29:希望の手紙


「出ろ」

 暗闇の中から突然そんな声が聞こえてきたとき、デリックは、とうとう自分も幻聴が聞こえるようになったのかと半分呆れもしていた。。
 ――ジメジメとした牢屋に入れられてから半月ほど。
 名のある名家の息子を殴ったとのことで、デリックは弁明もできないまま暗闇の中に閉じ込められた。ファビウスを殴ったことについてはデリックも後悔していなかった。あの男はそれだけのことをしたのだ、むしろ、もっとやっても良かったかもしれない。
 しかし、届け人として仕事をしていたときに騒動を起こしたというのは頂けなかった。せめて、ただの平民として問題を起こしていたら、事務所にも迷惑をかけなかっただろうに。
 数日ほどは、デリックも状況を甘く見ていた。殴られてカッとなってデリックを牢屋に入れたのだろうから、ほとぼりが冷めたら出してくれるだろうと。しかし、一週間経っても音沙汰はない。躊躇いがちに牢番に、自分はいつ出られるのだろうかと尋ねてみたところ、出られるわけがあるかと返された。――絶望を感じたのはその頃だろうか。

 デリックは、ファビウス=バラードという人物の人となり、そして彼の後ろ盾ともなる生家のバラード家の権力を甘く見ていた。彼は、少し日を開けてからといって自分の行動を反省するような輩ではないし、バラード家は、たった一人の平民を永遠に牢屋に閉じ込めるほどの力は持っていたのだ。

 ――もしかして俺、ずっとこのままかも。

 そんな考えすら浮かんだ。それはそうだろう。一週間何の音沙汰もないし、知り合いが面会に来ることすら適わない。デリックの親類に、貴族に口利きできるような者はおらず、そうなれば、騒動を起こした問題児など、届け人の事務所であってもすぐに切ってしまっても仕方のないこと。
 一週間を過ぎて、もはや何の希望も見込めないことを悟ると、デリックは無気力なままに牢屋で一日を過ごすようになっていた。特にこれといった未練があるわけではないが――しかし、誰だって牢屋なんかで一生を過ごしたくないに決まっている。
 悲しみとも諦めとも似つかない感情でゴロゴロ過ごしていると、コツコツと石牢を歩く音がした。いつもの酔いどれ門番の千鳥足ではない。不審に思って顔を上げれば、己の意志に反して、デリックの口はあんぐりと開いた。

「……間抜け面」
「なんで……ベイル、お前」
「仕事しに来たんだよ」

 ため息交じりに、ベイルはそう発する。

「全く、どうして俺がこんな所に」
「仕事って……ここに? なんで?」
「俺が知るかよ」

 吐き捨てるように言うと、ベイルは檻の隙間から手紙を差し出した。
 汚れも見当たらない真っ白な封筒。
 それは、この牢屋には似ても似つかないように見えた。

「えっ、俺に手紙?」
「そうだよ」
「誰から?」
「見れば分かるだろ」

 素っ気なくいうと、ベイルはデリックに無理矢理手紙を押しつけた。大人しく差出人の名に目を落とせば、デリックの目は見開かれる。

「シンディって!? ベイル、彼女に会ったの?」
「会ったよ。お前のこと聞かれて、その後手紙渡して欲しいって」
「そうか……」

 ――なぜわざわざ手紙なんて。きっと、俺が牢屋に入れられたことを自分のせいだと感じているのだろう。
 容易に想像がつき、デリックはふがいない思いに捕らわれる。

「俺、あの人嫌いだ」

 デリックが手紙を開こうとする矢先、唐突にベイルが言い出した。作業を中断し、彼は顔を上げる。

「なんで?」
「なんか……気にくわない」
「そうなの? 俺、彼女ほどいい子知らないんだけど」

 初めて会ったときは、身持ちの堅そうな子だとは思ったが、何度か接するうち、そんな思いも消えていった。むしろ、毎度毎度挨拶してくれたり、軽食を出してくれたりと、性根の優しい子だ。
 ベイルは何か勘違いをしているんじゃないか。
 そんなことをつらつらとデリックが述べれば、ベイルは訝しげな表情になった。

