18:一時の安穏と崩壊
ファビウスからの手紙は、連日届いた。それはもう、嫌がらせかと思うくらいには。――いや、向こうだって嫌がらせのつもりなのだろう。シンディが家から出てこないので、外からちょっかいをかけるつもりなのだ。シンディとしては、それに応じるつもりはさらさらないが。
いつしか、兄の手紙よりもファビウスからの手紙の方が数を上回ったとき、事件は起こった。どうせいつか飽きてくれるだろうと、シンディがそう楽観視していたときのことだった。
その日は、いつものように、深夜少し前にデリックがやってきていた。手にアーヴィンとファビウスの手紙を持って。
ファビウスの手紙を受け取るとき、シンディは反射的にいつも強ばった表情をしているのだが、デリックがそのことについて深く追求することはなかった。触れない方が良いと思ったのか、それとも深入りするべきではないと思ったのか。
最近は、デリックが来る日は、シンディはいつも紅茶と簡単なお茶請けを用意するようにしていた。夜は冷えるので、少しでも温まって欲しいという思いと、少しでも彼と長く話していたいという、ちょっとした下心もあった。
意外なことに、大人しいシンディと淡泊なデリックとの間に、話題が絶えることはなかった。もっぱら、話しかけるのはシンディばかりだが、それでもウサギの話であったり、デリックのことについて気になることを聞いてみたりと、話は途切れない。といっても、彼の仕事の邪魔はできないと、話をするのは彼が紅茶を飲み終えるまでのほんのわずかな時間だけだ。
「……君のせいで、ここ一月、随分太ったような気がする」
「えっ、そ、そうなんですか!?」
わずかに唇をとがらせ、そう言うデリックに、シンディは大いに慌てた。
「す、すみません……。お腹空いてるかなって思って、その」
シンディは窓越しにわたわたと手を振る。
「で、でも、私から見てもそんなに太ってるようには見えないから大丈夫ですよ!」
「そりゃこうして頻繁に会ってるから変化に気づかないだけじゃ? 久しぶりに会った知り合いには、開口一番『太った?』って聞かれたし」
「う……」
シンディはすっかり項垂れた。よかれと思ってやっていたことが、まさか裏目に出てしまうとは。
分かりやすいくらい落ち込んでいるシンディに、デリックは仕方がないなあと言わんばかりに小さく笑い声を漏らした。
「まあ、ありがたくはあるんだけどね。夕方から夜にかけて、夕餉もとらずにずっと走りっぱなしだし」
思いも寄らない情報に、シンディは心配そうに眉根を寄せた。
「届け人って、そんなにお忙しいんですか?」
「まあね。最近ちょっと有名になってきたらしくて、注文が立て込んでて」
「良かったですね」
忙しいとぼやくデリックに対し、慰めるどころか、頑張ってくださいと応援するシンディ。思わすデリックは恨めしい顔つきになった。
「どこがだよ。こっちは人手不足で毎日くたくただってのに」
「あ、だったら、クッキーだけじゃなくて、サンドイッチのような軽食もお出しした方が良いですか? 夕食、食べてないのでしたら――」
「太るよ! こんな時間にそんなもの食べたらそれこそもっと太るでしょ!」
悪意がないだけ末恐ろしい。
デリックは呆れて空を仰いだ。
「でも、実際、デリックさんはそこまで太ってないと思うんですけど。むしろ、痩せている方かと」
「まあ、確かにひ弱な方ではあるね。毎日走り回ってるのに、どうして筋肉がつかないのか」
年頃の少年らしく、デリックは不満そうに自分の足を見下ろした。分厚いズボンを着込んでいるにもかかわらず、己の両の足は相変わらず細い。普通の人よりは走っているはずだけど、と渋面になったとき、上からクスリと笑い声が漏れた。デリックはいよいよ目を細めた。
「何がおかしいの?」
「す、すみません、つい……」
「全く」
デリックは呆れたように視線を外したが、それでもシンディの笑い声は止まらない。
デリックが年相応に見えて、なんだか可愛く思えたのだ。いつも淡泊で、何を話すにしてもあっさりしている彼が、珍しく感情をあらわにしているのがおかしくてしようがなかった。
「…………」
それでも、デリックからのもの言いたげな視線は痛いほど感じていたため、シンディは愛想笑いを最後に、顔を引き締めた。いつまでも笑っていたら気を悪くされてしまう。いや、もうすでに不機嫌になっているような気はしなくもないが。
「――片付けますね」
デリックが紅茶を飲み終えたのを見計らって、シンディは立ち上がった。長い時間引き留めるわけにもいかない。寂しいが、彼は仕事でここへ来ているだけなのだ。
「――シンディ」
シンディはハッとして顔を上げた。デリックに呼ばれたのか、と反射的に返事をしようとして、しかしすぐに本能が待ったをかけた。聞き覚えのある声だったのだ。
