31:窓越しの再会
もうそろそろ寝ようとシンディが自室へと下がろうとした時、丁度居間へ入ってきたテレーゼと行き会った。突然のことにシンディが愛想笑いを浮かべれば、これ見よがしにため息をつかれた。
「まだ起きていたんですか。もう寝なさい。明日はダンスの先生が来るんですからね」
「はい」
――シンディが実家に戻ってきてから、数日が経った。裁判のこともあって、テレーゼは、シンディの保護と監視のため、半ば強制的に実家に連れ戻したのだ。シンディも、抵抗はしなかった。自分のせいで家名に傷がついてしまったことは痛いほど理解していたし、母の娘を思う気持ちも分かっていたからだ。
「……もうすぐ舞踏会ですが、心の準備は大丈夫ですか」
居間の入り口で立ち止まったまま、テレーゼは気遣わしげな表情を見せる。
「心ないことを言われるかもしれませんが、どうにか耐えるんです。……王宮からの招待を一度お受けしたのに、それを断るなんてこと、恐れ多くてできませんからね」
「はい、もちろんです」
舞踏会へ行くことはもうずっと前から決まっていたことだ。シンディの独断で裁判を起こしたにもかかわらず、自分が嫌なことだけはやらないなんて、虫が良すぎる。
――かといって、怖くないわけではなかった。裁判以後、シンディは初めて衆目の場に出る。そこでは、守ってくれるものなど誰もいない。やましいことなどないのだから、たとえどんな陰口を叩かれようと、前を向いていなくてはならない。
とはいえ、シンディの舞踏会のパートナーとして一緒に行ってくれるのは、兄のアーヴィンだった。シンディの男性恐怖症を考慮し、また、裁判での影響から彼女を守る役目もあった。気心の知れた仲なので、その点はシンディも安心だった。しかし、パートナーといえど、常に側にいるわけではないので、やはりどちらにせよ覚悟は決めておかなければならないのだが。
「ゆっくり休むように」
「はい。おやすみなさい」
テレーゼとは入れ違いに、シンディは居間から出て行った。慣れ親しんだ階段を上り、自室へと戻る。
部屋に入って、一番にシンディの目についたのは、窓からの月の光だった。部屋にはカーテンはついているのだが、ついいつもの癖で開けたままにしてしまうのだ。ヘレンの家のシンディの部屋にはカーテンがついておらず、いつも陽光や月光が入ってきていたから、そういった自然の光がないと、落ち着かないようになってきていた。
薄暗いが、かといって明かりをつけるほどの暗さでもなく。
そんな丁度いい明かりが心地よくて、シンディは侍女にもカーテンは閉じないよう言ってある。
シンディは窓際に近寄ると、窓枠に手をついて、外を眺めた。
――シンディは今まで、あまりこの窓から外の景色を眺めたことはなかった。勉学やダンス、行儀作法や裁縫など、そういった淑女としての勉強に日々明け暮れる毎日で、景色を眺める余裕などなかったのだ。
闇夜に浮かぶ街の明かりは、こんなにも綺麗だというのに。
不意に、視界の隅で何かが動いた。
風に木々が揺れたのかとシンディはさして気にもしなかった。しかし、それにしては揺れが激しい。ワサワサと、まるで誰かが揺さぶりをかけているような――。
「ご無沙汰」
「――ひゃっ!?」
突然青白い顔がにゅっと目の前に現れて、シンディは後ろに飛び退いた。瞬きを繰り返し、ようやく目の前の人物に焦点を当てる。
「あ……」
「凄いね、この家。敷地も広いし、建物自体も大きい。部屋の前に木がなかったらどうしようかと思った」
おちゃらけて言うデリックだが、シンディはそんなこと聞いていなかった。
「無事で……良かった」
ふわっと微笑むと、窓辺に寄り添う。
「お身体は大丈夫ですか?」
「え? まあ……特に不調はないけど」
「本当に良かった」
「うん……」
会ったら言いたいことは山ほど会ったのに。