「好きなの?」
「えっ」

 唐突に聞かれたその内容に驚き、戸惑う。

「や、え? 別に、好きというか……え?」

 なぜそういう話になるのか。
 デリックが混乱している間に、いよいよベイルは呆れたような顔に変化した。

「そういう意味じゃなかったんだけど」
「え、あっ、人として好きかってこと?」

 自分で聞き直して、ようやくデリックも合点がいく。
 ――だったら最初からそう言えばいいのに。
 分かりにくい言い方に、デリックはへそを曲げた。が、それでも質問に答えないほどではない。

「――人としてはもちろん好きだけど……。素直でいい子じゃん」
「素直? どこが」

 ベイルはデリックの返答を笑い飛ばした。

「お金持ちなのを鼻にかけてそうだし、冷たそうだしで俺嫌い」
「冷たそうだしって……全部憶測だろ?」
「憶測じゃないよ。実際に何度か話したし。でも素っ気なかったし」

 素っ気ないのはお前の方だろうと、デリックは内心突っ込んだ。――自分も人のことは言えないのだが、デリックはそのことに気づきもしない。

「じゃあもう行く。用は終わったし」
「あっ、おい!」

 もっと聞きたいことは山ほどあったのだが、つれないベイルはそのまま行ってしまった。

「何だかなあ……」

 久しぶりに会ったというのに、用が終わったらさっさと帰ってしまうのか。
 長い牢屋生活で、いろいろとやさぐれていたデリックは、内心ブツブツ文句を言いながら、シンディからの手紙の封を切った。
 仕事の都合上、今まで届けてきた手紙は数知れなかったが、なんだかんだ、自分宛の手紙を受け取るのは初めてだった。この街に産まれ、そしてずっとここで育ってきたのだから、それはそうだろう。

 ――手紙には、自分のせいでデリックが牢屋に入れてしまったことを謝罪する旨がつらつらと書かれていた。何度も何度も出てくる謝罪の言葉に、デリックはつい苦笑を浮かべる。
 彼女のことだから、余計に自分の責任に感じているだろうことは容易に想像できたが、まさかここまでとは。
 そもそも、悪いのは権力を乱用しているファビウスであって、シンディにその責任は欠片もない。先に手を出したのはファビウスだし――デリックが殴り返したのは悪かったかもしれないが――シンディが気をもむ必要はないのだ。
 しかし、そうはいっても、今のデリックに、そのことを彼女に伝えられる手段はない。唯一の架け橋になってくれそうなベイルももうここにはいない。
 ため息をつくと、デリックはその手紙を大切にしまい直した。そうして辺りを窺いながら懐に仕舞う。物を隠せるような場所が、ここ以外に存在しないのだから仕方がない。
 これからまた代わり映えのしない牢屋生活が待っているのだ。

 そう思ったデリックだったが、その予想に反して、シンディからの手紙は数日おきに届いた。届け人はいつもベイルで、大して話もしないうちに彼はさっさと帰っていく。拍子抜けしながら手紙を開ければ、そこには最初の手紙とは打って変わって、明るい文体で日常の細々としたことが書かれていた。シロが手ずから餌を食べたとか、膝の上でお昼寝してくれたとか、抱っこすることができたとか。……ほぼほぼ、シロ観察日記のようになっていたことは否めない。時々、シロ以外ではシンディの思い出話が出てくることはあれど、そのほとんどはとりとめのないことばかりだった。
 いつもベイルがやってくる頃合いになる度、そわそわしている自分に気がついたとき、デリックはようやくシンディからの手紙を待ち望んでいる自分に気がついた。時間の感覚も分からない地下牢は、思った以上に退屈でたまらないのだ。そんなとき、とりとめのない話を書き連ねているシンディの手紙が、思ったよりも楽しみになっていたのた。本人には悪いが、書いている内容は本当にくだらない。でもそれがいい。自分の今の状況を、一時でも忘れることができるから。
 シンディの本意にようやく気づき始めたのは、もう十通近く手紙を受け取った頃だった。
 そうして、十通目の手紙を今か今かと待っていたとき。

「出ろ」

 思いも寄らない声を聞いたのだ。