声のした方――大木の根元に、デリックは顔を向けた。シンディも恐る恐る窓から下を覗き込む。――暗闇にわずかに慣れていた彼女の瞳は、忘れられもしないファビウスの姿を捉えていた。「な、んで、ここに……」
「そりゃお前が返事を返してくれないからだろ?」
シンディが必死に絞り出した声に、ファビウスはいとも簡単に返事をして見せた。
「引きこもってばかりだって聞いたけど、届け人の奴とは楽しそうに話すんだな」
薄く笑ってファビウスはデリックを見た。デリックの方は、シンディとファビウスとの関係に戸惑いを示していた。知り合いかを問うような視線をシンディに向けるが、彼女は血の気の引いた顔で固く両手を握りしめていた。
「なあ、いい加減諦めろよ。一人で意地になってたってお前の味方は誰もいないぜ」
「…………」
シンディは、己を守るかのように身体を丸めると、後ずさって窓から遠のいた。たったそれだけで、視界からファビウスの姿は消え去った。
「――おい」
だが、ファビウスはそんなことくらいで諦めるような男ではない。
シンディが返事をしないのを見て取ると、舌打ちをした後、大木に登り始めた。そうして軽々とシンディの部屋の前まで来ると、すぐ側のデリックのことは無視して、シンディだけを見つめた。
「二ヶ月後に王宮で盛大な舞踏会が開かれるの、お前も知ってるだろ? いくら引きこもってたって、家からの連絡は受け取ってるはずだ」
シンディは両手を固く握りしめたまま、彼に背を向け、肯定も否定もしなかった。
事実、確かに実家からは舞踏会がある旨の手紙は受け取っていた。シンディもそれに出席するよう母の言葉が添えられたものが。
「あれ、俺も出席することになったんだ。親父からの謹慎も解けたし、そろそろ社交界にも顔を出せってな。面倒だが、交換条件を出すことで引き受けた。俺のパートナーをお前にってことで」
「――っ」
シンディは、青白い顔で拳に爪を立てた。そうでもしないと、この憎い男の前で無様に震えることになってしまうと思った。
「残念ながら返事はまだだ。でもそれも時間の問題だろうな。天下のバラード公爵家からの申し出を、いつまで拒否し続けていられるか」
思い切り睨み付けたいのに、口汚く罵りたいのに、それもできない。
――囲われる。
また、あのときみたいに高い障壁で囲われてしまうのだ。
シンディはギュッと目をつむり、絶望に染まる視界を閉じた。
――よくよく見れば、金網でしかないその障壁は、登ろうと思えば登れる。にもかかわらず、家柄、社会的地位、醜聞――そのほかもろもろの要素が邪魔をして、一歩も動けないのだ。恐怖や羞恥心――自分自身の問題もある。皆が――金網の向こう側から、シンディのことを笑っているのだ。ただ表面化していないだけで、皆は事実を知っているというのに。影では、皆シンディのことをあざ笑っている。
ピシャリと窓が閉まる音が響いた。ファビウスが侵入してきたのか、とシンディは身を強ばらせたが、窓の向こうには、口を真一文字に結んだデリックがいただけだった。
「な、にを……」
「ちゃんとしっかり鍵かけて。もう寝な」
まるで安心させるかのように、口元に微かに笑みを浮かべると、デリックは再び険しい顔になって、後ろのファビウスに何やら言い始めた。小声で話しているせいか、話の内容までは分からない。
シンディは慌てて窓にかじりついた。
「デリックさん――」
シンディは急いで窓を開けようとしたが、デリックはそれを片手で制した。そして再びファビウスに二言三言口にする。ファビウスの方は、見るからに不機嫌そうだったが、やがてのろのろと木を降り始めた。デリックもその後を追う。
シンディは迷わず窓を開けた。ファビウスと二人きりだなんて、何か良くないことが起こるのではないかとデリックのことが心配だった。
大きく身を乗り出して下を見れば、大木から門へと移動する姿が見えた。このまま外へ行ってしまうのか、とシンディが焦ったとき、二人の足は門のところで止まった。かろうじて窓から二人の姿は見えるが、会話の内容までは聞こえない。もどかしさにシンディは顔を歪めた。どうしてこんなことになってしまったのか。デリックに余計な心配と多大な迷惑をかけてしまったことが、シンディは情けなくて仕方がなかった。
始めは、穏やかに話しているように見えた。だが、だんだん声の調子は大きくなってくる。主にファビウスが声を荒げ、それにデリックが応戦する形だ。その上、ファビウスは足を踏みならし始めた。――機嫌が悪いときの証拠だ。だが、シンディがハッとしたときにはもうすでに遅く、辺りに鈍い音が響き渡っていた。小さく悲鳴を上げると、シンディは身を翻し、すぐに部屋を飛び出した。
――いても立ってもいられなかった。
階段を駆け下り、躊躇うことなくエントランスの扉を押し開く。その光景はすぐに目に入った。赤く頬を腫らしたデリックが、ファビウスに詰め寄られている光景が。
「止めてください!」
ファビウスの前に立ちはだかると、シンディは彼を思いきり睨み付けた。今ならば、どんなことでも言える気がした。
