21:潰えた希望


 突然現れたアーヴィンに、シンディとテレーゼは言葉を失った。が、さすがのテレーゼは立ち直るのも早く、すぐに咳払いをした。

「来ていたのなら、声をかけたらどうですか。盗み聞きなんて気分が悪いですよ」
「いえ、そんなつもりは。ただ、あまりにも真剣に話してらっしゃったので、声をかける機会を窺っていたんです」

 物腰柔らかに、アーヴィンはシンディの隣に腰を下ろした。すぐに彼の前に、紅茶が運ばれる。

「ああ言えばこう言う……。それで、用は何なのですか。突然家に来ると手紙をよこした挙げ句、自分が指定した時間にも遅れて。あなたのいい加減ぶりにはほとほと嫌気が差しているところですが」
「それについては申し訳ありません。大雨によって、馬車がぬかるみに足を取られてしまって」
「言い訳は無用です。用は何なのか聞いているんです」

 有無を言わせない口調に、アーヴィンは眉を下げた。目を細めて思わずといった苦笑を漏らす。

「特に用はありませんよ。ただ久しぶりに母上の顔が見たいと思いまして」
「調子のいいことを。そんな言葉には絆されませんよ。またろくでもない問題を持ち込んできたのではなくて?」
「いえいえ、そんなことは。それよりも、目下の問題はシンディのことではありませんか? 僕がバラード家に赴き、その同伴としてシンディも行く。それならば母上が心配なさっているようなことは何も起こらないと思いますが」
「そんなに簡単にことが進む者ですか。そもそも、シンディが直接行く義理はないんです。そんなにシンディのことが心配なら、あなたが一人で行ってきなさい」
「もちろん、僕はそれでも構いませんが」

 チラッとアーヴィンが妹に目を向ける。シンディは前の目になってそれに反論した。

「そんなこと! お兄様だけにお任せするわけにはいきません。私も行きます」
「シンディがここまで言うのであれば、僕も手を貸すしかないかなと」
「何をいい加減なことを。あなたたちが動いたからといって、バラード家が思うように従ってくれるとでも? 嫌な思いをするのが関の山です」
「ご心配ありがとうございます、お母様」

 斜めに座り、シンディ達とは目も合わせないテレーゼ。けれども、シンディは微笑んで背筋を伸ばした。

「ですが、やはり、行かないわけにはいかないんです。私のせいで苦しんでいる人がいるのに、私一人、のうのうと暮らしてはいられない」
「……行こうか、シンディ」

 アーヴィンが手を差し出し、シンディはその手を取った。テレーゼは、硬く手を握りしめたまま、顔を上げない。

「お母様にご迷惑はおかけしませんから」

 扉の前で一度シンディは振り返った。が、それ以上何をいうでもなく、部屋を出て行った。
 ウィリアムの指示によって、ブランドン家所有の場所は入り口近くで停まっていた。あまり雨に濡れることなく、シンディとアーヴィンは乗り込んだ。

「お気をつけていってらっしゃいませ」
「ええ。ありがとう、ウィル」

 気遣わしげに見るウィリアムに笑みを返した後、シンディは気遣わしげに窓の外に目をやる。静かに扉が閉められた後、ガタガタと馬車が動き出した。

「デリックのことだね?」

 開口一番、アーヴィンが尋ねた。シンディは頷く代わりに、兄を見上げた。

「ご存じなんですか?」
「ああ。シンディに手紙を送ろうとしたら、デリックは不在だといわれて。嫌な予感がしたから、慌ててこっちへ来たんだ。調べてみたら、彼は牢屋に入れられたっていうし」
「…………」
「何があったのか、話してくれないか?」
「……はい」

 労るようなアーヴィンの瞳に、シンディは所々つっかえながらも、先日起こった事件を説明した。聞き終わったアーヴィンは、背もたれに深く身を預けた。

「厄介なことになったね」
「……はい」

 私のせいで、デリックさんが。
 シンディは、申し訳ない思いで一杯だった。仕返しをするのなら、私にしてくればいいのに。

「正直、バラード家に行っても、僕は無駄だと思う」
「どうしてですか」
「何か条件を掲げて、ファビウスがそれを受け入れるとは思えないからね。相手が望むのは、シンディだけだろう」
「――っ」
「まさか、それを受け入れるわけじゃないだろう?」

 アーヴィンの問いに、シンディは答えなかった。唇を噛みしめ、じっと目の前を睨み付ける。
 自分でも、どうすべきか分からなかった。
 ファビウスの言うがままになるのは嫌だ。でもそうしないと彼が。
 結局、話し合いが膠着したまま、馬車はバラード家に到着した。あらかじめ手紙で知らせておいたので、滞りなく門の中まで引き入れられる。

