23:本音と建前


 戸惑いながら、シンディは手元の羊皮紙にチラリと視線を落とした。
 ――何度見ても、今立っているこの場所に違いはない。
 シンディは、小さく息を吐くと、思い切って酒場の扉を押し開けた。途端にムワッとした酒の匂いが胸の中に飛び込んでくる。
 昼間だというのに、酒場は多くの人でごった返していた。多少怯みつつも、彼女はまっすぐにカウンターを目指す。

「あ、あの」
「いらっしゃい。珍しいお客さんだこと」

 カウンターでは、数人の女性が男達に酒をつぎながら、世間話をしていた。その中の一人――胸元を大きく広げた女性が、シンディのことをチラリと横目で見た後、愛想笑いを顔に貼り付ける。

「誰かと待ち合わせかい?」
「いえ、そうではなくて、人を探しているんです。マーシャさんという方はいらっしゃいますか? ここで働いていると伺ったんですが」
「マーシャ? マーシャなら夜から仕事だから、今は上で寝てるけど。呼んでこようか?」
「いいんですか? お願いします」

 シンディは笑顔で頭を下げた。なんていい人だろうとも思う。だが、そのすぐ後、女性はもの言いたげに右手を差し出した。

「ん」
「……?」
「分からないの?」

 これだからお嬢様は、と彼女は嘆息した。

「今このお店に人手が足りてないの、見て分からない? あたしが上に上がったら、その分お客の相手ができなくなってもうけがなくなるでしょ」
「あっ、はい。すみませんでした」

 シンディは慌ててお金を取り出した。相場がどのくらいなのかは分からないので、おずおずとした動作である。

「これでよろしいですか……?」
「はいよ」

 女性は口元を緩めると、足早に奥へと消えていった。どうやら、心付けはお気に召したようだ。
 シンディは、邪魔にならないよう、カウンターから離れた隅に移動した。女性が消えた方向へ時折チラリと視線をやりながら、待ち人の訪れを待つ。
 小柄なシルエットと、そこから覗く可憐な顔。
 男だらけの酒場では、随分目立っていたらしい。やがて千鳥足の男がシンディの傍にやってきた。

「お嬢ちゃんも馬鹿だねえ。あんなのただの方便なのに」
「え?」
「チップだよ、チップ。たかが人を呼ぶくらいで金を取るなんざ、ここの女もなかなかしたたで困ったもんだねえ」

 しゃっくりをあげて、男は手に持っていた酒瓶をごくごくと飲み干す。ゆらゆらと彼の重心が定まらないので、もしや倒れるのではないかとシンディが手を伸ばしかけたとき、その腕をガシッと捕まれる。

「お嬢ちゃん、マーシャに用があるのかい? 友達? それともここで働きたいのかい?」
「え? いえ……」

 戸惑うシンディを余所に、男の手がシンディの腕を這う。反射的に鳥肌が立ち、シンディは及び腰になったが、それでも彼の手を振り払うことはできなかった。大分男性に慣れてきたとはいえ、まだまだ以前のようにはいかず、相変わらず不快感しかない。だが、彼が親切で声をかけてきてくれたのではないかと思うと、強く拒絶することもできなかった。

「あ……あの」

 やんわりと押しとどめようとするシンディ。しかしそれでも男の手は止むことはない。腕から腰、更にはその下にまで及びそうになって、さすがにシンディが文句を言おうとしたとき、唐突に上から何かが降ってきた。

「全く、困るんだよねえ、あたしの客に手を出されちゃ」

 男の上から冷たい水が降り注いでいる。男はなにが何だか分からないといった風に目を瞬かせたまま、されるがままだ。シンディが顔を上げれば、そこには大きなジョッキを持った女性が立っていた。

「この酔っ払いが。自分の理性も保てないような奴が、昼間っから飲んだくれるんじゃないよ」
「出た出た、マーシャの男嫌い!」

 あちこちから歓声と共に口笛が吹き荒れる。マーシャは拳を握って振り返った。

「失礼だね! あたしはただ野生の獣じみた奴らが嫌いなだけさ!」

 ふんっと鼻で一笑すると、マーシャはその鋭い眼光をシンディに向けた。

「上に行くよ。ここじゃうるさくて話もできやしない」
「あっ、はい」

 ブツブツ言いながら身体を震わせる男を尻目に、シンディ達は店の奥へと進んだ。時折軋む階段を上り、突き当たりの部屋に入る。
 暗い部屋だった。締め切ったカーテンと、随分長い間使われていない燭台とが目立つ。
 マーシャは黙ったまま奥のベッドにドサッと腰掛けた。
 この部屋には、座れるような椅子はない。
 戸惑ったままシンディが立っていると、マーシャは顎ですぐ近くのベッドを示した。――どうやら、そこへ座れという合図らしい。
 シンディは、スカートの裾を手で押さえると、ゆっくりベッドに腰掛けた。

