20:一夜明けて
夜にかけて降り出した雨は、朝方になると、土砂降りの雨に変わっていた。
シンディは憂いのある表情ではありながらも、テキパキと身支度を整えていく。昼のドレスに着替え、髪を結い、鏡の前で心を決めると、階下に降り立った。ヘレンの入れる、懐かしい紅茶の香りがシンディを迎え入れた。
「おはようございます」
「まあ、お嬢様。おはようございます。お早いお目覚めですこと」
振り返ったヘレンは、シンディの様相に目をぱちくりとさせた。
「どこかお出かけになるんですか? こんな大雨の中?」
「はい、行かないといけないところがあった。夕方には帰ります」
「そうですか……。あ、朝食をどうぞ」
自分用にと用意していた紅茶とパンとを、ヘレンはシンディの前に置いた。
「ですがお嬢様。なんだかお顔の色が良くないように見えますねえ。お身体の調子が悪いのなら、今日は外出は控えた方がよろしいかと思いますが」
「いえ、そんなことは。昨夜、少し寝られなかっただけで」
「そうですねえ、この雨ですものねえ」
ヘレンが窓の外を見る。釣られて、シンディもそちらに顔を向けた。
激しい雨は、未だ止むことを知らず、むしろどんどん酷くなっているようにも見える。
「馬車でも用意させましょうか」
「いえ、結構です。ありがとうございます。近くなので、歩いて行きます」
朝食を食べ終えると、シンディは口元を拭いて立ち上がった。少ない荷物を手に、玄関まで移動する。
「では、行ってきます」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
頭を下げるヘレンに笑みを返すと、シンディは古びた傘を開き、大雨の中外へ足を踏み出した。
天気のせいか、人通りはいつにもまして少ない。靴はすぐに中まで雨が浸水し、ドレスもあっという間にスカート部分がびしょ濡れになる。それでもシンディは足を止めることなく、数ヶ月ぶりの懐かしい場所――自分の家へと向かった。
オルビー通りの二丁目三番地にシンディの家は建っている。ブランドン伯爵家の名に恥じない外観で、華美ではないが、地位と権威とを誇示できるだけの造りとはなっている。
シンディは人目を憚るようにして門の中に入ると、扉のすぐ横の呼び鈴を鳴らす。そう間をおかず、中からブランドン家の執事――ウィリアムが現れた。
「お嬢様?」
思ってもみない来客に、ウィリアムは驚いたように一瞬その場に立ち尽くした。が、長年の経験から、すぐに冷静さを取り戻す。
「このような朝方にどうなさいましたか? ご連絡を頂ければ、すぐにお迎えに上がりましたのに」
「いえ、いいの。私の方こそ突然来てごめんなさい」
シンディはウィリアムの後ろに目を走らせながら、声を落とす。
「ウィルに頼みがあるの。お母様は今どこ? できれば、お母様には私が来たこと内緒にして欲しいのよ」
「あ……奥様は今」
「誰に内緒にして欲しいと?」
固い声に、シンディの身体は硬直した。やがて、高いヒールの音を響かせながら、階段からシンディの母、テレーゼが現れた。
「全く、久しぶりに顔を見せたと思ったら、なんてことを言うんです。母に会いたくないと?」
「あ……」
「ここ数ヶ月、私がどんな思いで過ごしているかも知らずに、あなたはたった一瞬でも母に顔を見せたくないと言うんですか」
「……申し訳ありません」
シンディは縮こまって頭を下げた。その姿に、いくらか溜飲を下げたテレーゼは、小さくため息をついた。
「とにかく、その格好を着替えて居間にいらっしゃい。私からも話があります」
「はい」
やがて、ウィリアムによって侍女が呼ばれると、シンディは自室へと連れて行かれた。大雨によってすっかり身体が冷たくなっていたシンディは、湯浴みを進められたが、彼女が頷くことはなかった。軽く頭と身体とを拭き、着替えるだけに留めておく。久しぶりの自室に気を落ち着かせる間もなく、シンディは速やかに居間へ向かった。
ソファに深く座り、紅茶を飲んでいるテレーゼの前に、シンディも同じく腰を下ろした。
「そちらの生活はどうですか。確か……もう半年にはなりますか」
「はい。婆やとカリーナさん――あ、通いのメイドです――には、よくしていただいています。生活にも大分慣れました」
