25:運命の日
王宮での舞踏会を一月半後に控えていたとある冬の日、上流階級層を震撼させる事件が起こった。それは瞬く間に世間に広がり、衆目のしれるところとなる。
――曰く、古くから王家との繋がりのあるバラード公爵家の三男ファビウスが、婦女暴行の罪で集団訴訟されたと。そしてそれは、一時彼の婚約者となるのではないかと囁かれたブランドン伯爵家令嬢シンディを筆頭に、五名もの女性達によるものである、と。
訴訟を起こされたファビウスは、一時自宅に軟禁状態になり、対する唯一被害者の中で素性を明らかにしていたシンディは、世間の好奇の目にさらされた。あらかじめそのことを想定していたシンディとアーヴィンは、一時小さな宿屋に身を隠すようにして寝泊まりしていた。二人の母テレーゼは、新聞にてこの事実を知ったため、驚きと絶望のあまり卒倒してしまったという。娘の今後のためを思ってひた隠しにしていた事実が、その当人によって世間の目にさらされたのだからたまらない。
シンディは、そのことを自家の執事ウィリアムから聞かされたが、家に帰るようなことはしなかった。現在、ブランドン家の前は野次馬で溢れているだろうし、帰ったところで、訴訟を取り下げろと言われるだけだからだ。
シンディ達は、一週間後に控えた裁判のために、着実に準備を進めていた。時折、同志となる女性達と、届け人による連絡を取り合いながら、意志を固めていく。
シンディが考えていた以上に、届け人はしっかりした情報網を持ち、同時に個人情報の保護に厳しかった。彼らは、名前しか知らない人物でも、どこで何をしているのか、そしてその者が住む住所まで調べ当てたのだ。とはいっても、王家御用達の紋章を賜っているだけはあって、情報の保護にはうるさい。依頼者の名前、住所から始まって、何のために知りたいのか、何をするのかまで聞いてくる。そしてその情報に見合うだけの代金を請求されるのだ。
社交界で度々上がっていたファビウスの女性関係の噂について、アーヴィンが調べ、そしてそこから浮上した女性の名前を、届け人の事務所で調べてもらい、シンディが実際にその者の元へと行く算段だ。
何名かには断られたが、訴訟を起こすには十分な人数が集まった。名のある貴族の令嬢が筆頭だということで、世間の注目も集まっていた。
こうなることがシンディの目的だったのだが、いざそうなると、シンディは内心怖じ気づいてもいた。今は社交界から離れた身ゆえ、心ない陰口や噂話とは無縁になっている。しかし、いずれシンディも、貴族の娘として、また社交界に向かわなくてはならないのだ。その時、周りからどんな目で見られるか。――そのことを思うと、不安で夜も眠れないのだ。
それでも、裁判の日は着々と近づいていた。
*****
訴訟を起こしてから半月後。周りの声もあってか、思った以上に早く裁判の日はやってきた。眠れない夜を過ごした後、シンディは朝早くベッドから身を起こし、身支度をしていた。やがて、アーヴィンと、ヘレンも起きだし、言葉少なに朝食をとる。
「シンディ。何があるか分からないから、今日は早めに出るよ」
「もちろんです。もうすぐ支度も終わります」
この日のために、念入りに準備をしてきたのだ、遅刻するわけにはいかない。
「お嬢様、ここに座ってください」
ヘレンが椅子を引いた。シンディは何も言わず、そこに座る。そしてまるで昔のように、彼女はシンディの長い髪を梳いた。
始めは、シンディはアーヴィンと二人きりでこの宿に泊まっていたのだが、そのことをヘレンに宛てた手紙に書くと、彼女も少ない荷物を持ってここに現れたのだ。新聞でシンディのことを知ったのだろう、到着するやいなや、彼女はシンディを強く抱き締めた。そして、何を言うでもなく、いつも以上にシンディの世話を焼いたのだ。
「シンディ、そろそろ」