「で、何の用」

 膝の上に肘をつき、マーシャは素っ気なく口を開いた。

「あたし、まだ眠たいんだけど」
「あ……すみません、突然尋ねてしまって」
「別に」

 視線が交わることはない。
 しかしシンディは構わずマーシャを見た。

「ファビウス=バラードという方をご存じですよね?」
「――馬鹿にしに来たの?」

 今まで以上にマーシャの瞳がスッと冷える。シンディは一瞬すくんだが、それを表に出さないよう、必死に耐えた。

「いいえ、違います」
「冷やかしなら帰って」

 顎で扉の方を示される。一瞬そちらに視線を向け、再びシンディはマーシャに向き直った。

「私も、あなたの仲間なんです」
「はあ?」
「お話しだけでも、聞いてくれませんか」
「…………」

 長い沈黙だった。マーシャは宙を見つめたまま、口を開かない。
 辛抱強くシンディが彼女の返事を待つと、やがてマーシャはやれやれといった風に姿勢を起こした。

「分かったよ。あんた、見るからに純朴そうだもんね。まるで昔のあたしを見てるみたいだよ」
「はあ……」
「あ、今そんなわけないだろって思ったでしょ」
「い、いえ、そんなことは!」

 シンディは慌てて両手と首とを振る。その様が面白かったのか、マーシャはケラケラ笑った。

「冗談だよ。で、何、話って。早いところ話してくれないと、あたしの睡眠時間が削られるんでね」
「あ、はい」

 シンディは居住まいを正すと、改めてマーシャに向き直った。


*****


 長いようで、短い話だ。
 シンディが話し終えると、マーシャは黙ったまま眉間の皺をもんだ。沈黙に耐えきれず、シンディは小さく口を開く。

「あ、あの――」
「一人じゃ怖いから、仲間を集めようって?」

 平坦な声だった。思わず身体を硬くするシンディには構わず、マーシャは続ける。

「その男を助けたいがために、あたし達まで衆目の場に連れて行くつもり?」
「違います!」

 咄嗟に大声を上げてしまって、シンディは反射的に自分の口を押さえた。すぐに顔を下げ、声を抑える。

「確かに、不安だったのは本当です。私なんかが、一人でバラード家に立ち向かったとして、うやむやにされるだけじゃないかって」

 手に力を込め、拳を握る。

「でも、私、このまま泣き寝入りをするのは嫌なんです! あの人に会う度に昔のことを思い出して、誰にも言えずに、ずっと心の中で押し殺して……。そんな自分が嫌で、変えたくて、でも自信がなくて――」

 ハッとしたようにシンディは口をつぐんだ。次に続く言葉が、内に秘めていた自分の本心なのだと気づいた瞬間だった。

「……マーシャさんの言うとおりですね」

 思わず乾いた笑いが漏れる。

「私と同じ思いをしている女性を集めようって思ったんですけど、でも、それは結局独りよがりだったみたいです。一人じゃ怖いから、仲間を集めて……。私が一番、自分勝手でした」

 恥ずかしさに、顔も上げられない。
 沈痛な表情で、シンディは深く頭を下げた。

「すみませんでした。今日のことは忘れてください。お時間ありがとうございました」

 そのままシンディは顔を背けるようにして歩き出した。こんな表情は、見せられないと思った。つい昨日決心したばかりの表情とは正反対の、自信がなく、弱々しい表情なんて――。

「いいよ」

 扉に手をかけたシンディの動きが止まる。

「あいつを野放しにしておいたら、今後また同じようなことが起こるかもしれないしね」
「え……」
「とはいっても、あたしだってこんなの建前さ」

 マーシャは照れたように頬をかいた。

「本音を言えば、あいつが今ものうのうと暮らしてることが腹立たしくてならない。でもそんなもんだろ? 人間っていうのは。だけどさ、そう思って行動を起こすことが、誰かのためになるかもしれない」
マーシャは真っ直ぐにシンディを見て、そして右手を差し出した。

「いいよ、あんたの仲間になる」

 その言葉に、思わずシンディは破顔する。

「ありがとうございます……!」

 駆け寄って、シンディはマーシャの手を取った。
 暗雲垂れ込めるシンディの心に、一筋の光が差し込んだ瞬間だった。