27:判決
「忘れたとは言わせないよ、ファビウス=バラード」
マーシャの第一声は、思いのほか落ち着いていた。
「あたしは四年前バラード家から追放されたメイド、マーシャだ。あたしは幼い頃からずっと真面目に働いていたのに、思春期になったあんたはあたしに手を出した。嫌がるあたしを押さえつけてね。あの時は怖くてずっと黙っていることしかできなかったけど、今なら言える。――よくもまあ、お前の粗末なもんをあたしの中にぶっ込んでくれたね! おまけに下手すぎていつも痛くて堪らなかったよ!」
赤裸々な物言いに、思わずと言った笑いが起こる。裁判長は堪らず空咳をした。
「原告、言葉を慎むように」
「――失礼しました」
マーシャはすぐに素知らぬ顔で謝った。対するファビウス含む原告側は、怒りと屈辱で顔を真っ赤にするばかりだ。
「今の発言は全くのでたらめだ! 私はどこの馬の骨とも分からぬメイドなぞに手を出したことはない!」
「証拠があればいいのかい?」
マーシャは薄く笑った。咄嗟のことに、ファビウスは怯む。彼が何も言えずにいる間に、マーシャは傍聴席の方に近づいた。辺りがざわめく中、彼女は両手を伸ばした。
「――おいで」
優しい声だった。皆が呆気にとられる中、マーシャの腕には、小さな男の子が行き渡った。年の頃は三歳ほどだろうか。「誰か」にそっくりなその少年に、皆の視線はついファビウスへと集まった。
「皮肉なこったねえ。この子はあたしが誰よりも嫌いな男に似ちまったよ」
優しく少年の頭を撫でながら、マーシャはシンディ太刀之本に戻ってきた。
「でも、この子は酔っ払いにも優しい子でね。全く父親とは似ても似つかないよ。どこの馬の骨とも分からなくても、出会う人皆に笑顔を振りまいていくんだ」
本当に嬉しそうな表情で、男の子の頬を撫でるマーシャ。粗末な身なりから溢れ出る母性に、皆は知らず知らずのうちに引き込まれる。そしてそれとは対照的に、父性の欠片もない――いや、男としての威厳すらないファビウスの有様に、失笑が起こった。
さざ波のように広がっていく笑い声に、ファビウスは真っ赤な顔で傍聴席とマーシャとを睨み付けたが、そんなもの彼女にとっては痛くも痒くもなかった。
「黙ってて悪かったよ」
少し下がって、シンディにだけ聞こえる声で彼女は囁く。
「あたしも直前まで迷ってたのさ。でも、こんなに可愛い子を、まるで隠すみたいに育ててるのがだんだん馬鹿らしく思えてね。いっそのこと、みんなに自慢しちまおうって思ってさ」
「……後で紹介してくださいね」
シンディが微笑むと、マーシャは片目をつむって返事をした。
「原告側、これについてはどう反論する? これ以上ない証拠が現れたが」
「合意の下だった!」
開き直って、ファビウスはそう宣言した。
「あの女とは、合意の下でした! そもそも誘ってきたのはあの女からで! 私の財産目当てに――」
「……あたしとそういう関係になったことは認めるんだね?」
「――っ!」
鋭い声に、ファビウスはたじろいだ。しかし、それも一瞬のことで、すぐに彼は頷いた。
「み、認める……が、断じて無理矢理ではない! お前の方から誘ってきたくせに、今更になってそんなことを言ってくるなんて卑怯にも程があるぞ!」
「生憎ながら、あたし、他にも有力な証人を連れてきました。裁判長、彼をここへ呼んでも?」
「何をっ――!」
「被告人は下がりなさい。原告側の証人、前へ」
「はっ、はい!」
シンディとマーシャが場所を空けると、そこに背の低い男が立った。
今までずっと席の影に立っていて、今初めて衆目の場に立たされたのだ、男は緊張で震えながら、懸命に声を押し出した。
「あ、あっしは……いえ、私は、四年前、バラード家の庭師をしていました。そこでは、私の父の代から働かせてもらっていて、バラード家当主様にも非常に恩も感じていました。でもある日、突然若様――ファビウス様に呼ばれて、お、お金を、受け取りました」
ざわっと傍聴席が騒がしくなった。給金や賄賂など、貴族とその使用人との間のお金のやりとりは多い。しかし、ここで語られる金銭のやりとりは、そんな類いではないだろう。
「若様がおっしゃるには……め、メイドのマーシャさんのお腹の子は私だと、そう皆の前で証言してほしいと。もしそうしてくれれば、更にお金をあげると、ファビウス様に言われたんです」
「なっ――」
「ち、誓って、私はマーシャさんとそのような関係ではありませんでした。でも、私の家は貧しく、病気の妻もいて、その時は喉から手が出るほどお金が欲しく……ファビウス様の命に、従ってしまいました」
「違う! 全くのでたらめだ! こんな奴の言うことなど信用できるわけがない!」
ファビウスが苛立たしげに椅子を叩く音にも負けず、男は声を張り上げる。
「そ、その時、ファビウス様はこうもおっしゃってました。女はすぐ孕むから手がかかると。今度は無抵抗でもっと従順な女を見つけなければ、と」
「貴様っ!」
「被告人、静粛に」
裁判長には逆らえず、ファビウスはめまぐるしく顔色を変化させる。裁判長は男に顔を向けた。
「一つ質問がある」
「は、はい」
「お主は、被告人ファビウス=バラードの甘言に乗り、一度汚いお金を手にしたという。なぜ今再びここで真実を明かす気になった? 今の話を聞くに、お主の証言が信用に値するか、私は信じられずにいる」
「っ……」
ハッとして男は裁判長を見上げた。しかしすぐには言葉が出てこず、下を向く。
「私は……」
弱々しい声だった。
「後悔、しています。出所不明のお金を、病床の妻は使うことを許さず、そのまま何の治療も受けずに天へ昇っていきました。……もしも、私があるべき信徒のように、真面目に、懸命に働いてお金を稼いでいれば、妻は死ぬことがなかったのかもと、今でも時折思います。……ファビウス様からもらったお金は、使わずに今も持っております。裁判が終わった後、お返ししようと思っています。そして……私のせいで、多大な迷惑をかけたマーシャさんにも深くお詫びをしたく」
濡れた瞳が、堂々と前を向くことはない。シンディ達の位置からも、彼の背中は一層小さく見えた。
胸の痛む話だった。
このような場で少し耳にしただけでは、到底全てを把握しきれない話。
しかし、今回の問題はそこではないのだ。この話は、後々マーシャと彼とが面と向かって話す話――。
「では、判決を言い渡す」
裁判長の凜とした声に、ファビウスは思わず前のめりになった。
「裁判長! 今の証言を真に受けるのですか!?」
「被告の身の潔癖を立証できるような証人がいるのであれば、前へ」
「――っ!」
ファビウスは慌てたように己の弁護人に視線を走らせるが、彼は黙って視線を逸らすのみだ。証人を連れてきてはいたものの、彼はバラード家の使用人に過ぎず、そして、賄賂を渡し、ファビウスに有利な証言をするよう言い含めているに過ぎない。シンディの侍女の証言が棄却された今、同じく「身内」である使用人の証言など当てにできないのだ。
「被告人ファビウス=バラードを――」
響き渡る重々しい声を、シンディは、祈るように聞いていた。