19:嫌な予感
まるでシンディの胸の内を具現化したように、連日曇天が続いていた。
降りそうで、降らない。
そんな空模様をしばらく眺めた後、シンディは小さく吐息を漏らして寝台に腰掛けた。
彼女が暗く沈み込んでいる理由は簡単なこと――デリックが全く姿を現さないからだ。
単純に、思いを寄せる人に会えないというだけではなく、妙に心に引っかかりがあったのだ。つい数日前起こった、ファビウスとの一件が根強く爪痕を残す今、どうしてもデリックがやってこない理由と結びつけてしまうのは仕方のないことだ。
……何かあったのでは。
そうは思うのに、シンディにできることはないのだ。シンディは、彼の名前と職業しか知らない。家も、友人も、家族のことだって全く分からない。改めて、彼との距離を強く痛感する日々だった。
今日もまたデリックは来ないのかと、眠れない夜を過ごしていたとき、待ちに待った窓を叩く音が聞こえた。ハッとしてシンディは飛び上がったが、窓の向こう側にいる人物を見て落胆した。確かに届け人の格好はしているが――彼は、デリックではない。
そういえば、ノックの仕方も違っていたなあと、シンディは落ち込む。そして同時に、ノックの音ですら記憶に深く刻み込まれていたのかと、その時になって気づいた。
気恥ずかしいやら、空しいやら。
シンディは寝間着の上にガウンを羽織ると、小さく窓を開けた。デリックのおかげで、大分男性に耐性はついたとはいえ、まだ完全には気は許せなかった。
窓を開けた後は、またすぐに数歩離れた。
「シンディ=ブランドンさんですね。二通手紙が来ています。ダーウィン=マレットさんと、ファビウス=バラードさんから」
「あの……デリックさんはどうしたんでしょうか?」
「デリック? ああ、あいつは……」
届け人の少年は、あからさまに視線を泳がせた。答えあぐねるように間延びした声を漏らす。
「ええっと……まあ、ちょっと休暇を取っていて」
「本当に? 何か……身の回りに大変なことがあったのではありませんよね?」
「え? いやあ……」
「本当のことを教えてください!」
シンディは窓際に大胆に近寄り、身を乗り出した。その様に圧倒され、少年は困ったように頬をかく。
「あの……ですね。やっぱりお客様に個人的なことにお答えすることはできなくて――」
「私のせいかもしれないんです!」
恥を覚悟で、シンディは叫んだ。
見当違いなら良い。本当に休暇を取っていたならば、どれだけ嬉しいだろう。
しかし、シンディのそんな思いはすぐに覆された。ずっと受け身だった少年が、初めて意志を持ってシンディを見返した。
「本当に!? もしかして、デリックが貴族を殴ったとき、君も側にいた!?」
「――っ、はい、その場にいました! もしかして、やっぱりデリックさんの身に何かあったんですね?」
シンディの顔は絶望に染まった。自分が嫌な目に遭うのならまだいい。でも、どうして全く関係のない人が酷い目に遭うのか。
わなわなと震え出すシンディに、少年は慌てたように両手を振り回した。
「あ、や、でもそんなに……大変なことではなくて! ただ、数日牢屋に拘留されてて……」
「牢屋!? 一体どうして――」
嫌な想像ばかりが頭に浮かび、シンディはおののいた。日も差さないような暗く湿った牢屋で、多くの騎士達に尋問されている様が頭から離れて止まない。
「暴行を受けたと貴族から通報があったらしくて。数日前、牢屋に……」
「デリックさんは悪くないんです! それに、先に手を出したのは相手の方です!」
身分を笠に着て、罪もない人を牢屋に入れるなんて!