いつも反応が素直なシンディだけに、デリックは文句も言えない。しかし、今日の彼は違う。
コホンと咳払いをすると、デリックは不敵に笑った。
「そんなことよりも。あんな別れ方、俺は気にくわないんだけど。もうさよならしたつもりだった? あれだけの手紙で?」
「…………」
シンディは、みるみる眉を下げると、おもむろにカーテンをシャーッと閉めた。目の前であからさまに拒否されてしまったデリックは、ポカンと口を開ける。
「え? ちょっとこれはないでしょ。折角来たのに」
「帰ってください」
窓を背に、シンディはずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
「デリックさんにはご迷惑をおかけしました。本当に……ごめんなさい。私には合わせる顔がありません」
「そんなの気にしないから。取り合えずカーテンだけでも開けてくれない? なんか寂しいんだけど」
「無理です」
とりつく島もない。デリックは閉口し、どうしたものかと頬をかいた。何度か声をかけてみても応答はない。だが、カーテンのすぐ向こうに気配はあった。デリックは長居する気満々で、居住まいを正した。
「君のこと、聞いたよ」
ハッと息をのむ音が聞こえたような気がした。デリックは視線を落とす。
「本当は、お礼を言うのは俺の方だってのに」
「私のためにやったことです」
「格好いいね」
「……そんなこと」
カーテンがほんの少し揺れる。シンディが首を振った様を連想し、デリックは思わず口元を緩めた。
「舞踏会にも行くって聞いたけど」
「……はい」
「誰と行くの? パートナーと行くんでしょ?」
「……お兄様です。お兄様の奥様は、今回舞踏会には出席なさらないようで、お兄様、私と行ってくれることになったんです」
「そっか」
デリックは小さく安堵の吐息を漏らした。舞踏会といえど、傍に兄がいるのなら安心だろう。とはいえ、社交界は気の置けない場所だということは、デリックも重々承知していたが。
「シロは元気?」
暗い話題ばかりなので、デリックはわざと明るい声を出した。
「……元気です。今はもう寝ていますけど。もう随分私にも慣れてくれて」
「触りたいなあ」
「だっ、駄目です!」
ガタガタッとカーテンの向こうから衝撃音が伝わる。
「もう部屋には入れませんから!」
「そこまで拒絶しなくても……」
あんまりな物言いに、若干悲しくなってくるデリックである。冗談で言ってみただけなのに、ここまで本気に取られるとは。
「そうだ、忘れるところだった」
デリックは小さく呟いて、懐から花柄の巾着を取り出した。
「このお金は返すね。何もしてないのに、これはもらえない」
そして窓枠にコトリと置く。デリックの言葉だけで何のことか察したシンディは、パッと身を翻した。
「そんな! もらってください! ご迷惑をおかけして、せめてもの迷惑料ということで――」
「あれは俺の辛抱が足らなかっただけだし。君が気に病む必要はない」
「でも」
「その代わりと言ってはなんだけど、毎日ここに来ようかな」
「はい!?」
驚きのあまり、シンディは遠慮のない声を上げた。
「ど、どうして……」
「仕事の気晴らしに? 届け人って結構気苦労の多い仕事なんだよ。話し相手になってくれない?」
「……それなら、尚のこともうお帰りください。お疲れでしょう? 早く家に帰って休んだ方がいいです」
「今日の所はもう帰るけど、また明日も来るよ」
「話を聞いてください!」
「お休み」
「……っ」
唐突にデリックが挨拶をすれば、カーテンの向こうからは戸惑ったような気配がする。しばらく待ってみると、ごにょごにょと小さくお休みなさいと返す声が聞こえてきて、デリックは思わず噴き出した。顔が見えないだけ、いつもよりシンディの反応が面白く感じて、デリックはその日、相好を崩して家に帰った。