22:落胆と、そして決心
しばらく見ないうちに、雨はまた一段と酷くなったように見えた。――それとも、たった短い間でも、屋内にいたせいで、感覚を忘れてしまったのか。
馬車に揺られながら、シンディはぼんやりと宙を見つめていた。
どうせ、できることなど限られていたのに。
ファビウスが、そう易々とこちらの要求をのんでくれるだなんて、そんなことは考えていなかった。けれども、まさかあそこまで突っぱねられるとは。――いや、やはり心のどこかでは甘い考えを抱いていたのかもしれない。もしかしたら、真摯にお願いをしたら、あのファビウスも考えを改めてくれるのではないか、と。
馬鹿な考えだ、とシンディは自嘲の笑みを浮かべる。何度もあの男に心を踏みにじられたというのに、まだ懲りないのか。
シンディが物思いに沈む中、馬車はゆっくりと停まった。窓を見ると、人通りの少ない路地裏だった。不思議に思ってアーヴィンを見れば、彼は前を見つめたまま、ポツリと呟いた。
「ここが、デリックのいる牢屋らしい」
「――っ、会えるんですか!」
「分からない。でも、会えるとしても、行くのは僕だけだよ」
思わずシンディはグッと詰まった。一瞬のうちに、不満とそれを押しとどめる理性とが拮抗した。兄の気持ちも分かる。しかし。
「分かってくれ。また嫌な噂を立てられたくないんだ」
悔しそうに小さく口を開け閉めするシンディを見て、アーヴィンは儚く微笑むと、そのまま一人で外に出て行ってしまった。
随分長いときのように感じた。しかし、実際流れた時間はそれほど長くなく、むしろすぐにアーヴィンは戻ってきた。
「お兄様!」
シンディは期待を込めて兄を見つめたが、彼は黙って首を振るのみ。
「そう、ですか……」
「伝言も受け入れてもらえなかった。そういう風に、通達が出てるって言われてね」
聞かなくても分かった。きっと、バラード公爵家からの命令なのだろう。
今度こそ、全ての希望が潰えたと感じた。伯爵の立場では、天下のバラード公爵家に立ち向かえるわけがない。それができたとしても、シンディはもう家に迷惑はかけたくなかった。
私――私に、できること。
私一人が被害を被って、かつデリックさんも助けられるような方法。
――私の武器は何だろう。
そう思ったとき、シンディの頭に、一つの光が差していくのを感じた。ずっと重荷でしかなかった、シンディの過去。それが、この暗闇を切り裂く矛となれるのなら。
次に顔を上げたとき、もうシンディの心は決まっていた。御者台に続く小窓を開け、御者に声をかける。
「すみません、ここから一番近い届け人の事務所に向かってもらえますか」
「……シンディ?」
「少し、用があって。よろしいですか?」
「僕は構わないけど。でも、何をするつもり?」
訝しげに見るアーヴィンに対し、シンディは微笑んで見せた。それ以降何も語らない妹に、アーヴィンは聞くに聞けない。
やがてしばらくして、馬車はゆっくりと停車した。窓の外を見ると、そこには見慣れない景色が広がっている。大きな街ゆえ、あまり外出をしないシンディには、まだまだ行ったところのない場所は数多く存在するのだ。
降りようとシンディが扉に手をかけると、一瞬早く、それを阻止するかのようにアーヴィンが扉を押しとどめた。
「僕も行っていいかい?」
「いえ、私一人で行きますので、お兄様はどうぞここでお待ちになっていてください」
「でも……」
「一人で行きたいんです」
兄がいたら困るということはない。しかし、けじめとして、シンディはどうしても一人で行きたかった。ここから先のことは、全て一人で。
「こんにちは」
雨に降られながら、シンディは事務所の扉を押し開けた。それと共に、カランカランと軽快なベルの音が出迎える。
「……何の用でしょう」
すぐにシンディを迎えに出たのは、つい昨日、シンディの元に手紙を届けに来た少年だ。不機嫌丸出しの表情で、彼は腕を組んだ。
「お願い事があって。ここは、どんな場所でも手紙を届けてくれると聞いたのですが」
「まあ……よほど変な場所じゃなければ」
相変わらず少年は警戒を解かない。が、それでも客だという立場は理解しているのか、渋々シンディを一人用のソファに案内した。
「で、どこに手紙を届けて欲しいと?」
「牢屋です。牢屋に手紙を届けてもらうことは可能でしょうか」
