26:開廷


 法廷に原告側が入廷したとき、傍聴席は確かにざわめいた。
 乱暴な男に無体を強いられた可憐な女性達の入廷――そんな想像をしていたのに、根底からその考えを覆されたからだ。
 ――顔の上半分を覆った物々しい仮面集団。
 それが、彼女たちを目にした第一印象だった。

「な、何だお前達その格好は!」

 被告側――バラード家の弁護人と思われる男が慌てて椅子から立ち上がる。

「公正な法廷の場で、そのようなことがあって許されると思っているのか!」
「許可は頂いております」

 仮面をつけている集団の中で、唯一素顔をさらしているシンディが、落ち着いた声を放った。

「身体の汚れは、男性よりも女性の方が多大な被害を被ります。彼女たちは一度事件のせいで心身共に傷ついているのに、この裁判でもう一度その傷口をえぐれとおっしゃるんですか?」
「性別を盾にするなと言っておるのだ! そもそも仮面をつけ素性を隠せば罪のでっち上げなどいくらでも可能だ! そうすればこの裁判自体公平性を欠くとして取りやめになるぞ! いや、私が取りやめにしてやる!」
「そうだそうだ!」

 途端に原告側のすぐ後ろの傍聴席からもヤジが上がる。おそらくバラード家の一味の者か、それに追随する下級貴族の者たちだろう。
 あらかじめ、このような事態は想定していたシンディだが、さて、どこから言い返そうかと考えていると、目の端にチラリと映るものがあった。

「許可は与えた」

 裁判長が、今まさに入廷しようとしている所だった。彼の入廷に、慌ててその場の者は皆起立し、彼が一礼するのに倣う。裁判長が席に着いたところで、弁護人は慌てて先の主張を繰り返した。

「こんなことはあってはなりません! このような行為を一度許可すれば、今後同じように素性を隠して罪をなすりつけてくる輩だどんどん増えていくことでしょう」
「――弁護人の言うことにも一理ある」

 法廷全体がざわめいた。まだ裁判が始まってもいないのに、流れが傾こうとしているその敏感に感じ取ったのだ。
 しかし、裁判長は更に続けた。

「が、私は原告側の切なる訴えと心情を鑑みた結果、許可を与えることにしたのだ。原告側の訴えに矛盾が生じる場合はもちろんのこと、証言があやふやな場合も、残念ながら訴えは棄却するとも伝えた。そして最終的に、判決に不利が生じることになっても、構わないとの署名は受け取った。被告側はそれでも不満がおありだろうか?」
「……っ!」

 弁護人は更に何か言おうとして口を開いたが、やがて乱暴に椅子に座った。腹立たしいことだが、しかし、よくよく考えてみれば、確かにその方が自分たちに有利だと思い当たったのだ。素性を隠している者が訴えたとして、どこにその証拠があるのだ、と。

「まず被告人、前へ」

 厳かな裁判長の声が響き渡る。それに従い、ファビウスは不満げに証言台に立った。

「バラード公爵家三男、ファビウス=バラードで間違いはないな?」
「はい。間違いありません」
「では原告側。訴状を読み上げよ」
「はい」

 シンディは更に一歩前へ出た。一度法廷をゆっくり眺め、心を落ち着かせる。

「被告ファビウス=バラードは、ここ数年にわたって、数々の女性に無体を働きました。私シンディ=ブランドンもその一人です」

 自ずと震えてしまう声を、シンディは手の甲をつねることで自らを律した。

「半年前の五月のことでした。リズベルト伯爵家で舞踏会が開かれ、私もファビウス=バラードのパートナーとして赴きました。ダンスを終えた後、私は彼に散歩を誘われました。私もそれを承諾し、庭へ行く途中、一室に連れ込まれ……無体を強いられました」

 声が震え、シンディは一旦声を止めたが、すぐにまた再開する。

「幸い、私の侍女が途中で助けに来てくれたため、一線は越えませんでした。しかし、その時の恐怖が身に染みて、今でも私は男性が恐ろしいです」
「……っ!」

 何か言いたげにファビウスは口を開きかけたが、隣の弁護人に制せられる。
 シンディの次に前に出たのは、仮面をつけた背の高い女性だ。

「あたしは、数年前バラード家に務めていたメイドです。幼い頃からファビウス=バラードには慰み者にされており、ついにお腹に子を宿したとき、子どもは堕ろせと詰め寄られた後、屋敷から追い出されました。――証人だっています」

 彼女は憎々しげに付け足す。だが、まだ証人の出る幕ではないので、彼女はそれで一旦下がる。
 そんな流れで、次々に残り三人の女性達がファビウスの罪を上げ連ねていった。被告側で席に着いているファビウスの顔色が、次第に怒りで染まっていく。

「では、被告人」

 女性達による糾弾が終わった後、ついに裁判官の目がファビウスに向いた。

「先の原告側の訴え――これらを認めるか?」
「いいえ」

 ファビウスは、堂々たる態度で言ってのける。

「私には全く身に覚えのないことでございます。彼女たちの訴えは、全くの濡れ衣であると断言いたします」

 そうして、まるで傍聴席の者たちをも味方に引き入れるよう、ゆっくり見渡した。

「そもそも、シンディ=ブランドンは、その日私のパートナーとして舞踏会に参上されたのです。その時点で私のことを憎からず思っていたにもかかわらず、そのような誤解を生むような発言、私としては彼女の考えていることがよく分かりません」