「話に寄れば、時々外出をするようにもなったとか。本当ですか?」
「はい。時々……図書館や、買い物に出たりしています」
「そうですか」
シンディの前にも紅茶が運ばれる。口をつけようか迷ったが、そんな気持ちにはなれなくて、シンディは軽く伸ばした手を止めた。
「外にも慣れたということ、話を聞いて安心しました」
テレーゼはカップをテーブルに置くと、すぐ傍の書類をシンディの前に押し出した。
「二ヶ月後に王宮で舞踏会が開かれることは、以前手紙でも話しましたよね? その際のパートナーについて、私も前々から熟考しているのですが。この際、一応あなたの意見も聞いておいた方が良さそうだと思いまして。目を通しておいてください」
書類に手を伸ばしていたシンディの動きが止まる。それを聞いて、途端にもう釣書を見る気持ちは萎んでしまった。
「今は……またお見合いをする気にはなれなくて」
手を膝元に戻し、シンディは伺うようにテレーゼを見た。
「もう少し後でもよろしいでしょうか?」
「なぜ? それは、先ほどあなたがウィリアムに頼みがある、といっていたことに関係が?」
「……はい」
しばらく迷った後、シンディは観念したように頷いた。
「事が終わったら、全部お母様の言うとおりにします。ですから、この件はもう少し後にしてくださいませんか」
「駄目です」
シンディの願いも空しく、テレーゼはピシャリとはねのけた。
「二ヶ月後にはもう舞踏会があるんですよ! そんな悠長なことを言っている暇はありません。大体、あなたは何をしようとしているんですか。それを先に話してもらわなければ、私も納得がいきません」
「…………」
両手をギュッと握りしめ、シンディは痛々しい目で己の膝を見つめた。
――どうせいずれは母の耳にも入る。だったら、今話しても問題はないのではないのか。
「バラード公爵家に行きたいのです」
「――どうしてっ!」
キッと目を血走らせて、テレーゼは叫んだ。
「どうしてあの家に! 突然何を言い出すのですか!」
「私も……行きたくないのは山々です。でも、どうしても話しておかなければならないことがあって」
「あの男はまだあなたのことを諦めたわけではないのですよ! あなたには黙っていようと思いましたけど、まだあの男から結婚の打診の手紙が来てるんです! 全く忌々しい、もう二度とあの男の名は出さないで!」
テレーゼは疲れたように額に手を置く。シンディはなおも地面を睨み付けた。
「……知っています。私の元にも、手紙が来るんです」
「住所を知られたのですか」
ハッとしたようにテレーゼは身体を起こした。シンディは小さく頷く。
「はい。そのせいで、嫌な目にも遭いました。でも、それだけではなくて、私のせいで今辛い目に遭っている人もいるんです。バラード家には、どうしても行かなくてはならないんです」
「だからって、あなたが行くことはありません」
深く長いため息をつき、テレーゼは諦めたように何度も頷いた。
「ええ、ええ。分かりました。公爵家には私が何とか言ってみます。一体何があったのか話してください」
「いえ、私が話をつけに行きます。行かせてください」
「…………」
頑として譲らないシンディに、テレーゼはギュッと目をつむって眉間をもんだ。
「ウィリアムと一緒にバラード家に行って、話をつけると?」
「はい」
「そのことで、また噂がたったらどうするんです」
「節度を持ってお話しをするだけですので、周りにどう言われようと私は気にしません」
「周りはそうは考えませんよ」
ため息交じりにテレーゼは首を振る。シンディは言い返そうと口を開くが、その後の言葉が続かない。
自分はどうなってもいい。それは事実だ。
しかし、自分の行動のせいで周りに迷惑がかかるのは、嫌だった。
――どうすればいいんだろう。
暗礁に乗り上げて、シンディがギュッと拳を握ったとき、後ろから朗らかな声が響いた。
「では、表向きは僕がバラード家に行く、ということでいかがでしょうか?」
「お兄様……」
驚いてシンディが声を上げると、アーヴィンはシンディに向かって片目をつむった。
「久しぶりだね、シンディ」