24:かつての自分


 早朝、シンディは外套を羽織った出かけようとしていた。
 ここ連日の雨で、気温は随分冷え込んでいた。風邪なんて引いていられないと、シンディの身支度にも一層気合いが入るというもの。
 軽く朝食を食べて後、早速彼女は外に出た。傘を差し、さあ行こうと足を踏み出しかけたところで、門の所に人が立っているのが目に入った。
 反射的に、ファビウスだろうかと彼女の身体が硬くなる一方で、すぐにその正体に気づく。

「お兄様!」

 こんな時間にどうしたのだろうか、とシンディは彼に駆け寄った。だが、彼の暗い面持ちに、自然、シンディの顔から笑みが消えた。

「どうかなさったんですか?」
「……こっちの台詞だよ。シンディ、こんな時間からどこへ行くんだい?」
「……っ」

 咄嗟にシンディは下を向いた。流れるように嘘をつけばいいものを、彼女はそこまで器用ではなかった。

「え、えっと……」
「悪いけど、君に監視をつけてたんだ。そうしたら、早速昨日、君が酒場なんかに出かけたっていうじゃないか。……あそこには何の用に?」
「…………」
「シンディ」

 アーヴィンは妹に詰め寄った。

「そんなに僕が頼りないかい? 確かに、じっとしていられないのは分かる。でも、そのせいで君に危険が及んだらと思うと、僕は――」
「いいえ、そうではありません」

 シンディは強く首を振る。兄が頼りないなんて思ったことなど、一度もない。

「私は、私の力でやりたかったんです。お兄様に甘えるではなく、私自身で。ずっと逃げてばかりでしたけど、そんなのはもう嫌なんです。私は戦いたいのです」
「…………」

 悲しそうに兄が見つめてくるのが分かった。しかし、それに気づいたとはいえ、シンディの心が変わることはない。
 じっとその視線に耐えていると、アーヴィンが動いた。

「じゃあせめて」

 アーヴィンの手がシンディの肩に触れそうになったが、寸前でその手が止まる。男性が苦手だということを思い出したのだ。

「……せめて、僕にもそれを手伝わせてくれないか? 黙ってみているなんて、僕にはできない」
「――いいんですか?」

 伺うようにシンディは上目遣いでアーヴィンを見た。

「このことを知ったら、お母様がお怒りになると……」
「もうこの際怖いものはないさ。この前の婿入りのことで吹っ切れた」
「……そのようですね。お兄様、以前とは打って変わって自信が漲っていますもの」

 釣られてシンディは笑みを零した。
 以前の兄は、シンディと同じく、母の言いなりになるばかりだったが、婿入りという家出とも自立とも言える行動があったおかげか、今はまるで別人のように見えた。

