32:胸の痛み
宣言通り、デリックは毎日シンディの下へやってきた。決まって、夜が更け、辺りに人の気配がなくなった頃にだ。そして、シンディはいつも窓越し……どころか、カーテン越しに彼の対応をした。シンディとて、彼が毎日来てくれることが、嬉しくないわけではない。が、彼が来たとしても、シンディは彼に何ができるというのだろうか。むしろ、今まで迷惑しかかけてこなかった。ようやく兄からの手紙を届けるという役割から解放された今、デリックはもうシンディに囚われる必要はないのだ。にもかかわらず、どうして彼はシンディの下へ来るのか。
カーテン越しに聞こえてくる息づかいと、若干高めの、耳に心地よい声。顔が見えない分、その破壊力は抜群だった。シンディはいつも窓を背に地面に座り込みながら、その向こう側の人を思ってため息をついてばかりだ。
「聞いてる?」
「……聞いてます」
無視することは躊躇われて、シンディは仕方なく返事をする。すると、デリックは嬉しそうに話を続けた。
「やっばりおすすめはテミールかな。一年中過ごしやすい気温で、四季がある。どの季節に行っても楽しいよ」
「ここから結構遠い国ですけど、なぜそんなところに? そこにも仕事で行ったんですか?」
「うん。小さい頃は、修行と称してよくあちこちの国に行かされたよ。テミールには、マジシャンの下に弟子入りのために行ってた」
「マジシャンって……マジック?」
シンディの脳裏に浮かぶのは、シルクハットを被ったデリックの姿だった。こんなことは口が裂けても言えないが……生憎、あまり彼には似合っていなかったように思えた。
「そう。マジシャンの下に半年修行に行ってこいって言われたときは本当どうしようかと思ったよ。俺の本業何だっけって思って」
「独学じゃなかったんですね」
「全部本家の下に弟子入りした賜物だよ。最初は、本業以外の奴に誰が教えるかって門前払いされたもんだよ。師匠に弟子入りするまで一月はかかったな」
案外、その時が一番大変だったかも、と苦笑いしながら零すデリック。彼の苦労が透けて見えて、シンディも笑みを零した。
「でも、そのおかげで素敵なマジックができるんですから。女性にも喜ばれるんじゃないですか?」
「うん……まあね。上司がそういうの好きなんだよ。内面が……乙女というか。客層の半分以上が若い女の子だから、その子達がどういうものが好きか突き詰めた結果、マジックとか花束とかに落ち着いたわけ」
「バラとかウサギとかは、凄いなって思いました」
突然何もないところからものが現れるのだ、何度見てもシンディは驚くばかりだった。
「うん、純粋に喜んでくれる人ならいいんだけど、しらけた視線を送ってくる人にぶち当たるともう……」
思い出したのか、デリックはぶるりと身震いをする。
似合わないことを承知の上でシルクハットを被り、木の上でマジックをやっているにもかかわらず、哀れみの空気を醸し出す輩もいるのだ。いっそ盛大に蔑んでくれた方がまだマジだと思うくらいには、やり始めた当初はいつも落ち込んでいたものだ。今はもう、すっかり神経が図太くなり、そんじょそこらのことではへこたれないようにはなっていた。
「でも、最近は自らマジックの練習をするようにはなってきたよ。上司からの注文が多いからね。アレもやれ、コレもやれって」
「他にはどんなマジックをやるんですか?」
気をひかれ、シンディは尋ねた。ニヤリとデリックは意地悪く笑う。
「カーテン開けてくれたら見せられるけど」
「開けません!」
見たいことは見たいが、その願望のままカーテンを開けてしまえば、思う壺だと笑われるような気がして、シンディは決して譲らなかった。
「なんでそう頑ななの? 別に嫌なことをしようってわけでもないのに」
「…………」
黙り込むシンディに対し、デリックはため息をついて見せた。
「ここ、結構居心地悪いんだから。前の家は、すごく木が大きくて座り心地もなかなかだったけど、ここのは細くて不安定で、いつ落ちるか気が気じゃ――わっ!」
短い悲鳴と、木が大きくしなる音。
シンディはビクッと肩を揺らし、慌てて立ち上がってカーテンを開けた。
「デリックさん!」
「…………」
バッチリ交差する、二つの視線。
「やっと顔が見れた」
「――っ」
騙された、と思ったときにはもう遅い。
僅かに開けていた窓には気づかれていたらしく、その隙間から手を入れられ、カーテンの端を押さえられる。
「……心配だよ。最近、外にも出てないんでしょ?」
「誰から聞いたんですか?」
「お兄さんから」
なんとはなしにそう言われ、シンディは一瞬呆気にとられた。
「なっ……どうして」
「お兄さん、あれからちょくちょくうちの事務所に来るんだよ。君のことが心配らしくて、でも誰にも相談できないからって、俺の所に」
「……それは、すみません」
最近途端に過保護になったアーヴィンは、気晴らしに出かけようとやたらシンディのことを誘うが、シンディはシンディでそんな気分には慣れなかったので、断ってばかりだった。きっと、その足で届け人の事務所にも行っていたのだろう。……申し訳ないやら、情けないやら。
「別にいいんだけど。俺も君のことは心配だし」
「……私のことは大丈夫です。お気になさらず」
何より、重荷に思われること自体、嫌で嫌で堪らない。対等な関係なりたいのに、自分の今の境遇がどうしてもそうさせてくれない。
頼ってばかり、守ってばかりの今の状況に、シンディは情けなくて仕方がないのだ。
まるで、妹のことを心配しているかのように。
いや、実際はそうなのかもしれない。彼に妹や弟がいるのかは分からないが、しかし、きっとシンディのことは恋愛対象には見ていない。
以前なら、それでも構わないと言い切れただろう。シンディは貴族の娘だ。母に言われたとおりの人と結婚して、この家を継ぐのだろう。ならば、想いが通じ合ったとして、意味はない。
「…………」
この胸の痛み。
これも、しばらくデリックに会わなければ、きっとそのうち静まってくれるだろうに。
「また明日も来るね」
毎日来る彼が、それを許してくれない。