「ようこそおいでなさいました。レディ・ブランドンと……マレット子爵?」

 二人を迎えた執事は、わずかに眉を跳ね上げた。来訪はシンディだけだと伺っていただろうから、その反応は妥当だ。

「失礼。妹の手紙に不備があったようで。彼女は私の付き添いで、ファビウス様に目通りをお願いしたのは私です」
「さようでございますか。これは失礼いたしました。では、どうぞこちらに」

 すぐに調子を取り戻すと、執事はシンディ達を中に招き入れた。重厚な扉が、激しい雨音を一気に遮断する。
 案内されたのは、応接室だった。シンディの家とは比べものにならないほど広々とした廊下を通り、扉の前に立った。

「マレット子爵と、レディ・ブランドンがいらっしゃいました」
「――どうぞ」

 一瞬の間をおいて、執事が扉を開いた。緊張の面持ちで、シンディはアーヴィンの後に続いて応接室に足を踏み入れた。

「これはこれは、マレット子爵。ブランドン嬢お一人だと伺っていたのですが、一体どういうことでしょうか」

 立ち上がってファビウスはシンディ達を迎えた。頬の包帯が大仰に感じるのはシンディの考えすぎだろうか。
 アーヴィンは、ファビウスの握手に応じながら、軽く頭を下げた。

「妹の手紙に不備があったようで申し訳ありません。妹は私の付き添いに過ぎません」
「では、私に用があるのはマレット子爵だと?」
「はい、その通りです」

 肩をすくめ、ファビウスはソファにゆったりと腰をかけた。視線でシンディ達にも座るよう促す。

「一体何の用でしょう。バラード家とマレット家は、もとより拘留もなかったものと認識していますが」
「回りくどい言い方は止めて、率直に申し上げます」

 背筋を伸ばし、アーヴィンは頼もしいほど真っ直ぐにファビウスを見た。

「もう妹に関わるのは止めていただきたい」
「それはちょっと自意識過剰というものではありませんか。確かにブランドン嬢に舞踏会のパートナーの打診をしたのは事実ですが、他にもお誘いはあるのでしょう? なぜ私にだけ直接そんなことを言ってくるのか、正直マレット子爵の意向が測りかねる」
「はぐらかさないでいただきたい。あなたは他にも手を出していることがあるでしょう。真夜中に妹の家に押しかけた挙げ句、そこで争いになった届け人の少年を牢屋に入れたとか。やり過ぎではありませんか。公正な判断の下、そのようなことが行われたのならまだしも、先に手を出したのはあなただという話でしょう」
「たとえそうだとしても、どうして子爵が出しゃばってくるんでしょう。これは私たちの問題のはずですが」

 ファビウスは苛立たしげに横を向いた。

「あなたは所詮もうマレット家の身。こちらの事情に口を出さないでいただきたい」
「では、私がお願いしたら、デリックさんには手を出さないでいただけるんですか」

 無駄だとは思っても、言わずにはいられなかった。
 今までずっと黙っていたシンディだが、ようやく口を開いてファビウスを見る。

「もう気は晴れたのではありませんか? お願いします。どうかもう彼を牢屋から出していただくようお計らいしていただくことはできませんか」
「できない」

 懇願するように見上げるシンディを、愉悦の混じった顔でファビウスは一笑した。

「全治一週間だぞ。平民の分際で貴族を殴るとは。一度自らの立場を分からせた方がいい」
「…………」

 ファビウスでその傷なら、デリックはどうだろう。
 シンディはそう思わずにはいられない。牢屋に閉じ込められている彼は、傷と環境も相まって、さぞ辛い思いをしているのだろう、と。

「一週間だ」

 悔しそうに黙り込んだシンディを見計らって、ファビウスは立ち上がった。

「一週間待ってやる。その間に、せいぜい覚悟を決めることだ。俺の要求はもう手紙で伝えただろう?」
「…………」

 鼻で笑うと、ファビウスはそのまま応接室を出て行った。気遣わしげにアーヴィンが妹を見る。

「……シンディ、要求というのは?」
「舞踏会のパートナーとして一緒に王宮に上がること。そして、その後婚約式を上げること、です」
「気持ちは痛いほどよく分かる。でも、早まっちゃいけない。僕の方も何とか四方に働きかけてみるから、シンディはその間、くれぐれも大人しくしているんだよ」
「…………」
「シンディ」
「……外へ、行きましょう。もうここへはいたくないです」

 シンディは兄のもの言いたげな視線から逃れるようにして、応接室を出た。