「この方は関係ありません。手を出すなんて最低です。衛兵を呼びますよ!」
「衛兵って……はあ? 先に侮辱してきたのはそっちだろ。届け人だかなんだか知らないが、正義感掲げて俺たちのことに首を突っ込んでくるなよ。なあシンディ?」
吐息がかかりそうな距離で、ファビウスは顔を歪める。
「俺に恥をかかせるなよ? パートナーの件、断ったらそっちの家もただでは済まないぞ」
「――自信がないんですか?」
デリックはせせら笑った。
「断られるんじゃないかって不安だったんでしょう? だからわざわざこんな夜更けに人目を忍んでやってきたんでしょう。昼間家を訪ねても、誰もドアを開けてくれないんじゃないかって――」
「誰にものを言ってる!」
目を血走らせて、ファビウスはデリックに飛びかかった。鈍い音を立ててファビウスはデリックを殴りつけ、デリックの方も果敢に応戦する。
「――っ」
シンディは顔を蒼白にした。激しさを増す殴り合いに、おろおろするばかりだ。しかし、二度、三度とデリックが殴られているのを目の当たりにし、咄嗟に駆け出した。
「誰か――誰かっ!」
シンディは門から飛びだし、人目もはばからずに叫ぶ。
ファビウスは、ああ見えて騎士の一員でもある。貴族の三男坊であるがために、貴族の爵位を得ることができず、仕方なしに騎士の道を進んだことは風の噂に聞いている。しかし、たちの悪いことに、最近彼は騎士に叙任されたらしく、帯刀を許されていた。今は殴り合いの喧嘩だが、いつ剣を抜かれるか分かったものではない。
大通りに出たところで、ようやく巡回中の二人の衛兵に遭遇した。シンディはまくし立てるように事情を説明すると、返事も待たずに彼らを家まで引っ張っていった。
「お願いします、止めてください!」
殴り合いは熾烈を極めていた。互いの青あざも酷くなっている。
「お、おい、何してるんだ!」
二人の衛兵は、慌ててデリック達の間に割って入った。それぞれファビウス、デリックとを押さえるようにして喧嘩を止めにかかる。
「触るな、俺を誰だと思っている!」
ファビウスは大きく身じろぎするが、それ以上に屈強な衛兵の腕は振りほどけない。激高してファビウスは衛兵に頭突きをかました。怯んで一歩二歩と下がる彼を更にもう一回殴りつけ、ファビウスは唾を吐き捨てた
「平民風情が!」
「くっ……」
そのまま険のある瞳は、シンディとデリックに向く。ファビウスは口元を歪めると、ギロリと睨み付けた。
「覚えてろよ」
そうしてそのままふらふらと門から出て行く。その後を、二人の衛兵が追っていった。
ファビウスの最後の言葉に、シンディは背筋を震え上がらせた。顔面蒼白になって唇を噛みしめるが、やがて心配そうに自分を見上げているデリックに気がついた。
「大丈夫?」
つい先ほどまで、自分のせいで殴られた人に心配されてどうする。
シンディは、ハッとして我に返ると、険しい表情でデリックに駆け寄った。彼の背中に手を当てて助け起こしながら、固い声を押し出した。
「どうして喧嘩を売るようなことを? あんなこと……もう止めてください」
「黙って言われるがままでいろって? そんなんじゃ、あいつが調子に乗るよ」
「そうっとしておけばいいんです。あの人が怒ったら、何されるかわかったものじゃ……」
「それじゃ、ずっとやられっぱなしだよ。あいつ、きっとまた来るよ。今度来たら、俺が――」
「危ない目に遭って欲しくないんです!」
シンディは服の裾を握りしめ、大きな声で叫んだ。
「きっと今夜のことで、デリックさん、あの人に目をつけられました。あの人は執念深い人です。きっと気が済むまで追いかけてくるでしょう」
「だ、大丈夫だよ。あの人、俺のことよく知らないだろうし。知ってたとしても、手出しなんか――」
「何かあってからでは遅いんです」
何より、私がこの身をもって体験しているから。
シンディはそっと顔をうつむけた。月明かりの中、幻想的に揺らめくデリックの瞳を、これ以上見ていることはできないと思った。
「好きだから……。あなたのことが好きだから、危ない目に遭って欲しくないんです」
「えっ……」
デリックは言葉を失い、絶句する。
シンディはその瞬間我に返ったが、言葉を撤回するようなことはしなかった。しばらく戸惑ったように視線を彷徨わせた後、言葉少なに立ち上がる。
「――傷の手当てをしましょう」
「あの……」
「何も言わないで」
なぜこんな時にあんなことを口走ってしまったのか。
今更後悔しても、もう遅い。
シンディは溢れ出しそうになる気持ちに蓋をして、真剣な表情でデリックを見つめた。
「とにかく、もう今日のようなことは止めてください。本当に……あの人は危険なんです」
無意識のうちに、彼女の視線は、つい先ほどファビウスが出て行った門の方へ向けられた。
彼のことを考えると、このまま何事もなく終わるとも思えなかった。