アーヴィンの声に、ヘレンは慌ててシンディの髪を結い上げた。シンディの世話をしていたのは随分昔だとは言え、その腕は衰えていない。
そうして身支度が終わると、ヘレンは鏡越しにシンディと目を合わせた。身をかがめ、彼女の耳元で囁くように言う。
「私は、何があってもお嬢様の味方ですからね」
「婆や……」
「いってらっしゃいませ」
何年経っても、安心する微笑みだ。
シンディもやっとの事で笑ってみせると、思い切って立ち上がった。
本当は、昔に戻って彼女の胸の中に飛び込みたい気持ちで一杯だった。本当は心細いのだ。怖いのだ。でもそんなことを言ってはいられない。
「ありがとう、婆や。いってきます」
ヘレンに笑みを返して、シンディとアーヴィンは宿を出た。人目につかぬよう、帽子を深く被る。目指すは、王宮のすぐ近くに位置する裁判所である。
裁判所に到着すると、シンディ達はすぐに控え室に通された。ここまで来れば、曰くありげに帽子を深く被っている、身なりの良さそうな二人組はひどく目立つらしく、すぐに原告のブランドン家の者ではないかと野次馬達に遠巻きに見られた。そのせいもあったのだろう。
原告と被告とに分かれている控え室、シンディ達はもちろん原告側だ。帽子を脱ぐと、扉の前で数回ノックをした。
「どうぞ」
「失礼します」
早めには来たつもりだったが、それでももう誰かいるのかとシンディは驚きつつ扉を押し開けた。中には、もうすでに二人集まっていた。
「おはようございます。お早いですね」
「ようやくこの日が来たかって思うと、いても立ってもいられなくてね」
言葉の割には、ゆったりと椅子に座りながら、マーシャは笑った。
シンディとは正反対の性格のようだが、優しさと気高さを持ち合わせている彼女に、シンディは尊敬の情を抱いていた。
そして次に、シンディは彼女の隣に立っているティナへと目を向ける。
「ティナ様も、来てくださってありがとうございます」
「……やっぱり、まだ少し不安ですけど、でも、ここまで来たらやるしかありませんもんね」
どことなくあどけなさの残る顔で、ティナは微笑んで見せた。
かつての自分と似た彼女に、協力の承諾をもらえたとき、シンディが一層勇気をもらえたのは確かだ。
「紹介します。こちら、私の兄です」
シンディは一歩ずれると、アーヴィンへと身体を向けた。
「アーヴィン=マレットと申します。今回は妹の付き添いできました。今日は来てくださって本当にありがとうございます」
妹の同志とも言える二人にアーヴィンが深く頭を下げれば、マーシャとティナは慌てて首を振った。
「そんな、よしとくれよ。あたしは自分のためにここに来たんだし」
「そうですよ! むしろ、このような場を設けてくださって、私も有り難く思ってるんです」
二人の温かい言葉に、シンディとアーヴィンは顔を見合わせて微笑んだ。本当に良い仲間に巡り会えたと。
しばらく間をおいて、他の女性達も続々到着し始めた。そのたびに、シンディは軽く挨拶をし、アーヴィンを紹介した。そして各々身支度を整えて、その時を待つ。
「……もうすぐ、開廷の時刻ですね」
固い声で、シンディはそう発した。いつの間にか、控え室は重苦しい沈黙に包まれていたためだ。気を紛らわすために、何か話題でも探そうとしたが、それを言葉にする前に、控え室の扉が開いた。
「原告側、入廷お願いします」
「……っ!」
その声に会わせて、皆が一斉に立ち上がった。彼女たちの視線は、自然とシンディの方へ向く。
「…………」
皆を鼓舞するために、何か発した方がいいのかもしれない。
シンディはそう思ったが、結局頭が空回りするだけで、有益なことは何も思い浮かばない。
「行きましょう」
その代わり、皆の先頭に立った。暗い廊下を通って、いよいよ法廷に足を踏み入れた。