 彼の言葉に賛同するような声が傍聴席からも上がった。シンディは静かに手を上げた。

「発言よろしいでしょうか」

 裁判長はこれを承諾し、話すよう促した。シンディは一呼吸置いて口を開く。

「確かに、私は彼のパートナーとして舞踏会に行きました。しかし、誰がバラード家のパートナーの申し出を断ることができましょうか? 私はその時、お慕いする相手もおらず、また、家のために政略結婚をすることも厭わなかったために、ファビウス=バラードの申し出を受け入れました。数回話したことがあるだけでしたが、まだこの時は彼のことも憎からず思ってはいたのです」

 皮肉げにシンディはファビウスを見た。一瞬目があったが、すぐに忌々しげに視線を逸らされる。

「では、原告側。訴えを立証できるような証人は」
「はい。私の侍女が来てくれています。事件のあった日、実際に助けに来てくれた――」
「ブランドン家の使用人であろう? 身内も同然じゃないか。裁判長、そのような信憑性のない証人を受け入れれば、この裁判の公平性自体を欠くこととなります」
「…………」

 しばしの時間、裁判長は逡巡するように黙した。しかし、やがて彼は重々しく結論を下す。

「信憑性があるかどうかは、証人の話を聞いてからにしよう。原告側の証人、前へ」

 その声に、後ろで控えていたシンディの侍女が、緊張した様子で前に出た。彼女は、精一杯事件当日のことを詳しく話した。多少シンディの心情を過剰に表現することはあったが、彼女の証言は、極めて客観的で事実そのものだった。だが、それは当事者のみにしか分からないこと。彼女の証言だけでは、立証には至らない。
 裁判長はそのように判断し、侍女の証言を無効とまではいかないものの、決定的な証拠とは至らないと判断を下した。
 それにより、一気に被告側の緊張感が緩んだ。彼らにとって怖いのは素性を露わにして平等な立場に立っているシンディだけであって、仮面の女性達はそもそも脅威の数に入っていないのだ。

「原告側、他に証人は?」
「聞くだけ無駄では?」

 裁判長の言葉に続き、ファビウスは肩をすくませた。

「素性を隠しているというだけでもう怪しいのに、更に彼女たちが用意する証人など、信用できるわけがありません」

 クスクスと笑い声が漏れる。その大半がバラード家の者と野次馬達ばかりの傍聴席からだ。

「身なりもみすぼらしい者たちばかりだからな」
「どこの馬の骨かも分からない」

 次第に広がっていく嘲笑に、口を慎むようにとの裁判長の制止も入る。が、水を得た魚のように彼らが静まることはない。

「どうせその仮面の女達も、そこいらの遊女を金で雇って連れてきたのではないか?」
「――信じるも信じないも皆様の自由です!」

 あんまりな物言いに、シンディは咄嗟に叫んでいた。裁判長から発言の許可はまだ得ていない。しかし、じっとしてなどいられなかった。

「確かに彼女たちは素性を隠しています。ですが、誰がもう一度傷つきたいと思うでしょうか! ファビウス=バラードに苦しめられた時だけではありません。その後、数日、数週間、いえ、何年経ってもその傷は癒えることなくずっと苦しめられてきたんです! にもかかわらず、今度はそのファビウス=バラードに罪を償わせるためだけに、どうして衆目の場で自らの身体が穢されたことを明かさなくてはならないのでしょうか!」

 ただ、たった一人の男の罪を日の下に暴きたかっただけなのに。

「このような裁判に出ること自体、私たちにとっては耐えがたい苦しみなのです」
「だったら家に引きこもっていればいいだろう」

 噛みしめるように言うシンディをあざ笑うかのような笑いが傍聴席からもれた。シンディはすぐに凜とした顔をその声の方へ向ける。

「このままじゃいけないと思ったからです」

 そしてゆっくり法廷全体を見渡した。

「過去に苦しめられたまま、自分の殻に閉じこもっていたら駄目だと気づいたからです。自分を変えたいと思ったからです。そう思って、今日この場にきたことが、そんなにいけないことなんでしょうか?」
「…………」
「――私、シンディ=ブランドンは、ここにいる女性達を代表して、逃げも隠れもいたしません。文句があるのなら私にお願いします。納得がいくまで、私は戦い続けます」

 宣戦布告のように、シンディはファビウスを睨み付けた。腹立たしげに顔を歪めるファビウスだが、今度こそ彼は顔を逸らさなかった。
 裁判がまた振り出しに戻った。
 誰もがそう感じたとき、静かになった法廷に凜とした声が響いた。

「あーあー、うるさいねえ。これだから理性のない男ってのは嫌いなんだ」

 しっかりとした口調に、粗野な物言い。
 皆の視線はすぐに原告側へと向けられた。

「ま、マーシャさん……!」

 小さくシンディが呟く。
 マーシャは、いっそ清々しく仮面を剥ぎ取っている最中だった。シンディと目が合うと、茶目っ気のある黒色の瞳が細められる。

「悪いね。あたし、堪え性がないもんで、これ以上黙ってみていられないよ」

 そうして前に進み出るマーシャ。
 呆気にとられるシンディだが、すぐに彼女のために場所を空けた。
 仮面を脱ぎ捨て素顔を晒したマーシャに、すぐに法廷中の視線は集まった。嘲笑をも含むその視線の数々に、シンディは胸が痛むが、それでも顔を上げ続ける。
 後ろにいる同志達の存在だけでも有り難かったが、今は隣の彼女が、頼もしく思えて仕方がなかった。