「……あまりおすすめしません」
「どうして」
シンディの短い問いには答えず、少年は斜めに座り直した。
「そもそも、前も言いましたよね? もうデリックとは関わらないでくださいと。何をしたいのかはりませんが、こういったことは止めていただきたい」
「牢屋に手紙を届けていただけるのか否か。その一点について私はお聞きしているんです。私情は挟まないでください」
「……っ」
シンディの冷たい物言いに、少年はあからさまに口元をひん曲げた。シンディ以上に分かりやすい人間である。
「現実的に見ても、牢屋には届けられません。そりゃ、できないことはないけど、大変な労力と経費を使わないといけないし、そんなお金――」
つい声を荒げる少年に、それを厳しい目で見返すシンディ。
白熱する会話に、いつしか周りの音すらも聞こえなくなっていたとき。
「まあまあまあ、お嬢様! こんな所にいかがなさいましたか!」
甲高い声が上から降ってきた。
その声の主、大柄な男性は、少年の頭をポカリと叩き、彼を押しのけるようにしてソファに座る。
「ベイル、ここをどきなさい!」
「なっ、局長!」
「さっきから見ていたけど、お嬢様に向かってなんて言い草をするのよ! 早くあっちへお行き!」
しっしっと局長が振り払う動作をすると、ベイルは渋々といった動作で立ち上がった。
「さあさ、お嬢様。私がご用件をお伺いいたします。本日はどのようなご用で?」
「は、はい」
女性らしい仕草で首を傾ける男性に、シンディは目を瞬かせながらも、何とか居住まいを正した。
「あの、こちらで働いているデリックさんの元に、手紙を届けて欲しいんです」
「あー……、生憎ですが、デリックは……」
「知っています。牢屋に入れられているんですよね? 私のせいなんです。でも、どうしても手紙を届けて欲しくて」
「はあ……」
「もちろん、危険が伴うのは承知の上ですので、代金はいくらでもお支払いします。どうかお願いいたします」
シンディが深く頭を下げると、辺りの空気が変わった雰囲気がした。コホン、と咳払いをした後、局長はまんざらでもなさそうな声色を出した。
「まあ……そうですね、そこまで言われるのであれば」
「本当ですか?」
「ええ、こちらとしても、デリックの件は大変痛ましい事件。微力ながら、お嬢様にお力添えいたします」
「ありがとうございます!」
一気にシンディの顔に喜色が広がる。ついで、伺うように彼女は上目遣いになった。
「では、デリックさんのこと以外でも、少しお力添えを貸していただきたく……」
低姿勢でシンディがそう尋ねれば、局長は盛大に顔を緩めながら大仰に何度も頷いた。
「もちろんですとも! 何でもおっしゃってくださいませ!」
その後、しばらく局長と話し、代金を支払った後、シンディは事務所を出た。思っていた以上に長く話し込んでしまったので、馬車に戻ってすぐ、勢い込んでアーヴィンが迎えた。
「何の用だったんだ?」
「ちょっと知り合いに手紙を届けて欲しくて」
「…………」
これ以上聞かないでという空気を出すシンディに、気弱なアーヴィンは何も言うことができない。
再び馬車が走り出す中、妹の顔すら見ることができずに、アーヴィンは自分の膝を見つめる。
「シンディ、お願いだから大人しくしていてくれよ。この一件は僕に任せて。頼りないと思うかもしれないけど、できうる限りのことはするから」
「ありがとうございます。お兄様がいてくださって、私も心強いです」
「…………」
壁を感じるのは気のせいだろうか。
アーヴィンは浮かない顔で唇を噛みしめる。
――昔から、自分たち兄妹は、他の貴族家庭よりも仲が良かったように感じられた。それが、このような関係になってしまったのは、やはり自分が相談もせずに家を飛び出したからか。
自分勝手だったとは、今更ながらに思っていた。後悔はしていない。しかし、妹に心配と苦労、そして消えない傷を与えてしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。
馬車は、しばらく走った後、ヘレンの家の前で停まった。
「ではお兄様。失礼します」
「シンディ……気をつけて」
シンディが家の中に入っていくのを、アーヴィンは物憂げに見送った。大きく開かれた馬車の扉から飛び込んでくる、大量の雨粒にも気づかないまま。