30:素っ気ないお別れ
半信半疑ではあったが、もう出てもいいのか、なんてことは聞かなかった。気が変わったと言われないうちに、デリックはいそいそと牢を出る。千鳥足の牢番の後に続いて、デリックが入っていた牢と同じような檻が並ぶ道を通った。
突き当たりにあった階段を上りきったところで、更に重厚な錠付きの扉を抜けた。そこからはもう淀んだ空気は晴れ、デリックもようやく人心地つくことができた。だが、キョロキョロする暇もなく、さっさと来いと顎で指図される。
地下牢を有している大きな建物から出たのは、それからまた長い廊下を歩いたり、いくつもの部屋を通り過ぎたりした後のことだった。
「さっさと行け」
背中をぽんと押され、デリックは日の光の下に出た。それはとても嬉しいことだったが、しかし気になるものは気になる。
「あの……どうして俺、出られたんですか?」
さすがに、ここまできて間違いでしたとは言われまい。
デリックは恐る恐る尋ねた。
「そんなの俺が知るかよ。上からのお達しだ。さっさと行け」
「…………」
上から、ということは、ファビウスの気が変わって、もう牢屋から出してやろうと思ったのだろうか。
決して感謝はしないが、なんとなく拍子抜けの気分だった。もう出られないと思っていた場所から、何の説明もなくほっぽり出されたのだから。
しかし、出られたことは純粋に嬉しかった。デリックは内心首を傾げながらも、とりあえずは届け人の事務所に向かった。
――もしも今回のことが新聞に取り上げられていれば、事務所に多大な迷惑をかけたことになる。どうか怒られませんように、とデリックが祈る中、彼は事務所の扉を開いた。
「……どうも」
届け人達は皆出払っているのか、中にいたのは、上司のジェラルドのみだった。
大変遺憾ながら、彼はデリックの父親でもある。そして同時にこの事務所の所長をしている。なぜ遺憾なのかは彼の言動を見ていれば容易に察しがつくわけで……しかしこの場には関係のないことだ。
デリックはおもむろにジェラルドに近づいた。彼は、デリックが帰ってきたことをさして驚いた風でもなく、チラッと視線を向けるのみだった。
「おー、帰ってきたのね」
「なにさ、その反応……」
「牢屋から出るの随分早かったなあと思ってね」
書類をめくりながら、何でもないことのように彼は言う。デリックは眉を顰めた。
「どういうこと? 俺が出てくるの、前々から知ってた?」
「まあね、そうなるんじゃないかとは思ってたわよ」
机の引き出しから何やら取り出すと、ジェラルドはそれをデリックに差し出した。
「ほら」
手渡されたのは、数日前の新聞だった。その一面見出しに、デリックは釘付けになった。
「なに……これ」
「見ての通りじゃない。あのお嬢さんが一肌脱いでくれたってわけ」
呆然とするデリックを気にもせず、ジェラルドは淡々と言ってのける。
「あの子のおかげで、私たちもなんとかなりそうよ。新聞に『届け人の不祥事!』って記事が載ったときはどうしようかと思ったけど。でも、お嬢さんが身分を明かした上でファビウス=バラードを訴えたから、私たちへの好奇の目も幾分か減ったってわけ。バラード家の坊ちゃんが有罪になった後、なんだかんだあんたのことも坊ちゃんが悪いんじゃないかって声が上がって、釈放ってことになったのよ」
「…………」
硬く目を閉じ、デリックはジェラルドの言葉を聞いていた。そうして全てを聞き終えると、おもむろに口を開いた。
「……なんでシンディのこと知ってるの?」
あの子、あの子と、まるでシンディのことを知っているかのような口ぶりで。
ジェラルドは肩をすくめた。
「そりゃここにあんたへの手紙頼まれたんだから知ってるに決まってるでしょ。まあ、そのほかにもその裁判について手伝ったってこともあるけど。ほら、お嬢さんだけじゃなくて他にも数人の女性が訴えたって書いてあるでしょ? その人達の居場所については、私たちが調べたのよ。一応私たちだってあんたを助けるために一役買ったんだから」
「なんで止めなかったの」
「止めてどうするのよ。お嬢さんお客様だし、お金払ってくれるって言うし」
彼は饒舌に続ける。
「それに、お嬢さんがそうでもしなかったら、あんたずっと牢屋の中よ? 結果的に良かったじゃない、裁判もいい方に向かったみたいだし、あんたも出られたし」
「いいわけないだろ! こんな……」
本人同士のことなのに、まるで見世物のように新聞にデカデカと載せられて。新聞を見ただけの赤の他人が、面白おかしく吹聴することだってあるかもしれない。尾ひれのついた噂を当人が耳にしたとき、どんなにか悲しむことだろう。
デリックは新聞をたたきつけると、荒々しく入り口へ向かった。
「ちょっとどこ行くの? あんたずっと休み続きで、仕事溜まってんだけど!」
ジェラルドの言葉には全く耳も貸さず、デリックはそのままシンディの家へと駆け出した。
――あんな平穏な手紙を書いている傍ら、裁判の準備をしていたのか。自分はどんなにか心細かっただろうに。
シンディの家に到着すると、デリックは人目も憚らずに大木をスルスルと登った。だが、いつもの定位置にたどり着くまでに、デリックは異変に気づいた。――窓から覗く部屋の様子が、いつもと違う。
シンディの部屋のなから、ガランとしていた。ベッドやテーブルなどの大きな家具はそのままに、細々とした生活感を思わせる小物が全てなくなっていた。シンディがもうこの部屋に住んでいないことは、忽然と消えたシロのケージを見れば明らかだった。
「何だよ、これ……」
思わず窓に手を伸ばせば、窓枠の隅に、小さな巾着袋が置かれていることに気がついた。可愛らしい小花柄のものだ。
デリックはすぐに手に取って中を開いた。ずっしりと重たいその中には、明らかに多すぎる量のお金と、小さく折り畳まれた手紙が入っていた。
何が書いてあるかはもうあらかた予想はついていたが、それでもデリックは辛抱強く読む。
手紙には、これまで迷惑をかけ続けたことへの謝罪と、そのお詫び、そんなことが長々と書いてあった。それ以外のことについては、欠片も言及していない。嫌にあっさりした手紙だ。
――たったこれっぽっちで縁を切ったつもりか。
手紙を握る手に思わず力が入る。手の中でクシャッと音を立ててようやく、デリックは正気に返って木を降り始めた。
――届け人をなめてもらっちゃ困る。
不敵に笑うと、デリックは早速事務所へと駆けていった。