シンディは怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。自分の時は泣き寝入りしたが、今度こそはどうしても許せなかった。
シンディはキッと顔を上げる。
「私……私に、何かできることはありませんか? あっ、そうだ、私が証人になります! 先に手を出してきたのは相手だと証言します!」
必死にシンディは言いつのったが、対する少年の顔色は芳しくない。
「……どうでしょう。相手は貴族ですし、それに」
次に彼が顔を上げたとき、何かを決意したかのように、きっぱりした物言いだった。
「商いとしても、上はこの事件をあまり大事にはしたくないらしくて。できればこの事件を世に出さないまま、相手側には怒りを静めてもらう方向を目指しているんです」
「……じゃあ、デリックさんはどうなるんですか。あなたたちは、彼を見殺しにするつもりなんですか?」
怒りを静める、なんて生やさしい方法が、あのファビウスに通用するわけがない。もしも届け人の名に傷をつけたくないのならば、デリックごと切るしかないのだ。彼を、生け贄としてファビウスに捧げるしか。
「もちろん、そうならないように極力手は打つつもりですけど」
「でも!」
「失礼ですけど」
拳を握るシンディを、少年は冷めた目で見つめた。
「あなたも見たところ貴族なんですよね? 何があったのかは聞きませんが、今回の事件、相手貴族との恋愛関係による縺れ……のように見受けられました。その上で、あなたがデリックを庇って、余計に事件が拗れてしまったら、届け人としての名に傷がつくんですよね。こちらとしては、商売人としてもそれを避けたいところといいますか」
回りくどい言い方だ。しかし、言いたいことは分かる。
――全ては私のせいだし、私が動くことで、皆に迷惑をかけるかもしれないことは。
「あなたも、大人しくしていた方がいいんじゃないですか? 貴族も、ちょっとしたことで醜聞になってしまうことはままあるんですし」
「…………」
「デリックのことは忘れて。あなたもデリックも、ちょっと運が悪かっただけですから。それに、あいつのことはそんなに心配しなくても大丈夫です。こちらで何とかしますから」
黙り込むシンディを気遣ってか、少年は優しい声色に変えていく。しかし、そんなことくらいで、シンディの心境は落ち着かない。
ずっと波立っているのだ。ただ、それが周りには見えないだけで。
「手紙、受け取ってくれますか? 後、ここにサインもお願いします」
隙間から二通の手紙を差し出され、シンディはそれを受け取った。そうして差出人の名に目を落とす。
ファビウス=バラード。
何度その名を目にしたことだろう。今では、彼がこの手紙にしたためている内容すら、容易に想像がつきそうなくらい。
「お手紙、私からも届けてもらうことってできますか?」
シンディは小さく声を絞り出した。
「明日の朝までに」
「届け先が隣町とかでないのなら、いけますけど。でも明朝ということになると、少々お値段が張ります」
「大丈夫です。すぐに書き終わるので、少しだけお時間もらえますか?」
シンディはサッと身を翻すと、テーブルに向かい、立ったままファビウスの手紙の封を切った。中に目を通すと、やはり想像通りのことが書いてある。すぐに返事を書くと、白い封筒に入れ、ロウで封をした。なんとも簡素なもので、要件しか書かれていない手紙だ。本来ならば、こんな手紙、無礼だと破り捨てられても仕方がないが、それでも相手はあのファビウスだ。彼がどう思おうと、シンディの知ったことではない。
「これ、バラード公爵家のファビウス様によろしくお願いします。代金はいくらでしょう?」
「バラード公爵家って……」
訝しげな視線がシンディを見上げる。シンディの一連の行動により、事件に関係のある者の名だと気づいたらしい。
――余計なことをするつもりでは。
創痍痛げな彼の視線に対し、シンディは冷たい表情で見返した。
「あなたには関係のないことです。代金は?」
シンディの態度に、少年は鼻に皺を寄せたが、それ以上何をいうでもなく、ぶっきらぼうに代金を告げた。シンディはきっかりその金額を少年に渡すと、窓に手をかけた。
「では、くれぐれもお願いします」
「……はい」
嫌な夜だ。
窓の外では、焦れに焦れた雨が、ついにしとしとと降り出していた。