「あの頃とは成長していたらいいな。……シンディも、そうなんだね?」
「はい」

 成長したい。逃げてばかりでは、いけないのだ。

「分かったよ。ここは一旦譲る」

 苦笑と共に、アーヴィンは一歩横に身を避けた。外への道が、一気に開かれる。

「だけど、帰ってきたら、僕にも状況を教えてくれ。何か手伝えることがあるかも知れないから」
「はい、そのつもりです。夕方までには戻りますね」
「ああ、気をつけて」

 アーヴィンと微笑みあうと、シンディは外へ出た。兄の視線は背中にひしひしと感じていたが、それを振り切り、乗合馬車の元へと向かう。乗合馬車に乗るのは初めてだが、むしろ、緊張よりはワクワクの方が大きかった。
 実家で暮らしていた頃は、全てが母の言いなりで、家で勉学と行儀作法、裁縫やダンスを身につけるばかりの毎日だった。こんな風に、自分の意志で出かけ、何かをしようとしたことなど一度もなかった。
 人々が入れ替わり立ち替わっていく様、そして更には窓からの風景も楽しみながら、シンディは長い間馬車に揺られていた。
 目的地に着くと、一人で身軽に降り立った。エスコートする男性もいないため、一層自由だという開放感が押し寄せてならない。
 馬車が停まったのは、小さな村の一角だ。そこから、舗装されている平坦な道のりを更に歩き、この辺り一帯を納めている男爵の屋敷に向かった。
 あらかじめ訪問のための手紙を送っているとはいえ、話したこともない者からの訪問ということで、不躾に思われても仕方がない。シンディは、屋敷に近づくにつれ、気持ちが下向きになっていくのを感じたが、それでも身を奮い立たせる。こんなところで、怖じ気づいているわけにはいかないのだ。
 心を決め、シンディは屋敷の前に立った。門の近くには、誰も人が見当たらなかったので、恐る恐る中へ入っていく。そして扉の横の呼び鈴を鳴らした。しばらく間をおいて、年若い執事が扉を開けた。

「ブランドン嬢でいらっしゃいますね」
「はい。シンディ=ブランドンと申します。突然の訪問、失礼いたしました」
「いいえ、ようこそおいでくださいました。中でお嬢様がお待ちです」

 シンディは速やかに応接室に案内された。

「お嬢様、ブランドン嬢がいらっしゃいました」
「はい、どうぞ!」

 シンディの入出と共に、少女は慌てて立ち上がり、軽く腰を落とした。

「初めまして。ティナ=ノートンと申します」
「シンディ=ブランドンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします」

 笑うと頬にえくぼのできる可愛い少女だ。同じくらいの年の頃の彼女に、シンディもいくらか気を休めることができた。
 紅茶を入れ、侍女が隅に下がったところで、シンディは早速ティナに向き直った。

「ティナ様、突然の訪問、どうぞお許しください」
「い、いえ、そんなことは。私はあまり外に出ることがないので、実は退屈していたところなんです。シンディ様がいらしてくださって嬉しいです」

 はにかみながら、ティナは紅茶を口にした。が、カップをテーブルに置くと、伺うようにシンディを見上げる。

「でも、どうしてブランドン様がこのような場所に……。あっ、もちろん訪問は大変嬉しいのですが、あまり交流もなかったのに、どうしてかと思って……」
「ファビウス=バラード様のことでお話しがあって」

 その名を口にすると、途端に部屋の中の空気が冷えたのを感じた。
 ティナはあからさまに沈み、視線を下に向ける。

「まずは、私の話を聞いてくださいませんか?」
「……はい」

 視線が交わらぬまま、シンディはこれまでのことをかいつまんで説明した。ティナは大人しくシンディの話を聞いていたが、シンディの仲間にならないかという誘いには、難しい顔になった。

「あなたを助けたい気持ちはあるんです」

 躊躇いがちに、ティナは言葉を押し出す。

「で、でも、私はあなたのように強くはなくて。もう、心ない罵声を浴びせられるのは嫌なんです」

 彼女は膝の上でギュッと拳を握った。あまりにも強い力に、ただでさえ白い手が、どんどん血の気を失う。
 かつての自分を見ているようだ、とシンディは思った。そして同時に強く思う。彼女をこのままにはできないと。

「私を信じてください」

 シンディは真摯な瞳でティナを見た。

「もうそのような思いは絶対にさせません。ですから、どうか、お力を貸していただきたいんです」
「…………」

 ティナの唇は固く結ばれている。 シンディはスッとテーブルの上に羊皮紙を置いた。シンディの住所が書かれているものだ。

「もし、お心に変化がありましたら、こちらにご連絡をお願いします。本日は、お時間を頂き、ありがとうございました」

 立ち上がると、頭を下げ、シンディはおいとました。執事が馬車の用意をと引き留めたが、シンディは断った。なんとなく、歩きたい気分だったのだ。
 ――彼女の返事がどうであれ、私はもう一人じゃない。
 そう思えるくらいには、シンディは自信がついていた。