたらしい。誤解が解けてからは、男二人も、なんとなく意気投合しちゃって、そのまま飲みに行こうってことになってた。迷惑をかけたからって、なぜか俺も連れて行かれて。女の方は、近所中にそのことが知れ渡っちゃって、その後もずっと気まずそうに生活してたらしいよ」
「そうなんですか……」
シンディはしみじみと相づちを打つ。
「やっぱり、届け人の仕事は男女の恋愛に纏わるゴタゴタが多いんですね」
「そうだね。それに、予想外のことが起こるのもよくあることだし」
そう前置きをすると、デリックは苦笑した。
「今までで一番困ったのは、依頼人からの手紙を届けに行ったときに、女の子から行為を持たれちゃったことかな」
えっとシンディが小さく息をのむ。そのことには気づかなかったのか、デリックはそのまま続けた。
「依頼人はその女の子を口説くために手紙を送ってたのに、当の女の子は俺のことが気に入っちゃったみたいで。たぶん、毎週のように夜自分の窓辺にやってくるから、その雰囲気に酔っちゃったってのもあるかもしれないんだけど。でも、そんなこと依頼人に言えるわけないしさ。本当、どうしようかと思った」
「…………」
「でもさ、よくよく全部事が終わった後に依頼人が言うには、全部彼の計画のうちだったらしいんだよね。いや、もともとは口説くつもりだったらしいけど、別にその女の子に執心なわけじゃなくて、情報を引き出すためだったらしくて。依頼人にとっては、女の子の口が緩むのなら、惚れる相手は自分でも届け人でもどっちでも良かったらしくて。……それで、依頼人も、女の子がどうやら届け人のことが気になってるらしいって気づいてからは、もっと溺れさせるために手を尽くしたとか。届け人も――俺のことね――君のことが気になってるみたいだとか、この花束は実は届け人が贈ったものだとか、手紙でそれとなくうそぶいたらしくて」
デリックはやれやれと大きなため息をついた。
「全く、あの人は食えない人だよ。二人の文通でそんなことが行われているとも知らず、俺はどうやって女の子の興味が依頼人に向けられるかって真剣に悩んでたのに」
シンディからの相づちはない。
「……シンディ?」
違和感にデリックが顔を上げれば、丁度その時、勢いよくカーテンが開いた。唐突なその出来事に、デリックは当惑する。
「なっ……」
「迷惑、でしたか?」
シンディの瞳は、悲しみに沈んでいた。思わずデリックはその瞳に魅入られる。
「私に思いを寄せられているの、迷惑でしたか?」
「え? いや――」
デリックは咄嗟に否定するが、それ以上言葉が続かない。
「ありがとうございます」
少しの間をおいて、シンディはおもむろに口を開いた。
「私のために……毎日来てくださったことは、本当に嬉しく思います」
仕事も忙しいだろうに、デリックは毎日来てくれた。
きっと、裁判後、初めて行く社交界に不安を抱いていることに、彼はとっくの昔に見抜いていたのだ。けれども、決してそれを口に出さずに、勇気づけるようにずっと側にいてくれた。牢屋にいるデリックに、手紙を送り続けたシンディのように、彼もまた、気晴らしのために話をしに来てくれたのだろう。
でも時に、その心遣いが徒となってしまうこともあるのだ。
「もう充分です。デリックさんには、色々なものを頂きました」
決して、重荷に感じて欲しくなかった。同情で側にいて欲しくはない。綺麗な思い出は、綺麗なままで。
「さようなら」
真正面からデリックのことは見られないまま、シンディは静かにカーテンを閉めた。そのまましばらくその場に佇んでいたが、やがて、力を抜いて寝台に倒れ込んだ。